Wednesday, July 31, 2013

自意識との戦い

よく見るとやの字がまちがえている
今日は、ふらっとLAダウンタンにある、世界で一番小さな(たぶんね)日本語クリスチャン・ブックストアに行ってきました。
いろいろあった、良さそうな本から、がんばって2冊を選び出しました。
お会計は合計97ドル50セント。
高いな~、ブック・オフで1ドルの本が97冊買えるよ・・・と思いそうなになったけど、やめた。
実際、日本語の本が高いおかげで、大切に何度も読むようになったし、大切に何度も読んだからこそ、わかったことも一杯あるし。
それに、「それほどおもしろくないけど、暇だから読む」という読書をするほど、もう目が良くないのです。


 「本当に苦しんでいる人へ」というすごい帯の本
リトル・トーキョーのラーメン屋さんの看板に『ちゃんぽん』の文字が見えて、すっごく食べたいと思って、すっごく考えたけど、でも、結局食べなかった。
生まれて、一度もひとりでご飯屋に入ってごはんを食べたことがないのです。
メガネのおばさんがひとりで、背中をまるめて、本を読みながらずるずるちゃんぽんを食べていたって、だあ~れも見ていないし、だあ~れも気にしないと自分に言い聞かせて、がんばろうとしたけど、ダメでした。
テーブルが好きなんだけど、熱いちゃんぽんは食べるのに時間がかかるし、ひとりだから、カウンターをすすめられたどうしようとか、チップを少なく置き過ぎたらどうしようとか、いろいろ心配していたら、苦しくなって、結局帰ってきちゃった。
帰ってからベッドで買ってきた本を読んでいて、急に思い立ちインターネットで、十戒と使徒信条に関する信用できそうなメッセージ探してダウンロードしました。
クルマの中やビーチで、家でも洗濯物をたたんだりアイロンがけをしながら聞くつもりです。
それから、父と母とスカイプでおしゃべりしました。
明日は、暇人・賢人を誘ってちゃんぽんを食べに行こう。
絶対。

夏休みパートⅡ

おはよう!
今日から、夏休みパートⅡです。
なにをしよう、どこに行こう。
今日から3日間は、正真正銘の夏休み。
はなはまだキャンプなのだ。
はなに、「ずる~い」って言われそうだけど、今週末から来週にかけては、はなにもお楽しみがいろいろあるし、それより、なにより、はなは今日、キャンプで Splash Aquatic Center というお水の公園のようなところに行くのよ、たのしそ~!
と言いつつ、私も3日間のひとり時間にわくわくしています。
サーファーでもないのに、この頃、週末になるといつもクルマの上にサーフ・ボードがのっかってる私のドロドロのシビック。
とりあえず、このドロドロのクルマを洗いに行きたいのだけど、そうだった・・・、今日もサーフ・ボードをのせる約束があったのでした。
でも、いいや。
今日は、賢人と一緒にずっとビーチにいよう。
朝のビーチを音楽を聞きながら、両手にサンダルを持って裸足で歩き続けよう。

Tuesday, July 30, 2013

『クリスチャンホームの建設』~問題の解決

主の小道はみな恵みと、まことである。
その契約とそのさとしを守る者には。
その人のたましいは、しあわせの中に住み、
その子孫は地を受け継ごう
詩篇25:10、13
あなたは―絶えず変化する自我として、絶えず変化する家族とともに、絶えず変化する世に住む者として―絶えず意思決定をせまられ、問題に直面させられています。
意思決定、あるいは問題の解決にあたっては、心のなかにあるものがあらわになります。
意思決定において、あなたの価値観、信仰、ゴールが活動し始めます。
役割が明確にされなければならないのは、この点においてなのです。
意思決定がなされなければならないとき、あなたは、どのようにして神のみこころを見いだしますか。
権威の所在を決定しなければならない
人はみな、上に立つ権威に従うべきです。
神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。
ローマ13:1
態度は肯定的でなければならない
主は柔和な者を公義に導き、柔和な者にご自身の道を教えられる。
詩篇25:9
忠誠が確立されなければならない
あなたのしようとすることを主にゆだねよ。
そうすればなたの計画はゆるがない。
詩篇37:4,5
価値観とゴールは神に向けられたものでなければならない
神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。
このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。
そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。
ローマ14:17~19
信仰が確立しなければならない
あなたがたのうち、だれが主を恐れ、そのしもべの声に従うのか。
暗やみの中を歩き、光を持たない者は、主の御名に信頼し、自分の神により頼め
イザヤ50:10
意思決定は、心のテスト、関係のテストとなり、また、あなたの価値観の反映、ゴールの反映、あなたの役割を実行する方法の反映となるのです。
ブラント&ダウディ
私は、『悪習慣を断ち切る法』の中でも、『聖められた生涯』の中でも、このこと、この最後の文章に要約されている重要なメッセージを受け取り続けてきました。
何かを選ばないといけない時に、私は自分が何者かを知るのです。
神さまとの関係が、うわべでないことを証明したくて、私は、今日も従う決心をして、そう祈ります。
半年前の私は、朝、目が覚めたそのとき、「今日もあなたを愛し、人々を愛せますように」と祈っていました。
でも、今は違います。
「今日こそ、どうぞ今日こそあなたに従うことができますように。」と祈ります。
私の完全は、おそらく、神が私に与えた潜在能力の半分以下かもしれないけど、それでも、今日の完全を今日の私は今日祈るのです。
アーメン
 
 

 

Monday, July 29, 2013

マイ・ブーム、ふたつ

おつかれさま。
どんな一日でしたか?
私は今日も生野菜を一杯食べました。
『おはようスポルジョン』を書かなかった1週間の間に生野菜ブームがやってきて、毎日せっせといろんなサラダを作って食べています。
今日はゆで卵とひまわりの種をのせて食べました。
チキンをのせる日もあれば、チーズをのせる日もあり、あきることなく、ばりばりと生野菜を食べ続けています。
『おはようスポルジョン』を書かなかった一週間の間に一番よく考えたことは、『完全に従う』ということ。
それで、実験をしてみたのだけど、例えば、『全く従わない』とか『部分的に従う』とかはたくさんの経験がありすぎてあえて実験するまでもないので、『完全に従う』というのをやってみたのです。
ほぼ1週間かけて努力してみました。
結果はすごくシンプルでした。
全く従わない=全く平安がない
部分的に従う=部分的に平安、あるいは部分的に不安
完全に従う=完全な平安
実験してみて初めて知ったことは、完全な平安って、本当に完全に平安なのです。(書いてて、自分でもバカな文章だと思うけど、でもそう書くほかないほどに、そのとおりなのです)

Refreshed

おはよう!
うれしいな、何を書こう。
今朝はね、イザヤを読みました。43章です。
先の事どもを思い出すな。
昔の事どもを考えるな。
見よ。わたしは新しいことをする。
今、もうそれが起ころうとしている。
あなたがたはそれを知らないのか。
確かに、わたしは荒野に道を、
荒地に川を設ける。
イザヤ43:18,19
それで、過去から解放されるようにとお祈りしました。




それがどこであれ、なんであれ、
安住してしまっている過去があるなら、
手放し、解放され、癒され、回復してくださいって。
それで、今朝は再び、さらに、ますます、ブラン・ニューな私です。
過ぎ去った日々にとらわれず真っすぐ前を向いて、てくてくてくてく歩いてゆこう。
さて、今日はどんな一日かな。

Sunday, July 28, 2013

I'm Back!

