Friday, January 31, 2014

神さまは生きて働いておられる

金曜日の夜です。
おつかれさまでした。
どんな一週間でしたか?
私は、いろんなことがありました。
びっくりするほど悲しいこともありました。
でも、だいじょうぶ。
ちゃんと、バラバラにならずになんとか、私でいられています。
前に、夫にお弁当をそのまんまゴミ箱に捨てられているのを見つけて、悲しかったとということを書いたことがあります。
私が想像できる中で、それは最も残酷な仕打ちだけど、今度のはもっとすごかった。
夫婦喧嘩は猫も食わないとも言うし、それがどんな意味かはよくわからないけど、話してもちっともおもしろい話じゃないからくわしくは書きません。
ただ、それは、これまでの結婚生活の中で、一番悲しい出来事でした。
でも、聖霊に守られ、不良ではあるけれど、クリスチャンの端くれとして、まともに祈ることができたことは、主の憐み、恵み、祝福、奇跡です。
そして自暴自棄になることなく、自己麗憫に陥ることなく、静かに祈ったら、ちゃんと、欲しかった平安がもらえました。
大人の文章でこれを証できればいいのだけど、今夜は、これが精一杯です。
神さまは、生きて働いておられます。
ほんとうよ。
私の人生に、そしてあなたの人生に。



Thursday, January 30, 2014

捨て身の改心とはなの幸運と一杯の大豆のこと

☆一生懸命、できるだけ、やれるだけ、私の精一杯、100パーセントで臨んでも、「何これ?テーブル出てるじゃん、これってこのまんまじゃ危ないでしょう、何にも準備してないし、バック、バック、しゅしゅぽぽ、しゅしゅぽぽ」というあの方に、「黙っとくたい」とい言いたい気持ちは、もう起きなかった。
心の中でこっそり「無邪気なノイズ」と思うのもやめた。
そんな気持ちにきっぱりさよならを言って、尽くすだけ尽くす覚悟を決めました。
期限をきって。
はっ、はっ、はっ、これが捨て身のクリスチャンのあっけたか~んとした最後の大サービスです。
もち米の賭けに負けて以来、気持ちがすっかり楽になりました。
☆お昼休みに、はなのアフター・スクールからの電話の録音メッセージにドキドキしながらコール・バック。
なんと、ピアノのレッスンに空きがでたとのグッド・ニュースでした。
はなが抱えている曲をみてもらえらたらどんなに助かることかと、ウェイティング・リストにのせてもらっていたのです。
賢人が10分2ドルで週に2回ほど、ほとんど弾けるようになった状態のはなの練習につきってくれていたので、その先生に譜読みを手伝ってもらえたら、私とはなの朝の練習の険悪ムードがどれほど改善されるだろうと、大いに期待しています。
朝が変れば、1日が変る。
1日が変れば、人生が変る。
☆今日は幼稚園で豆まきをしました。
炒った食べられる大豆を「年の数だけ残してね」と引き算で出したら、「まきせんせいも、一緒に食べようよ」ってみんなに言われ、年を明かすと、引き算どころか、豆は足らず、オフィスから追加をもらい、どれほどみんなと違うが比べました。
「すごいね、僕のママより一杯かも」って褒められました。
それから私の豆をみんなに分けて、みんなでおなか一杯になりました。

かぞくのためのおいのり

私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、
御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、
私たちのためにとりなしてくださいます。
ローマ8:26
神さま、
ぼくの おうちをしゅくふくしてください。
神さまの あいと、神さまの おめぐみで
きぼうのつまったたねが、
しんせつと いやし という はっぱをつけ
わらいの あふれる 花を さかせ
へいわの 木に そだち
みたま の みを つけますように。
そのみを なかよく 分けあって たべながら
天こくの おうちへの みちを
あんぜんに たびする ことが できますように。