1週間ぶりです。
とても静かで、ゆっくりとした1週間でした。
箴言を読みました。
3章の2節に「長い日」という言葉が出てくるのだけど、このことの意味がわかったような気がしています。
一日は、24時間は、神さまのみ旨ひとつで長くもなり、短くもなるのかもしれません。
生きて働いておられる神さまが、私の人生の全てを支配しておられます。
毎日、幼稚園に行って、一生懸命に働いていました。
家にいる朝も、夕方も、もう少し、ここまで、ついでにこれも、っといろんなことをしました。
はなのキャンプTシャツが大きすぎて、でもTシャツを着ることがルールなので、かわいく小さく切りました。
亀さんと金魚の鉢の水を取り替えて、模様替えをして(!)、キッチンに引越しました。
それからキッチンのキャビネットの中の調味料や食材を全部出しておそうじしました。
週末は、賢人をせっせとビーチまで送って行きました。
ついでにはなとビーチ周辺を探検したりもしました。
はなのベスト・フレンドのキャサリンのお誕生日会に行ってきました。
新学期のためのお買い物もすませました。
それなのに、とてものんびり、のんびりと時間が流れてゆくのです。
とても不思議です。
私は、まだ、外が明るい時間に、毎晩ゆっくりと熱いお湯につかって、不思議な余裕をだんだん不思議に思わなくなってゆきました。
私の一日は長くなったんだ。
神さまが、私の一日を伸ばしてくれたんだ。
その長くなった一日の中で、もう一度、新しい気持ちで『おはようスポルジョン』を書いています。
お元気でしたか?私はとても元気です。
毎朝、4時に起きていろんなことを祈っていました。
『おはようスポルジョン』のためにも祈りました。
まだまだ、書き続けます。
私には、書きたいことが一杯あるのです。
今週、何度も何度も、新しい記事を期待して、読みに来てくれた人が、たくさんいたことを知りました。
ありがとう。ごめんね、お待たせして。
神さまに祈りながら、書いてゆきます。
一杯の感謝と愛をこめて。
眞紀

Sunday, July 21, 2013

ふるさと

やさしい気持ちで心が一杯に満たされて、一日が終わろうとしています。
私たちが本当の故郷に帰る日があるなら、それは、きっと今日の何倍も何倍も素晴らしい日なのでしょうね。
今夜はふるさと九州は大分を思いながら、イエス・キリストの再臨と、私が御国に行く日、いいえ帰る日のことを夢みつつ、眠ります。
今夜も『おはようスポルジョン』を読んでくれてありがとう。
夜のあいだ中、神さまの愛で守られますように。
そして朝の光の中で、愛に満たされ、元気一杯に目ざめることができますように。アーメン

涙の日曜日




素晴らしい日曜日でした。
広田先生のメッセージのイントロダクションのように歌われた、メグさんの『鹿のように』の賛美から涙がぽろぽろとこぼれてきて、あれ~?なんで~?ととぼけようと思ったのに、礼拝の終わりの祝祷まで、ずっと涙がとまらなかった。
なぜだろう・・・。
賛美に、礼拝に、交わりに、どうして、こんなにまで高揚してしまうのか自分でもわからず、感情を抑えることが、本当に難しかった。
礼拝の後、お茶をいただきながら、メグさんのママ、広田先生の奥さまとおしゃべりしていて、今度は目じりに涙をためて、一生懸命に笑いました。
だって、彼女の救いの証は本当に楽しくて、普通のどこにでもいる平凡で幸せそうな女の子を連れてきて、座らせて、聞かせたら、ころっと一発で信じてクリスチャンになるのではないかと思うほどに、おもしろくて、説得力があったのです。
最後に広田先生が力強く、私の両親のためにメグさんと奥さまとで祈ってくださり、私は、感謝で胸が一杯になって、もう一度泣きそうになったので、あわてて「ありがとうございました。」と席を立ちました。
それから、クルマの中でメグさんの『鹿のように』をipodで聴きながら、そっともう一度泣きました。

『クリスチャンホームの建設』~避けられない変化②

心を尽くして主に拠り頼め。
自分の悟りにたよるな。
あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。
そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる
箴言3:5,6
ある家族は、変化を予期し、変化とともに生きることを学んでいます。
他の家族は、あす何が起こるだろうかと恐れ、不安が彼らをこの上なく無気力にしているので、実際に変化がやって来るとまいってしまうのです。
さらに他の家族は、変化の必然性を認めることを拒否し、不自然な努力によって変化を無視し、あたかも何ごとも起こらなかったかのように生活しようとしています。
変化は、家族の内的な力にとってきびしいテストをもたらすかもしれません。
そのようなとき、家族がその価値観と信仰を、日々の生活の中にどのように含めて行くかが、変化に対応する能力となって示されるのです。
クリスチャンは、変転きわまりない環境を、変ることのない神を見る目をもってながめることができるのです。
クリスチャンは、その生活を、変ることのない神のことばによって規制することができます。
そして、その未来が安全であることを知ることができます。
なぜなら、その神に対する関係は、けっして、変転する力によって乱されることはないからです。
ブラント&ダウディ
子どもの成長も、自分の体の変化も、これはもうどうしようもなく、受け入れざるえない事実、エントロピーの法則(だっけ?)です。
小さく、穏やかな風によって、岩の形が変っていくのと同じで、体を折り曲げて痛みに耐えなければならないほどのことはないと思う。
問題は、突然やってくる大きな変化です。
私は、自分の育った家族の中でも、自分が作った家族の中でも、その大きな変化を一度も経験したことのない者だから、全く、自信がありません。
私が今までに経験した大きな試練のほとんどは自ら選んだ新しいことへのチャレンジ、残りのいくつかは、失敗の後始末、罪の刈り取りでした。
だから、病気や災害や事故や失業や、あるいは死に対する危機対策が、体にも心にも備わっていないかもしれないと、時々思うのです。
私は、それだけがこわくて、いつもいつも、祈ります。
私と私の大切な人を試みにあわせないでください。
私たちが決して苦しむことがないようにしてください。
私たちの周り中に何が起こったとしても、決してそれが私たちにふりかかることがないようにしてくださいとさえ祈るのです。
それでも変化はある日突然やってくるかもしれません。
それでも私は、今日もそう祈るのです。



Saturday, July 20, 2013

Avenue I のターザン

はなが元気に泊まりのキャンプから戻ってきました。
なんだか、ちょっとやつれた感じだったけど、でも、とってもとっても楽しかったそうです。
Night Under the Star Party。
ゲームあり、暗闇の宝探しあり、映画あり、夜食ありの楽しさ満載の一夜をお友だちとすごしてきたらしい。
迎えに行くと、大きなお友だち、10歳ぐらいかな、にハグを一杯もらっていました。
耳のところで、また来年ねって言っているのがちょっと聞こえて、ああ、はなももうそっちに向って成長しているのだなっと、なんだかしんみりしました。
はなを迎えに行ったその足で、そのまま賢人を海に送って行きました。
今度は賢人が生まれて初めての体験、ひとりでサーフィンです。
場所はRedondo Beach。
約束はただひとつ、コースト・ガードの小屋のまん前から一度(角度ね)もそれずに、そこで遊んでねって、それは無理でしょう~、いくらんなんでも、って思ったけど、賢人は、「わかった。だから、やらせて。」って言う。
それで、送って行きました。
Avenue I、9歳から14歳までの6年間、毎年ここで開かれたサーフィンキャンプに参加していました。
通いなれた懐かしいスポット、ストリートパーキングにすっとクルマを止めて、メーターにクォーターを2個入れたところで、気づきます。
サイン・インはありません。
ただのドロップ・オフでした。
あの子はひとりでボードを抱えて、水はおろか、サンダルもはかずに、タオルも電話も持たずに海に降りようとします。
サンダルは?お水は?電話は?と聞くと、「ひとりだからいい。なくなっちゃたらいやだから。」と言うのです。
ああ、ひとりで海で遊ぶって、そういうことよねって頭ではわかるのだけど、心が痛い。
とても。
とても。
親になって16年。
今年は初めてダブルで痛かった。
2時間後、迎えに行ったら、Avenue I のコーストガードの小屋のまん前で、一度も(えっと、角度ね)それずに、すぃ~と滑っておりました。
波の上を、ボードの上に、ターザンのような四足で。