Wednesday, January 29, 2014

えみちん③最終回・不良クリスチャンのチャレンジ


私は幼稚園の先生って、子どもにとっての動く生きた環境だから、いろんな人がいてもいいと思うのよね、ホントのところ。
いろんな人がいた方がいいっていうか。
でも、親や一緒に働く人たちや雇い主の気持ちの平和も大切ということもわかるから、今、その訓練を私自身が、えみちんをだしに受けていると思ってがんばっています。
社会人として常識や、一般社会の礼儀や、好かれる仕事の仕方。
私はクリスチャンだから、他の先生と違う点って一杯ある。
子どもたちの服装も、お互いが与え合うことのできるかけがえのない環境だから、いろいろでいいと思っていて、でも、ノンクリスチャンの世界にはいろいろな当たり障りがあって大変です。
賢人は1歳から8歳までの7年間毎日帽子をかぶり続けて、どこでもそれで通っていたのは奇跡だったなって今、あらためて思う。
お友だちは賢人の絵に必ず帽子を描いてくれた。
あの子がそれをとるのは、シャワーの時と、眠る時だけ。
それが賢人の心の平安のために必要なら、それは、私たちにとっての心の平安だったから、帽子を禁止したことは、一瞬もなかった。
日本のミッションスクールは服装に厳しすぎるから、中高合わせて6年通っても賛美歌を〝にゃあにゃあ〟でしか歌ったことがないなんて子がいるだと思う。
い~つくしみ、ふかき♪ も、にゃあ~、にゃ、にゃにゃにゃにゃ、にゃ~、にゃ♪ って歌うそうよ。
神のボートクなんていえないかわいさを感じ、そのガンコさはそれはそれで立派かもって思う私はやっぱり正真正銘の不良です。
えみちんと共に学ぶ、遅れてやってきた幼稚園の先生・不良クリスチャンの私です。





朝のおいのり



神さま、
あさ、まだしずかなときは、
神さまが、そばに
いらっしゃるのがわかります。
ひるまのにぎやかな ときにも、
神さまが そばにいらしゃるのが
わかりますように。
アーメン



Tuesday, January 28, 2014

えみちん②

コーディネイトbyさくら(4)
アフター・キンダーの子どもたちと外で凧揚げをして遊んでいたら、えみちんが「いろいろ、教えてくださってありがとうございます。それなのに失礼な態度をごめんなさい。」と言いに来ました。(これ、昨日、周囲の苦情をまとまりなく本人に告げた結果、単に私が上手に教えられなかったってことなんだけどね)
あははと思って、とっておきの話をしてあげました。
幼稚園の先生って、実はとてもマルチな能力のいる特殊な仕事なので、誰もが最初から上手にできるわけではありません。

おかわりどうぞbyさくら(4)
おばあちゃんのように物知りで、スチュワーデスみたいにソツなくサービスできて、ウェートレスのように気が利き、先生みたいに賢く、ママのようにやさしいくって、看護婦さんのように冷静、お笑い芸人みたいにおもしろく、警察官のように正義の味方、消防士さんのように勇敢、お父さんのようにコワイ人、それが幼稚園の先生。
だから、誰も完璧にこなすことはできないし、誰にでもはじめられちゃう。
でも、やるからには、ひとつでもたくさんの仕事ができるプロになりたいよねって。
私だって、まだまだ、全然これからなのだよね。ジッサイ。



えみちん

昨日、賢人と話す前は、ずっとパートナーの先生のことを考えていた。
幼稚園を出て、はなを迎えに行って、家に着くまでの間、ずっと。
彼女の賜物、神さまが彼女にだけくださっているギフトを、幼稚園のみんな、子どもたちと親たちと先生たちのみんなでシェアできたら、どんなに素晴らしいだろうと思う。
そのためにはどうすれなよいだろうとずっと考えたいた。
三角を2回折って、横と上下をちょんちょんと折るだけの、折り紙もろくに折れないヒト。
1ガロンの糊の代わりに1ガロンの白い絵の具を持って来て、1カップも無駄にしちゃうヒト。
一生懸命なヒト。
がんばっているヒト。
私の大切なヒト。
神さまがお造りになった尊いヒト。