『クリスチャンホームの建設』~避けられない変化

わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。
 ―主の御告げ。
それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、
あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
エレミア29:11
劇的な変化に富む世界にあって、一つの事だけは確かです。
それは「不確実の確実」ということです。
神は、ノンクリスチャンに起こることは、それがどのようなことであっても、信者にも起こることを許容しておられます。
私はこのことを信じます。
ノンクリスチャンは、神に反対して叫びます。
しかし、クリスチャンは言うのです。
「主よ、私に、みこころをなしてください」と。
あなたの状態がどのようなものであっても、あなたがイエス・キリストを信じていないなら、神はどこかに、あなたと同じような状態にある、イエス・キリストを信ずる人を持っておられるです。
変化は、クリスチャンの忍耐力をテストします。
そして変化は、一つ一つの家族をしばしば訪れるのです。
ブラント&ダウディ
そうか。すごいな。
全てのことがクリスチャン、ノンクリスチャンの分け隔てなく起きてしまうのは、その選ばれてしまったクリスチャンを見ながら、ノンクリスチャンがよりよく生きることができるためでもあるとしたら・・・、いろんなことに意味がある。
木曜日に広田先生から日本の東北地方の地震で被災された牧師が、地震の直後に「『この地震によって、大いなる主の御業が起こることを信じてがんばってください』そう言われるのが一番つらかった」と証言していたいうのを聞いて、すごく心が痛んだ。
彼は、広田先生が牧師だから、正直にそう言ってみたのだと思う。
とてつもなく大きな召しに呼ばれたクリスチャンがいて、そのクリスチャンの話を聞くクリスチャンがいて、そのクリスチャンのために祈るクリスチャンがいて・・・。
同じ日の木曜日、私は、ほんのささいなことで、自分がクリスチャンであることを忘れてはなの親として、全く落ち着きをなくしてしまった者だったからよくわかる。
クリスチャンが奮い立つのは、そんな時。
クリスチャンがノンクリスチャンが見ていることを本当の意味で痛感するのはそんな時。

Friday, July 19, 2013

はなのスリープ・オーバー

金曜日の夜です。
さっき、はなを泊まりにキャンプの集合場所に送ってきました。
生まれて初めて家族を離れて夜をすごします。
先週、今週の2週にわたって参加したスポーツジムのキャンプのオプションなのだけど、どうしても参加したいというので、サンンナップしました。
でも本当に大丈夫かなあ・・・。
あの子は賢人と違って、意外とそういう点でかなり普通だから。(ややこしい文章だけど、うちの子達を知っている人はここで、うんうんと、うなずいているはず)
物静かでひとり遊びが上手な賢人と、にぎやかで友だちが一杯いるはななだけど、親への依存度ははなの方がはるかに高いのです。
賢人は4歳で私から精神的に自立し、8歳で私をきっぱりと切り離しました。
はなは7歳半なのに、私と喧嘩したままでは、決して眠ることができないでいるのです。
でもきっと、それこそが普通の7歳半と思うんだよね。



Thursday, July 18, 2013

神さまのアレンジ

神さまの完璧なアレンジでとってもとっても素敵な一日でした。
はなは卒園した幼稚園で夏の楽しいひとときをすごさせてもらい、思い出に残るかけがえのない一日となりました。
ここには書けない大人の事情で、一時はどうなることかと思ったけれど、どんでん返しの逆転のような恵みの一日でした。
そういう日って、思い返すと、なんとなくヘンな感じかあるから、このこともちょびっと祈っとこっていう始まりなのよね、いつも。
今日はとってもいい日だったね~と、言いながら幼稚園を出た約10分後、大分チャペルノア教会の広田牧師に、この広い広い世界の広い広いアメリカの私の住む町から軽く70マイルはある、とある町のとあるグローサリー・ストアで偶然お会いしました。
しかもそれは、まさに私に電話をくださろうとしたその瞬間だったというので、びっくりです。(私は携帯電話を携帯していないことが多く、その時も大きなバッグの底の方につっこんだまま、助手席に置いていました)
買い物をほっぽり出し、その足でそのまま滞在先まで寄せさせていただきました。
私の両親のことを祈ってくださっていること、連絡を取り続けてくださっていること、大分の高齢者に伝道の重荷を持ってくださっていることなどを伺いました。
私は、自分を、神さまからつままれた、ビーチの砂の一粒のように、奇跡的な愛で愛されている、幸運な人間と思い知りました。
時々、そう思うことがあったけど、今日はとことんそう思いました。
広田牧師は今週の日曜日にガーデナにあるのジビックという日本人教会で奉仕をされるそうです。
私の友だちでもある先生の娘のメグさんも賛美の奉仕をするそうなので、今週は、そちらへ足を運ぼうかと思っています。

一本道

昨日、真剣に偉そうなことをつらつらと書いたら、なぜが、とてもすっきりしました。
私は、仕事に関してはある狭い範囲にしか興味がないので、あまり広くたくさんのことを考えると苦しくなります。
書いてすっきりしたので、また、神さまが私の手のひらの上にのせてくださった大切なことに集中しよう。
子どものこと。
それだけ。
今日は、はなと一緒に幼稚園に行きます。
この夏、2度目のボランティアです。
今日は忘れずに写真を撮ってきます。
では、今日も良い日でありますように。

Wednesday, July 17, 2013

分かれ道

たくさんの人が雇われていて、仕事がみごとに分担されていて、働く個人や子を送る親の意見や主張のひとつひとつが学校作りに反映される教育現場とは、みんなが集まるのに、膨大なお金がかかって、何かをひとつに決定するために話し合うのに、膨大な時間がかかって、そんなことはものすごく無駄と私は思う。
(私がちょこっと体験した日本語学校はそんな学校だった。そして、この夏ちょこっと様子を見に行った幼稚園ももそんな学校の中にあった)
親が払う保育料、授業料は、そんなことよりも、そもそも、学校によって最初から決定されているゴール、教育理念に向って、よりよい環境、体験、人材、教材のために支払われるべきと思う。
私は有無を言わさぬ長が確固たるポリシーを持って群れを率いる小さな幼稚園に3年いて、それはそれは全てが合理的と関心するばかりです。
そこにはどこにも、何の無駄もありません。
そして、その無駄のなさは余すところなく、子と親に還元されています。
どんなふうにかと言うと子と親の「満足」にです。
このことを知らずに膨大なお金と時間とを雇用者に支払い、その支払いをさせられている保護者たちがたくさんいる。
無駄のない学校とは、働く人間にとっては時間的、体力的、精神的に、もしかしたら厳しい環境かもしれない。
でもそれとひきかえに、受けるものは大きい。
お金でもなく、時間でもなく天国的に大きいと思う。
子どもと親の幸せを作った報いは、神さまから直接にやってくる。
それと反対の民主的学校で働くってどんな良い点があるのだろう。
両方の良さを合わせ待つ学校など、存在するだろうか?
私は今、それを天秤にのせて、いろんなことを考えています・・・。

Tuesday, July 16, 2013

『クリスチャンホームの建設』~コミュニケーション②

この希望は失望に終わることがありません。
なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、
神の愛が私たちの心に注がれているからです。
ローマ5:5
あなたが、あなたの真の感情、態度、願望を伝達するとしましょう。
コミュニケーションそのものは、必ずしも一致をもたらさないのです。
一致したいという願望が、そこになければなりません。
あなたは、あなたた自身の道を歩むために、あなたの願いを、あなたの夫に対して明らかにするかもしれません。
あなたの目的は、あなた自身の利己的な目標に向って前進することであって、一致を達成することではないのです。
ずっと以前に、ひとりの偉大な教師が、口から出るものは口にはいる物よりずっと重要であることを指摘された。
この偉大なる教師とは、もちろん、イエスです。
私たちは、おのおの自分の道に向って行く傾向があるからです。
結婚した夫婦の間のよいコミュニケーションは、わが意を通すこの傾向を理解し、あなたの配偶者からの正当な戒め、矯正、訓練を受け入れる結果、もたらされるのです。
ブラント&ダウディ
こんなことは、あまり、今まで聞いたことがない話だと思った。
私たちは、自然にまかせていると、自分の行きたい方向にずんずんひとりで歩いてしまうのね・・・。
ヒトは、一人では生きていけない生き物だから、本能的にひとりになるのを避ける傾向にあるものとばかり思っていた。
私が通う通勤の途中の川沿いに、ホームレスのビレッジのようになっている地帯があった。
過去形なのは、しばらく前にそこの木や草が刈られ、彼らは家財道具の一式を抱えてのひっこしをさせられてしまったのです。
約一月ほどかけて、ヒトが暮らした痕跡のすべてがなくなりました。
木や草を刈られると、全てが露わになり、たくさんの人々がよりそって暮らしているのが見えました。
私は、この2年間、そこを通るたびに彼らのために祈っていたので、最後の日に、土手の上をショッピングカードに2メートルほどの荷物を積み上げて歩く2人の女性を見て泣きました。
あの朝の景色を思い出しています。
彼女たちは、決して喧嘩なんてしないと思う。
どこかでなにかをとうの昔にあきらめて、だから、喧嘩は、きっとしない・・・。



Monday, July 15, 2013

NHKバンザイ!