Monday, January 27, 2014

賢人の願い

ただいま。
帰って賢人の部屋を覗き、夏のことをちらっと聞くと、私の目をじっと見据えて、日本にミッション・トリップに行きたいってはっきりと言いました。
よっしゃあ!
母はまずはチームメンバーに選ばれるようにと祈りましょう。
参加資格から1年ほど若いあの子は行けないかもしれないけど、このプロセスは来年、もしかしたら彼に来年はないかもしれないけど、でもその思いは必ず将来へとつながり、決して無駄になることはないと信じて、母は本人には内緒で2200ドルのサポートが集まるようにとも、さっそく祈りはじめましょう。
それから、そのために、母は、本人のとは別の、私の思いをクリスチャンの友人に宛てたレター作りもはじめましょう。
私は、こういうことへの実際的な仕事が大好き。
始めると、心の中にあったいろいろな迷いがどんどん整理され、すっきりしてゆく。
手を動かし始めると、だんだんと確信が形になってゆく。
自分のことじゃないけど、でもあの子がそれを望むなら、母はなんでもやります。
祈ります。
例え途中で道が閉ざされたとしても、それもよし。
この出発、この献身の気持ち、これこそが大切なのだから。





Sunday, January 26, 2014

親と子と友と

☆静かな日曜日の夜です。
父と母とひさしぶりにスカイプでおしゃべりしました。
私がここで書くことをどこの誰よりも敏感に深く読み取り、そして心配してくれていました。
この年になってまでも親に心配をかけていることを情けなく思う反面、その年になってまでも、心を砕いて子のために祈れる、現役の親である両親と、両親への神さまの祝福を感謝せずにはいられません。
☆賢人が夏のミッション・トリップについて真剣に考えています。
ずっと祈ってきたけれど、いまひとつ自信がなく、どうしていいのかわからないようです。
あの子は日本に対する憧れや、日本人の小さな子どもに対する特別な愛情があるのを自分で感じているのだけど、それにどう向き合ってよいのかわからずにいます。
神さまが、彼に、明確な使命を与えてくれるようにと祈っています。
☆ゆりかさんとはなと私の3人でリトリートに申し込みました。
賢人も行くけど、あの子はユースの大部屋に寝るそうなので、女3人で気楽だわ~。
今から、とっても楽しみ。
だって温泉!、しかもそれぞれのお部屋に深いバスタブ。
夢みたい。
私は夏は冷房に震え、冬は冬の寒さに震える寒い寒い女だから、ものすごく温まりたい願望が強いのです。
☆礼拝の後、例によって、ゆりかさんと超・スモールグループでいつも2倍の時間をかけてじっくりメッセージのシェアリングをしました。
そして、私は今日、心から、この、信仰の友、祈りのパートナーを感謝しました。
つきあってきた時間とか、お互いの信仰についての理解以上の何かが私と彼女の間にはあるなって思ったのです。
それがなんなのかは、わからないけどね。









勇敢であるということ

あなたがたは、世にあっては患難があります。
しかし、勇敢でありなさい。
わたしはすでに世に勝ったのです。
ヨハネ16:33
メッセージがエジプトでのヨセフの話になると、もう私には自分の涙をどうすることもできず、しゃくりあげるのをこらえるのが精一杯でした。
ヨセフの1万分の1ぐらいの苦労なら私にもわかるから、だから、涙が溢れてとまらなかった。
そしてヨセフが、かの地で学んだスキルには、とてつもなく大きな価値があることも、私には、なんだかわかる気がした。
私は、もっともっとヨセフに習うべきなのだろうか、それとも、イスラエルを目指して祈りはじめるべきなのだろうか・・・。
神さま、勇敢であるということを、どうぞ私に教えてください。
そして、どうか私が勇敢になれるように、守ってください。