朝っぱらから、ものすごく高いテンションで、書き始めちゃうけど、昨日、『ある日曜日』を書いた後、夫が作ってくれたカレーライスを食べて、なにげなく、カウチに座ったら、すごく変なテレビをやっていました。
それは、とうてい、何も見なかったふりをして立ち去ることのでこない、聞き捨てならないほどの変さでした。
私は、しばらくの間、ただ画面に心と目と耳とが釘付けになっていました。
NHKの『病の起源』という番組です。
それはそれはおかしな仮説が、まるで、誰かが見てきて証明した事実のような前提のおかしな理屈でした。
何がどう嫌なのかがちゃんとわかりたくて、がんばって見続けました。
やっと番組の全体的な意図―ヒトの病気とは過去によって運命つけられた進化の副産物という説―がぼんやりわかってきたので、もういいと思って立ち上がろうとしたその時、夫がビールを持って、私の斜め向かいに座ったのです。
彼と入れ違いにそこから立ち去るは、あまりにも感じがわるかもと思い、ちょっとだけがまんしようと思ったのだけど、3秒後に私の口が勝手に吐き捨てるように言ってしまったのです。
「進化論って、仮説じゃないの?日本のクリスチャンの親たちは、こんな根拠のない研究をテレビ番組にされて気の毒だわ。」と、まるで喧嘩を売るように。
(ああ、でもここからが実に私が今朝、書きたかったことなの)
10年前なら、絶対ここから喧嘩が始まっていました。
だって、彼は進化論を信じるというよりは常識のよう思っているのですから。
それなのに、彼は言うのです。
私は今朝になっても信じられないのだけど、「チンパンジーからヒトへなんて、いくらなんでも隔たりがありすぎて、自然じゃないよね」と。
私は番組で受けた異常なほどのインパクトの58倍くらいのインパクトでそこに倒れこみそうになって、「寝るわ」と一言言い残して、彼をひとりその場に置き去りにし、よろよろとベッドに向ったのでした。
なんてこったい。NHKバンザイ!


Sunday, July 14, 2013

ある日曜日

右のおじさん、つり竿を持ってつりをしていた
どんな日曜日でしたか?
私は早朝に賢人を海に送って行って、一度家に戻って、はなを連れて教会に行き、再び賢人を迎えに海に行きました。
ちょっと時間があったので、クルマをとめて、砂浜を裸足で歩きました。
時々、波がくくくっと押し寄せてくるのを、がんばって逃げながら、賢人のいる24と25の間まで歩きます。
コースト・ガードの小屋の番号です。
帰りはPCHで帰ってきました。
シビックの上でサーフ・ボードがあまりにもぶんぶん揺れて私は本当に泣きたいほどこの仕事が嫌い。
それでフリー・ウェイはあきらめて、下の道を帰ることにしたのです。
家にボードを置いて、家にいた夫と4人でごはんを食べに行きました。
和風チャイニーズな海鮮かた焼きそばを食べて大満足して帰り、午後はベッドで本を読んですごしました。
すごい本です。
途中でうたた寝をしていたのに、うたた寝しながらも、本のインパクトにどきどきしていました。
メガネをかけたままで眠っていたので、痛くて目を覚まして、続きを読んで、ついに読み終えてしまいました。
誰も書いたことのない、自分のスタディを本にまとめるってものすごい、チャレンジだと思う。
きっと、反対勢力のプレッシャーとかも一杯あったと思う。
それでも、本となって、こんな私のところにまで届き、私に新しい聖書の読み方を運んでくれるって、本当にすごいことと思う。




『クリスチャンホームの建設』~コミュニケーション

自分にしてもらいたいと望むとおり、
人にもそのようにしなさい。
ルカ6:31
もしあなたが、あなたの配偶者に、自分の真価が認められ、あなたの感情、あなたの願いが尊重されることを願っているならば、あなた自身が、あなたの配偶者の感情や願いを尊重する、意識的な、また継続的な努力をしなさい。
あなたとあなたの配偶者が、お互いのことばに耳を傾け、理解したいという願いをもって近づくとき、ふたりは、それによって、相互のコミュニケーションが可能な堅固な橋を築く準備を完了したのです。
健全な結婚を形成するに当たっては、自分の配偶者の真の価値を認識―賞賛と言ってもよい―し、それを表現するための意識的な努力をすることが、きわめてたいせつです。
あなたは、あなたのネガティブな反応を隠そうとしたり、意見の相違があるとき、口実を設けたり、責任を転嫁しようとしたりして、成功することはありません。
関係が緊張してくるとき、理解しなければならないことは、そのようになった理由と、それを改善するにはどうすれなよいか、ということです。
私たちは、意見、態度、感情をあからさまに正直に分かち合うより、むしろ互いに離れ離れになってしまう傾向があるのです。
ブラント&ダウディ
どう思いますか?
私には、何よりも、どんなことよりも、このコミュニケーションという課題が一番、難しいと思います。
それは、他のどの人間関係においても同じです。
まさに、最後の文章にアーメンです。
でも、これこそが最も大切なことなのだとも、最近ようやく思えるようになってきました。
ようやくです。
しかも、夫に対してのみの限定的解放です。
彼は、私が彼の前に座ると、話を始めます。
たわいもない話です。
私はただ黙って話しを聞きながら、時々質問したりします。
ただそれだけなのに、いろんなことがわかってきます。
ここにくるまで、この結婚が破綻せずにいたのは本当に奇跡としか言いようがないと、私は毎日そう思うのです。
 


Saturday, July 13, 2013

7枚のシャツと幼稚園の先生、間違ったイメージと犬について

☆今日は、はなは近所のお友だちとプールに行っているので、私はとことん家事にいそしみました。(いそしむなんて言葉、生まれて初めてつかった気がします。)
夫が仕事で着るシャツ7枚にアイロンをかけながら、彼は今週、一日も休みがないのだな~、と気づきます。
☆さっき、とある幼稚園のディレクターという人から電話があり、私は、じっと息をひそめて、録音になるのを待った。(えらいでしょ。ちょびっとは、学ぶのよね、過去の経験から。)
そしたら、とってもナイスな声のナイスな日本語で、「ちょっと、お聞きしたいことが・・・・、でも、またかけ直します。」なんて。
やっぱ、幼稚園の先生はこうだよね~。
でも、なんだろう。
ちょっと気になったりして。
☆昨日幼稚園で、差し入れのチップスを貪るようにぽりぽり食べていたら、若い先生達の視線に気づき、「?」となっていると、「まきせんせいがそういうものをおいしそうに食べているって、すごくショッキングなんですけど。」と言われ、私は、どんな食べ方をしていたのかしらと思い、ものすごく恥ずかしくなって、逃げるように教室に戻りました。
後ろで、「かぼちゃのカップケーキとか、そば粉のクッキーとかそんなイメージでしょ」「そうそう」という声が聞こえて、体が火みたいに熱くなちゃった。
こわいわ~、イメージって。
☆どんな犬がいいかな。
雑種以外飼ったことがなくて、今まで飼った雑種はどのこもみんなとってもおりこうで、遊ぶのが大好きだったから雑種がいいな。
できれば、誰かが世話しきれなくなった成犬がいい。
遊べなくてもその方が私たちには合っている気がする。
私と夫はもうすっかり体力の下り坂なので、自分達でしつけをするには子犬はあまりにもチャレンジが大きいように思うのです。

『クリスチャンホームの建設』~役割を理解する②

どうか忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、
互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。
ローマ15:5
「妻たちよ。あなたがたは、主に使えるように、自分の夫に従いなさい。・・・教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。」
この箇所は、非常に明確に、男性とその妻の関係について語っています。
彼女は、夫に従うべきなのです。
私たちの時代の多くの男女は、この「従う」ということばを、女性の興味や能力を無視した、無礼なことばであると考えているようです。
なぜなら、服従を妻に期待することは不合理だからです。
夫は妻のかしらです。
しかし、このことは友情、誠実、善意の土台の上に立っていなければなりません。
家庭の方針は、彼女がその作成に参加したものでなければなりません。
そして、それに従って行動し、それによって制限させるものでなければならないのです。
私たちは、決定がなされなければならない時には、妻に相談が持ちかけられ、その意見が真剣に考慮されるのが当然であると信じています。
結婚においては利己的なものがあってはならないのです。
夫も妻も、結婚における最上の目標に、自らを従わせなければならないのです。
ブラント&ダウディ
昨日、たまたま犬のことを書いたら、今日の箇所がこんなところで、どっきりしています。
ある日、幼稚園から帰って家のドアを開けたら、見ず知らずに犬に吠えられた、なんていうこともありうるのが人生なわけだから、相談をしてくれて、私が、じゃあ、探しにいこう、と言うのを待ってくれている夫は、やはり彼が彼であるゆえんなのでした。(彼とはそういうオトコなのです。この20年ずっと。)
それで、私は、今朝、犬がいるのもいいかもと考え始めています。
私は、本当は歩くのが大好きで、幸い私のシビックはもう誰がどんなふうに汚しても誰も気にしないほどに、外も中も年季がはいった愛されようなので、これがさらに犬に愛され、犬をのせて、山やら川や海やらを歩きに行くのも悪くないかもって。

Friday, July 12, 2013

三つのてんてんてんまる

☆幼稚園のサマー・キャンプの第一週が無事に終わりました。
短い夏休みを終えて、子どもたちの真ん中に戻って、感じることは、「やっぱり私はここが好き」ということ。
それはとても幸せな発見だと思う。
うすうすそうではないかと予想していたけど、やっぱりそうだった。
でも、なぜが、それがちょっと残念なのです・・・。
☆夫が犬を欲しがっています。
彼はずっと小さい頃からそばに犬がいて、今、人生で犬いない歴たったの2年でもう限界のよう。
私は、犬も犬の散歩も大すきだけど、果たして、今の私に犬の満足を満たしてあげられるだけ、歩いてあげられることができるだろうかと思う。
ジロくんが生きていた頃、彼はごはんとトイレの世話が専門で、私はひたすら散歩とシャンプーの係りだったのだ。
でも、そんなことは彼の記憶からすっかり消えていて、餌を与えたこともないあなたに犬を飼うことに反対する権利などない、と彼は言う・・・。
☆ついにはなも、ブギ・ボードをやってみたいと言いはじめました。
私は、今より7歳若かった賢人の時代にさえ、一緒に遊んであげる自信がなくて、キャンプにいれて、なんとか難を逃れた。
それで、急に思い立って今年ははなをビーチ・キャンプに入れることを考えています。
ニューポート・ビーチあたりで。
でも、賢人も9歳の夏にレドンド・ビーチで参加したビーチ・キャンプがサーフィンを始めるきっかけだった・・・。





自分時間のすすめ

おはよう。
金曜日です。
うれしいな。
なんだか、とっても新しい気持ちで目が覚めました。
昨日のレッスンのおかげです。
レッスンの直後は頭の中がからっぽになって、すごくいい気分だし、夜は、心地よい疲労感に包まれて深く眠れて、朝はわくわくと幸せな気持ちで目覚めます。
前にも書いた気がするけど、私はこの、愛する誰かに少しだけがまんしてもらって、『自分時間』を定期的に持つことを、全ての中年オンナたちに声高らかにすすめたい。
もらった愛は何倍にもして返せるからだいじょうぶ。
妻でも親でもせんせいでも友だちでもクリスチャンですらなくなってしまって、ただ、何かに集中してみると、本当にやるべきこととか、やりたいこととかがより鮮明になってゆくの。
より、やさしくなれて、力もわいてくる。
とても不思議です。



Thursday, July 11, 2013

危険と安全の間の小さなスペース

はなとバレエ・レッスンに行ってきました。
どんなに疲れていても、がんばって行けば、必ずかえってリフレッシュになる私の週に一度のデボーション的習慣です。
一切を忘れて集中するって、こうでもして時間を切り分けないことには難しいと思う。
難しいこと自体がすでに危ない感じがするかもしれないけど、でも私はしあわせです。
いきなり話は変るけど、えっと、卒園式の日のこと。
無事に式典を終え、荷物が満載のバンの荷物の隙間に小柄な園長が乗り込み、どうぞとすすめられるがままに私はゆったりと助手席に座ってしまい、運転する先生と3人で幼稚園に向う車中で、「ごめんなさい、先生。」と私はあわてて園長にあやまりました。
だって、彼女は園長なのに、荷物の隙間に、その隙間の形に自分の体を合わせてしゃがんでいるのです。
そしたら、彼女は「だいじょうぶ。慣れてるから。」と言うので、ちょっと、びっくりして、「えっ、慣れているんですか?」と聞くと、「こういうはちゃめちゃにという意味。」というのです。
そして、私は、ああ、私も同じって思いました。
私も慣れている。
安全と、危険の境目の線の場所がおんなじって思った。
そして、荷物の間にちょこんと座る、彼女は確かに幸せな人にみえた。
いろんな不都合や、緊急や、一時的な非日常や、せっぱつまったぎりぎり感って、私も実はすごく平気。
そんなことにいちいち、文句を言っている人に限って、普通の何もかもが正常な中にいても、やっぱり文句だらけだったりすると思う。
バレエ?いいわね。そんなヒマないわ。ってね。

『クリスチャンホームの建設』~役割を理解する①

ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。
また、愛のうちに歩みなさい。
キリストもあなたがたを愛して、
私たちのために、ご自分を神へのささげ物、また供え物とし、
香ばしいかおりをおささげになりました。
エペソ5:1、2
人間は、何世紀にもわたって、自分の生活を健全なバランスのとれたものにするという重荷を負わされているように思われます。
たいていの人は、重要なものと重要でないものの間の選択をしなければならないのではなく、善であり、しかもこのうえなく重要な多くの責任と機会の間の選択をしなければなりません。
幸福な人とは、彼の幾つかの役割の、どれが優先するかという観点から考えない人であるということ、一つの役割が他の役割と、より高い位置を競い合うとは考えない人であるということです。
少年少女は、権威に対する彼らの態度の幾分かを、自分の父親から学びます。
また、男性がその家族の中において占めるべき地位についての態度、また、男性がその妻や他の女性をどのように取り扱い、またそれらの人々からどのように取り扱われるべきかについての態度の一部を、同じように父親から学びます。
父親がけっして忘れてならないことは、次のことです。
すなわち、彼がその役割をどのように果たすかといことが、その家族だけでなく、将来形づくられる子どもたちの家族をも、ほんとうの意味で建設し、あるいは破滅させる、ということです。
ブラント&ダウディ
男性が担うたくさんの役割のに対する、ひとつひとつの考え方が、とても細かく教えられていましたが、それは、(父親の部分以外)すっぽり割愛しました。
立場的に、そこにあてはまらない私がそれを書いちゃうと、なんだか「教えている」っぽくなりそうでいやだったから。
オトコは大変だな~と思う。
私は、本当に心から無責任にそう思う。
いつかはながお風呂で私に言ったどっきりするひとこと。
「はなはオンナでよかったよ。好きなことだけして暮らしていられるから。」
私は、無言ではなにそう教えていたのかもしれない、そう考えてみている。