心を静めて、耳をすまして、前を見つめて

神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、
それは私たちの働きによるのではなく、
ご自身の計画と恵みによるのです。
Ⅱテモテ1:9
昨日の聖会のメッセージで、神さまが私にくださった聖句です。
この言葉を胸に抱えて、感謝と感動で胸が一杯のまま、いつの間にか眠っていました。
神さまは、私を聖なる神のご計画のためにお造りになったと、今朝心から信じます。
心を静めて、耳をすまして、前を見つめて、神さまとはぐれないようにしなければ。
神さまには私が見える。
私に神さまは見えない。
神さまは私の道をご存知でおられる。
私にはわからない。
神さまは私をそこに導かれる。
私は神さまについてゆく。
心を静めて、耳をすまして、前を見つめて。
P.S.じょえるは、いろんなことができるようになりました。
「じぇい」と呼ぶときます。
「ステイ」というと、そこにとどまることもできます。
「しー」というと、吠えるのをやめます。
でも、喜びのジャンプだけはやめられません。
たぶん私が神さまのことか書かずにはいられないのと同じね。



Saturday, January 25, 2014

ああ、神さま、あなたはマジすばらしい!

サウスベイ地区の新年聖会に行ってきました。
ドカンと聖霊に打たれて、へろへろになって帰ってきました。
どれだけ打たれたかというと、午後のメッセージを聞かずに帰ってしまったほどです。
いっぱいいっぱい、too much、もうどこにもなんにもはいりません―お弁当ははいったけどね。
奇しくも今日は、勤め先の幼稚園で明日のバザーのために、私のコ・ワーカーたちはボランティアで準備に精を出しています。
3年前の東北を襲った大地震の被災者に届けるお金のために、お料理をしたり、ゲームを作ったり、寄付を仕分けして値段をつけている、まさにその時、聖会に集められたクリスチャンたちと心をひとつにして彼らのために祈ることができたことに、心から感動、感謝しています。
数少ないノンクリスチャンの友だち、早苗ちゃん、東京の千代ちゃん、大分の純子ちゃんのためにも祈ることができました。
そして・・・・。
最も感動したことは、私が絶対に祈らなかった出エジプトのことを祈っていた人に偶然に会ってしまったこと。
これは、このことは、あまりにも、大きすぎて、すごすぎて、素晴らしすぎて、感動的すぎて、今はまだ何も書くことができません。
私は、今日ほど、聖書の中のイスラエル人の気持ちを自分のことのように感じたことはありませんでした。



ヤコブの餅

宣告。
マラキを通してイスラエルにあった主のことば。
「わたしはあなたがたを愛している。」と主は仰せられる。
マラキ1:1
旧約聖書の最後の書、マラキの1章の1節はこんな言葉ではじりまりました。
そしてその後、主はエサウではなくヤコブを愛したと続きます。
営利的というか商業的というか興行的であったとしても、成功の鍵となるのは、結局は、真心がこめられているかどうかだと思う。
最高のもの、最上のもの、最善のものを追求して、提供したい気持ちは、提供する向こう側に大切なことを据えていなければ、できない、大変な仕事です。
私は、そのことを、今、勤めている幼稚園で学びつつあります。
(ああ、どうしよう、とまらくなっちゃった、この先は6月まで書かないつもりでいたのに・・・)
実は、木曜日の夕方、もち米と赤いボールを幼稚園から持って帰ってきました。
餅つき機にお米をセットする12時間前の9時半ぐらいに、研いで、お水にひたしておきました。
めずらしく夜更かしをしていたはながそれを見て、ベッドで本を読んでいた私に、「あれはなあに?」と聞きにきました。
それで、「幼稚園のもち米よ」と答えると、驚いたことにはなは、いろんなことを思い出して話はじめたのです。
「ちょっと色がちがうんだよね、普通のお米とは。そしてお水につけると大きくなるし。はなも、もう一度たべたいな~、いろんな味があったね。あんこ、黄な粉、醤油。ねえ、ママ、はなにも、もらってきて、お願い。」って。
私は、すごくショックで、ショックのあまり、ただ「そうね、できたらね」とだけ言って、本の続きを読んでいるふりをしました。
でも、金曜日は1日中、忙しさのあまり、はなにお餅をもらうだなんて、すっかり忘れていて、でも帰りにキッチンの前を通りすぎようとして、思い出し、フリーザーにすでに子袋に分けられていたのを、黙ってもらって帰りました。
お札のサイズのジップロックに3個はいったのを、ふたつ。
そして、はなはピアノのレッスンが終わって家に入るやいなや、「お餅もらえた?」と聞きます。
私は、お餅なら、家のキャビネットにも、冷蔵庫にもあるのに、って思いながら、盗品のお餅をマイクロウェーブに入れてお醤油をかけて海苔と一緒にだしてあげました。
はなは、3個ぺろりと食べ、普段お餅を食べない賢人も3個を三くちで食べてしまいました。
今朝、マラキを開いて、あれはヤコブのお餅だったのかもしれないと思いました。
私は、ここ2週間、お餅作りに関わっている先生たちのご苦労を側で見て知っていたので、恐れ多くてそれを、結局口にできませんでした。
でも、どんな味だったのだろうと、今朝、マラキを読んで思います。
明日は、幼稚園のバザーです。
ハタチ基金http://www.hatachikikin.com/への募金のためのバザーです。
ここで、このお餅も商品として売られます。
商業的、興行的、あらゆる意味でのバザーの成功を信じて祈っています。