Wednesday, July 10, 2013

持病の発作

連日の寝不足で疲れがピークに達し、持病の発作が起きています。
お昼寝の時間に5歳の女の子が、「まきせんせい、あのね、ママがね、まこちゃん(彼女のなまえ)にすっごいこわいものを見せたんだよ。」っていうので、つい興味をそそられて、「なに?テレビ?」と聞くと、「そう。すっごくこわいの。まきせんせいも聞いたらこわくて泣いちゃうかも。」と言います。
ますます興味をそそられて、「だいじょうぶ、おしえて。」と言いました。
するとまこちゃん、じっと私の目を見すえ、声をひそめてまじめくさってこう言います。
「あのね、うみのおはなし。そのうみはくろくてとげとげがあるの、それで、うみの中のこんぶをね、ぜ~んぶたべちゃうの。むしゃむしゃむしゃむしゃ。うみ?あ、ちがった。うにだ。」と。
もう私は、どういうわけか、そのかわいい、いい間違いがつぼにはまり、30人近い子どもたちが、し~んと寝静まったお部屋でくすくす、けたけた、げらげらと笑いの発作が始まってしまったのでした。
私は疲れがピークに達すると、ささいなことで笑いの発作が起きちゃって、眠るまでそれが続くので、今日はかなりおかしなヒトでした。
帰りのクルマの中でも、家に着いても、まこちゃんの「あ、ちがった。うにだ。」のかわいい声を思い出して何度も笑っています。
誰かにシェアしたかったのに忙しくても誰にもできず、まこちゃんのママには会えずに帰ってきて、今ようやくここに書いて少し落ち着きました。
はあ~。



楽しくておいしくてうれしい1日

おはよう。
今週は、なかなか、『クリスチャンホームの建設』がはかどらず、まだ水曜日というのに、家の中はすでにごちゃごちゃしはじめ、冷蔵庫の中はからっぽで、洗濯籠は山。
そして、まだあと3日もあるというのに気分はすでに金曜日・・・。
よし。
今朝は、何か特別に元気が出るものをクルマの中で聴こう。
今日は、何が特別なお楽しみを幼稚園にももっていこう。
今夜は、何か特別に元気が出るものを買って帰ってみんなで食べよう。
だからがんばってほんの1時間ぐらいを割いて態勢を立て直そう。
洗濯機をまわしながら、落ちているものをひろって、ゴミを集め、トイレを磨こう。
神さま、どうか今日を特別に祝福してください。
あなたの光の真ん中で、あなたを愛し、家族を愛し、人々を愛することができますように。
楽しくて、おいしくて、うれしい1日をあなたと一緒に作ることができますように。アーメン


Tuesday, July 9, 2013

長い1日

ただいま。
今日は大切な用があって、仕事が終わったその足でLAダウンタンまで行き、散々迷子になって、ようやくたどり着き、無事に用件は終わり、たった今帰ってきました。
金魚と亀以外みんな眠っています。
夫は私が帰ると一瞬目を覚まし、臨終の人の遺言のように「ああよかった。お帰り。」とつぶやき、再び死体のように静かに眠りはじめました。
ホームレスがあっちこっちに座りこむ倉庫みたいなところで、放し飼いの大きな犬に見つめられたりして、なかなかスリリングな冒険でした。
GPSに入れた住所のEとWの違いでとんでもないことになったけど、でも結果おーらい。
日本語を話す韓国のおじさんに会ってきました。
たどたどしいのに、気持ちの伝わる上手な日本語に、すっかり昨日の傷も癒されちゃった。
そう、言葉とは、言語とは、母語とは、外国語とはきっとそういうものなのだ。
気持ちが声を通して言葉に変身し、相手に届いてしまう。
話す人の人柄が純粋であればあるほど、良い思いも悪い思いも相手に伝わってしまうものなのかもね。
そう思えばとってもなぐさめられる。
だから私も、気持ちに自信がないときには、話すのも、書くのも待つことにしよう。
韓国のおじさんの話を聞きながら、そう思いました。
今日はとっても長い1日でした。
おやすみなさい。
明日も良い日でありますように。



Monday, July 8, 2013

『クリスチャンホームの建設』~適切なゴール・人とあなたの関係

このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、
人々があなたがたの良い行いを見て、
天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
マタイ5:16
すべての人間関係―家庭における関係すら含めて―におけるすぐれた実際的な法則は、キリストの次のみことばに示されています。
「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。」
あなたが他の人からしてほしいと思っておられることは何でしょうか。
「ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。」
あなたの他の人に対する扱いは、彼らの応答がどのようであるかによって左右されてはなりません。
そうではなく、あなたが理解している彼らの必要によるべきです。
あなたがお仕えしているのは神です。
もしこのことが真実なら、他の人の応答は、あなたにとってほとんど無関係です。
「返してもらうことを考えずに」―これは、あなたの行為の健全な土台です。
それならば、あなたの幸福は、他の人がどのような行動をとるかということに依存していません。
あなたの報いは、あなたが神に従ったということからもたらされるのです。
ブラント&ダウディ
何度も読んだり聞いたりしてきたはずの大切な真理なのに、まだ、自分のものになっていないなと思った。
でも、幼稚園というところは、このことを実践するのに、どこよりもわかりやすく、やりやすい場所なのです。
例えば、周囲で、自分中心、自己満足な仕事の仕方をしている人がいたとして、その人に腹が立つことがあったとして、そこに呼ばれてその人のやらないことをさせられたとして・・・・・、ここで子どもに焦点を合わせれば、呼ばれなくとも、やらずにはいられなかったりするのが、幼稚園という場所なのです。
子どもたちの必要は後を絶たず、神が送ってくださった子どもたちの必要とは、神さまの必要そのものなの。
私にとって、こんなにわかりやすい、働きやすい職場は他にないと思う。
そう、頭ではわかっているのだけど、時々、心からかちんときて、問題を作り出している人、問題を無視している人から焦点をはずせない時がある。
でも、時々は私も問題を作っているのだよね。
てか、時々じゃないかも。
うん、絶対。
アーメンです。


 


Sunday, July 7, 2013

賢人と優子さんとゆりかさんのこと

☆キャンプから帰ってきた賢人が、あんまり元気がないのがちょっと心配。
声もヘンだし、ただでさえ口数が少ないのに、それが、本当に喋らなくなっているから、話をするきっかけさえ、つかめずにいます。
恋でもしたのかしらん・・・。
相手はイエスさまだったりして・・・。
聖霊さまの稲妻に心を砕かれたとか。
何でも、ものごとを良いほう、良いほうに解釈するのは母ゆずりです。
☆東京から来ている優子さんに、「まきさんの朝のデボーションを読んで眠るのよ」と言われて、とっても不思議な、でも敬虔な気持ちになりました。
御言葉と、偉い先生の本の解説を交差させながら、そこにずうずうしく垂直に切り込む私の気持ちや考えは拙く幼稚このうえないものなのに、用いてくださる神さまと、それで安心して眠れるという優子さんの励ましに、深くて重たい御心を感じます。
☆今日のディナーはすずきのお刺身ときゅうりの漬物。
すずきはゆりかさんちのゆうちゃんが釣り上げたもの。
きゅうりもゆりかさんちのお姑さんが育てたもの。
幸せな母、幸せな嫁であるゆりかさんを友とする私も幸せ・・・。アーメン


不幸せ→ヨハネ9章→嫉み

そこで、イエスは言われた。
「わたしはさばきのためにこの世に来ました。
それは目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
ヨハネ9:39
 礼拝後にガーガー公園でのミニミニスモールグループ
ごく最近発見した、ごく個人的な幸せの法則があります。
私が一番幸せな時は、心で感じていることと、頭で考えていることと、体でやっていることがひとつの時。
それで、今日のヨハネの9章のメッセージを聞きながら思いました。
盲人の目を開かれたイエスの癒しの奇跡を、心のどこかで信じているのに、頭ではこのヒトこそメシアって考えたのに、嫉みに駆られて、癒された盲人を嘘つきということにして追い出したこのパリサイ人たちの悲しみは大きかったに違いない。
それはそれは悲しい不幸な話と思う。
でも、・・・そう、でも。
人の嫉みとは、そんな悲しみをも乗り越えさせる大きな力があることも、これまた事実。
大きな大きな悲しみの波にのまれそうなときには、いつも思い出そう。
この日のパリサイ人と同じ嫉みの中に私はいなかなって。
『悲しみ→ヨハネ9章→嫉み』と心にばっちり刻みました。


『クリスチャンホームの建設』~適切なゴール・個人的成長

わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。
もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。
あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、
あなたがたをわたしのもとに迎えます。
わたしのいる所に、あなたがたをおらせるためです。
ヨハネ14:2,3
クリスチャンにとっては、死は新しい夜明けです。
予測できないある日、私たちはイエスにお会いするのです。
それゆえ、私たちの究極のゴールは、神の御前における永遠の生に対する備えをすることです。
永遠のための準備―その中には、罪の結果からのがれることのみでなく、神とともに生きる積極的な用意をすることも包含されています―は、あなたにとって、積極的に追求する意識的なゴールとなっているでしょうか。
聖書は、私たちひとりひとりがどのような人間でなければならないかについて、多くのことを語っています。
それはあなた自身についての明確な理解をもたらす。
それは義への指針である。
それは平安への指針である。
それは安定への指針である。
それは将来の信仰の内容をもたらす。
あなた自身についての明確な理解。
幸福な人とは、その外見が人に受け入れられ、その内的生活が神に受け入れられる人のことです。
あなたの人生観が、他の人に対し、物質的な事に対し、将来に対しての意志や態度の多くを決定するのです。
円熟したクリスチャンは、その中にあるすべてのものは一時的である、という態度です。
彼はキリストの再臨を待ち望んでいます。
彼の願いは、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励むことです。
ブラント&ダウディ
家族がすやすやと安らかに眠っている、まだ薄暗い日曜日の朝が大好き。
大きなコップになみなみと注いだお水をごくごくと飲みほし、自分のためにコーヒーを2杯分を作って聖書を開きます。
今回のデボーションの初日から聖書を毎朝5章と決めて、しおりのように、茅野で出会った前澤千代子さんのお孫さんの写真をはさみました。
本の方には河野牧師に抱かれた赤ちゃんを囲んだご家族の写真がはさんであります。
生きることは、愛すること。
愛することは、家族が増えること。
P.S.写真はプリントされて、切手を貼った封筒にはいって、お手紙と共に届きました。
Eメールでおくられたイメージだったら、こんなふうに聖書や本にはさめなかったし、この本を選んでデボーションをしようって、そもそも思わなかったかもしれません。
神さまは、本当に完璧に全てを支配しておられる思う。はれるや。
 
 



Saturday, July 6, 2013

刺身の牽制とスケボーの祈り

うわ~、今日はなんだか仕事をしたわ。
とっても充実していました。
どんな仕事かはまだ秘密。
新しい何かにつながりそうだったら、少しづつ書いていくね。
どうか、そうなるように祈っていてください。
でも、作業をしている間、ずっと神さまをすぐ近くに感じられたから、「これかも~」なんて期待しています。
さて、今夜はいよいよ賢人が1週間のキャンプを終えて帰ってきます。
淋しいのは最初の1日だけで、あ、これはこれで、なかなかいいわねなんて、私らしいでしょ。
洗濯物も減るし、お刺身はいつもの半分の量で3人で大満足だし。
何よりもスケート・ボートを抱えて出かけてから帰ってくるまでのなんともいえない祈りの訓練からつかの間解放されていたし。
大洗濯と共に帰ってきて、また、明日からお刺身の日はちょっと遠慮がちに「サーモンを3切れいただくわ」と言いながら、心の中で必死に「スケボーで死なないで」と祈る日々が戻ってきます。
それもまた、私の幸せなのだけどね。

『クリスチャンホームの建設』~信仰と行為

義人はいない。ひとりもいない。
悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。
善を行なう人はいない。ひとりもいない。
ローマ3:10~12
家庭を確立し、家庭生活をなし、子どもたちを教育し、リクリエーションを楽しみ、社会生活をいとなみ、両親として、隣人として、市民として、教会員として、責任を引き受けるといったゴール―に向って努力しているという点において、クリスチャンと非クリスチャンと少しも異なっていないように思われるのは、不思議ではありません。
人間の内的生活は、美しいものではありません。
上品で、十分な栄養をとり、情緒的にも安定し、親愛感にあふれた人々ですら、内的に幸福を探求して見出さなければ、あわれな状態にあります。
長年のカウンセラーとしての経験からわかったことは、心の平安を得ようとして苦闘しているクリスチャンが、口では信仰を表明していても、それをほんとうに理解せず、あるいはそれを生活の上に実践していないということです。
私たちの時代のはなやかさの背後に、思慮深い人たちは、不安―それは、活動をやめて静かになるとともに現われてきます―からのがれる道を求めている大衆を見ているのです。
私たちクリスチャンにとって重要なことは、この気違いじみたメリーゴーランドから降りて、人間とは何か、人間は何を必要としているかを考えてみることです。
人間のジレンマの解決は、環境の気まぐれを一時しのぎにごまかすことによってえられるのではなく、むしろ誠実に神の方に向き、からの手をさし出して、健全に人生を歩む内的な力を受けることによってえられるのです。
私たちはみな、クリスチャンでなくても模範的な生活をしている人々を知っています。
そしてクリスチャンであると称しながら、不幸であり、失敗続きであり、利己的であり、不正直である人々を知っています。
人が自らをよくするために、キリストによりたのんでいるか、あるいは自分自身の最上の努力によりたのんでいるかは、外部からはわかりません。
人はりっぱな演出をすることができます。
しかし、そのような演出をしている者の心は、その者を責めています。
キリストのみが、心を一変させることがおできになるのです。
ブラント&ダウディ
私は、おおむね、考えられる限り、最大限に正しいノンクリスチャンと共に働いています。
そして、おおむね、考えられる限り、最大限に正しいノンクリスチャンとの夫と共に家庭生活を運営しています。
彼らは私の目に、おおむね幸せそうに見えます。
私は、おおよそ、考えられる限り、どのクリスチャンよりも、心の中にぐちゃぐちゃに絡んだ黒い毛糸をつっかからせっぱなしだし、たくさんの大きな失敗をくり返しているし、悔い改めるスピードに新しい罪を犯すスピードが追いつかないクリスチャンです。
でも、絵本の『とこかえっこ!ねずみくんのチョッキ』みたいに霊をとりかえっこしようとは決して思いません。
情けなさすぎて、ちらっと、ああもう死にたいとか思う瞬間もあった気がするけど、でもクリスチャンとしてでなければ、もう生きる価値なんてどこにないのです。
アーメン



Friday, July 5, 2013

もう、だから、でも

おつかれさま。金曜日だね。
今週もいろんなことがあったけど、無事に週末です。
体を動かすと頭の中もくるくる働き、体の動きをとめると頭の中もとまってしまう気がします。
仕事が始まったとたん、また頭の中がうるさいほどにくるくると動き、「ああ、もう、時間のある時にこの考えを整理しよう」なんて思うのに、時間ができるとせっかくのアイディアがつまった頭がからっぽになっちゃうような・・・。
でも、この小さな夏休みパート1の中でひとつだけはっきりとわかったこと。
私は、いつも新しい何かに挑戦したくてうずうずしているということ。
もうこんなにたっぷり年をとってしまったから、だからこんな自分をもてあましているのです。
でも、やっぱりその気持ちは抑えられないのです・・・。
こまったオンナでしょ、ほんとに。





Thursday, July 4, 2013

二代目&三代目

世間体フリー2代目
ハッピー4th of July、 いかがおすごしですか?
私はこの2年間、『おはようスポルジョン』に日本から熱いフィードバック送り続けてくれている東京の優子さんと、私のすぐそばでいつも読み続けてくれているゆりかさんとはなと4人でJuly 4thにしては静かな公園で、のんびりとすごしてきました。
私は最近、仕事と書くことに一生懸命すぎてあんまり大人としゃべっていなかったし、書いたことを話題にされるのがとっても苦手(嫌いっていう意味じゃなくて恥ずかしいのです)なので、最初はちょっと緊張してもじもじしてしまったけれど、少しづつ慣れてきて、結局最後は喉が痛くなるほどしゃべって帰ってきました。
話が私の両親のこと、母のことまでさかのぼって、超盛り上がり、私は、私という女は世間体という柵(しかがらみと読むようですよ、この漢字)というか、世間さまという偶像に全く支配されていない、自由人だという結論に達し、そうだそうだとゆりかさんと優子さんがものすごく納得して、感動していたのが、印象的でした。
そっか~、それは考えてみたこともありませんでした。
でも私の母は本当にそういう意味で自由に生きていました。
世間体フリー3代目
どちらの田舎でもない新天地、九州で親戚づきあいという重荷もさほどなく、夫婦単位で生活の方向が決まっていたし、大体、母の口から「世間」なんて言葉は生まれてこのかた、一度も聞いたことがないもの。
そして私は、―兄も、いつも安心してワルサをして、その後始末が手に終えない時には、誰よりもまず親に泣きつくことができました。
父と母はいつもそこから私を助けてくれて、決して、世間さまという偶像を私に紹介することがなかったので、私は全く、本当に全く、そんな存在を知らずに成長することができました。
それで、ゆりかさんと優子さんは、「だからまきさんは、なんでも自由に、あるがままをさらさらと書けるのよね~、すごいわ~、まきさんのママ。」としみじみ感動してくれました。
それって、喜んでいいのかしら?
よくわかんないけど、ふたりがとおっても感動してくれているからいいや!
ハレルヤ!