Friday, January 24, 2014

長距離通勤の意義

金曜日の夜です。
今週は月曜日がお休みだったにもかかわらず、長くって、重くって、苦しい一週間でした。
木曜日の夕方、ひとりで賭けをしました。
小さな時からよくやる賭けで、私はこんな賭けで人生の大きな岐路を決めてきました。
そしてそれでおおむねうまくいっているから、こんないい大人になってもまだやっています。
それはこんなふう。
もしも、もち米の袋が夕方6時に、まだ幼稚園にあったら、持って帰って、おうちで研いで、12時間ほど水に浸して、翌朝持ってこよう。
そして、ここでの仕事は今学年で終わりにしよう。
もしなかったら、持って帰ってくれた人に感謝して、もうしばらく、ここにいさせてもらおうという賭け。
その賭けの答えは、6月までのお楽しみ。
仕事にどこまでコミットメントできるかは、妻の私、母の私、働く私、教会員の私、ただの私が集まって相談して決めました。
平たくと言うと、幼稚園の大きな赤いボールとお米の袋をうちの小さなキッチンに運んでしまうと、片道1時間半もかけて気もちを切り替えるために遠くまで帰ってきた意味がなくなっちゃうのです。
全くややこしい私です。
でも、仕方がない。
これが私だから。
長距離通勤を支えていたものはガソリンでも時間でもなく、ただただその意義、理由であったこと、遠くの幼稚園だから、こんなに何もかも忘れて、ぐぐぐ~っと集中して仕事を楽しめていたこを知りました。



Tuesday, January 21, 2014

黙っとくたい

まだ火曜日なのに、すっごく疲れて帰ってきました。
距離的にも、時間的にも、(やりたいことが一杯な)気持ち的にも、(やることが一杯の)役割的にも、そして何よりも年齢的に限界なのかもね。
アフター・キンダーの子どもたちの素敵な写真を取りたくて、お餅つきの石臼を、木で組んだかっこいい台に乗せようとがんばったけど、無理だった。
クラスのみんなでがんばったのに1センチしか持ち上がらず、子どもたちに、あきらめることを教えてしまったようで、悲しかった。
おまけに、こんな日こそ、ぜひとも避けるべき、無邪気なノイズ、今さら言われたところですでにどうしようもないアイディアっていうか、偉そうな野次馬の「言うのは簡単な御意見」を浴びせられ、くらくらです。
今日ほど、無邪気なノイズをコネクターごと引っこ抜いて踏み潰し、九州弁で『黙っとくたい』とトドメを刺しておきたい日はありませんでした。