Wednesday, July 3, 2013

『クリスチャンホームの建設』~強固な土台

「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、
あなたの神である主を愛せよ。」
これがたいせつな第一の戒めです。
マタイ22:37

幸福な結婚は、完全にマッチしたパートナーを幸運にも選び出すという事実に依存しているのではありません。
それは、ふたりの自由な個人-彼らは、熟考のうえ、同じくびきを選び、お互いに快適な生き方をするため、不断に個人的な自由と利益を犠牲にしているのです-によってなされる多くの選択と多くの調整に依存する、生涯を通じてのプロセスであるのです。
土台の要素
1、神に対する愛をはっきり言い表して実証すること。
あなたは、神を愛し、あなたを通して神の愛をあふれさせるという機構の中において、あなたの配偶者を愛し、他の人々を愛するのです。
神に対する愛に徹することが、結婚の相手をも含めて、他の人々に対する全き愛を生み出します。
2、あなたの人生の案内書として聖書を受け入れること
高価な聖書を買い求めたり、それをどこへでも持って行ったり、聖書のことを敬虔そうに語ったり、日ごとのデボーションのような形で聖書の一節を急いで読んだりすることが、聖書の内容をあなたの生活の一部にすることではないのです。
むしろ、神のみことばをあなた自身の信仰とすることにより、イエス・キリストが言われた事がらを受け入れることこそ、聖書をあなたの人生の案内書とすることなのです。
ブラント&ダウディ
聖書を貪るように読んでいたあの頃、私は、毎日毎日離婚を考えていました。
賢人は、まだ3歳で、今なら彼らを傷つけずに上手に別れられる、きっと良い方法があるはずだ、きっと神さまが助けてくださると思って、新品の聖書がぼろぼろになるほどに毎日探しました。
でも、そのことへの神の答えはきっぱりと「NO」でした。
どこをどうめくっても「NO」だった。
そしていつしか私たちの結婚は生き返りました。
そのうち、聖書を貪るように読むこともなくなっていました。
もう、一度、あの頃のように聖書を読もう。
生き返ったこの結婚を、さらに新鮮に養っていただくためにはそれ以外にない。アーメン

Tuesday, July 2, 2013

かりっぱなしの本でデボーション

かりっぱなしの本があります。
かれこれ、5年ぐらいずっと借りていて、もう、自分のものにしちゃおかな~時効だよね~返す機会があったら返すけどでもまだ読み足りないのよね~という本です。
ヘンリー・R・ブラントとホーマー・E・ダウディという2人の人の書いた『クリスチャンホームの建設』。
持ち主は安藤秀雄牧師。(すんません、ながいこと・・・。)
夏が来るたびにひっぱり出して読んでいます。
去年は長野のミッション・トリップにも持って行きました。
いつも新鮮な発見のある、いつ開いても新しい不思議な本。
その中の一節。
「神に対する愛に徹することが、結婚の相手をも含めて、他の人々に対する全き愛を生み出します。それとは逆に、不完全な関係は、神との不完全な関係の結果です。」
ああ、なんてアーメンなのと思う。
つべこべ言わずに実をつけるクールなクリスチャンになりたい!
心からそう思う。
んで、この本を明日から、毎朝、開こうと思うのよね。
また、つきあってくれますか?
もちろん、イエスでしょ!いぇ-い!

いつも灯台はそこにある

主は天から目を注ぎ、
人の子らを残らずごらんになる。
御住まいの所から
地に住むすべての者に目を注がれる。
詩篇33:13,14
 
主よ。あなたの恵みが私たちの上にありますように。
私たちがあなたを待ち望んだときに。
アーメン
 
今日で、夏休みパートⅠは終わり、明日から幼稚園でサマーキャンプの仕事をします。
自分がどこに行って、何をするべきなのかわからないまま、短い休みはあっという間に終わってしまいました。
それを考えたかったのにね。
もしかしたら、答えは幼稚園の中にあるのかもしれません。
答えは子どもたちが知っているのかもしれません。
お天気がよくても、嵐でも、いつも灯台はそこにある。
私には見えない日にもそこにある。
 
 
 
 


Monday, July 1, 2013

AABA

ろうそくのあかりの中で、船の霧笛や波や雨の音を集めたCDを聴きながらあつ~いお湯につかって、お祈りしました。
それはなかなか宗教的な雰囲気の漂う、夫が帰ってきて、間違えてバスルームのドアをあけてしまったら、さぞや驚くであろう、超個人的な時空間でありました。
あまりにも気分よく長湯をして、ふらふらになったのでしばらくベッドにごろんと転がっていました。
手をのばして届くとことにあった、薄い文庫本を読みながら。
何の期待もなかったそこに、笑ってしまうぐらい、かゆいところに手が届く感じの文章があったので、何度も読んでしまいました。
それはサビのない音楽について。
商店街で演奏するチンドン屋の『オブラディ・オブラダ』にメビウスの輪的な迷路にはまりこみ、なんともかんともうずうずして、何がいけないのだろうと、よ~く聴きつづけていたら、サビがなかったというオチでした。
ああ~そういうことだったのねって思った。
サビのない音楽。
サビのない話。
サビのない文章。
サビのない人生。
サビのない人。
AABAのAがごはんならBはおかず。
Aが勉強ならBは遊び。
AがファクトならBはオピニオン。
Aが仮説でBは実験。
Aが祈りでBは行動。
BのないAって、そう。
サビのない『オブラディ・オブラダ』なのよね。
もって行き場のない疲労感は意外と尾をひくと結んでいたけど、全くアーメンと思う。
めざせ、Bのある人生 AABA-AABA-AABA-AABA。

ひとりぼっち

ひとりです。
夫は仕事、賢人はやまごもり、はなはスポーツジムのキャンプに行きました。
今日と明日は私の本当の夏休み。
どのくらいぶりかな?春休み以来なので4ヶ月。
静かなピアノ曲が家中にやさしく流れ、その向こうから亀さんと金魚の水槽のぶくぶくが、かすかに聴こえます。
まずは熱いお湯にゆっくりとつかりたい。
そう、新しいロウソクを買ったの。
Caribbean Sea Salt という香りの。
これに火を灯して。
それからビデオを見ます。
大好きな『紅の豚』、暴力シーンが一杯の『紅の豚』を誰にも気兼ねなく、納豆スパゲティを食べながら。
はなが大きらいな葱と、賢人がきらいな大根おろしと、夫の苦手な生のオクラをここぞとばかりに盛大にのせて。
書きたいことがあったんだ。
今の気持ち。
書くってすごく孤独。
書くってすごくひとりぼっち。
書けば書くほど、どんどん私はひとりぼっち。
読まれれば読まれるほどどんどん私はひとりぼっち。
夕べ、夢をみました。
誰かの声が「さみしかったら、書くのをやめて、こっちにおいで」って木々の向こうのキラキラする光の方から聞こえてきました。
でも、見えるのは葉っぱと葉っぱの間からちらちらとみえる木漏れ日のような光。
私は、森の中でちょっと考えました。
それから空をみあげました。
そしてまた歩きはじめました。
薄暗い森の中の小道を。
ひとりぼっちで。
てくてくてくてく。