脱・ちゅーずでい・ぶるー

神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、
御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
エペソ1:4
おはよう。
夕べ、友だちママに送られて、賢人は無事に戻ってきました。
じょえるが喜びまくって、しばらく賢人から離れず、いつのまに、そんなに友情を深めていたのかと驚きます。
お部屋に入る賢人の後ろをついて行って、「ごめんね、片付けちゃった」って言うと「ありがとう」だって。
やっぱ、主の山帰りは違うね~!
聖書の通読は、ほんとは『ハバクク書』だけどでも、私はなぜかマンデー・ブルーが重く、火曜日になると、もうほとんど、専業主婦になりたいと玄関の柱にしがみつきそうなほどなので、今朝は元気の出そうな『エペソ人への手紙』を開きました。
山も川も砂漠も海も街も会社も学校も幼稚園も家も、どこにいても、何をしていても、主が側におられること、共におられることを、信じて、私も、今日という日を精一杯に生きよう。
私たちは、神さまの壮大で遠大な宇宙大の目的の、大切な一部として存在しているのだから。
私たちは、みこころによりご計画のままをみなじ実現される方の目的に従って、
このようにあらかじめ定められていたのです。
エペソ1:11





Monday, January 20, 2014

心の節約、時間の節約、お金の節約

どんな連休でしたか?
私は、と~てものんびりしていました。
賢人がいないので、ビーチに送って行く仕事も、英語礼拝の後の迎えもなく、土曜日も、日曜日も、そして今日もとても長かった。
まとまった時間の中でじっくり集中して、いろんなことしました。
ずっとやりたかった写真の整理もしました。
扉を開くと、合計5枚の写真が飾れる、フォトスタンドにプリスクール、キンダー、1年生、2年生のはな、そして、その真中にはなのプリスクールの卒園の写真を飾ました。
キッチンキャビネットの食品や冷蔵庫の中も整理しながら掃除しました。
シンプルに暮らしたいって願っているのに、どんどんいろんなものがたまってゆくのは、本当に贅沢で、罪深い悩みだなと思います。
捨てないように、無駄にしないようにと気をつけながら献立作りに知恵をしぼります。
夕方、はなとお買い物に行きました。
はなと賢人が学校に持って行く、サンドイッチの材料、スナックのフルーツと週の終わりのドライフルーツとナッツ類とを買い込んだ後、はなが、私にお弁当のバックを買ってと言います。
自分のじゃなくて、ママお願いだから、新調してって。
それは生成りでふくろうの絵で、大きさといい、形といいまさに私の好みで、毎日仕事に持って行く、LLBeanのトートにもすぽっとはいりそうだったけど、でも、はなに言いました。
「どんなにかわいくても、素敵でも、買うお金があっても、必要のないものは買わないの。買わなければ、まだ大丈夫な古いものをどうするか考えなくてすむでしょ。」
それが私の節約の理由。
考えるのが嫌だから、邪魔に思ったり、捨てたりするのはもっと嫌だから、だから買わない。



恐怖の大掃除

母親にとって、世界で一番こわい場所。
若干16歳の男の部屋。
そこへ、掃除機、モップ、バケツなどの仲間を引き連れ、どっぷりと半日かけて挑み、徹底的にぐいぐいと清めた。
結論。
賢人の部屋から出てきたおそろしいものは、私が考えていたようなポルノやバイオレンス関係ではなく、なんと2年前の夏に一週間毎日着たであろう、バケーションバイブルキャンプのネームタグが貼られたままのT-シャツとカラカラに干からびたゴキブリの死骸、そして相手のいないソックス約10足。
かわいいものも一杯でてきた。
お誕生日カードの束、インディジョーンズや忍者タートルのレゴの人々、一緒に覚えた日本語みことば暗誦カード。
あの子は時々、脱皮するかのように、発作的にものをばんばん捨てるのだけど、レゴの人は取っていたようです。
この記事も彼の部屋から書いているけど、コンピューターの中身もちらっと見るかぎりこわいものは見あたらず、ほっとすると同時に、でもいつかは必ず、思わぬ時にそんなものと遭遇して、ノックアウトされちゃうのだろうなと思うと、先延ばしになっただけの恐怖であるような気がしますが。やれやれ。



Sunday, January 19, 2014

アモスのとりなしとマザーの教え

見よ。わたしは命じて、ふるいにかけるように、
すべての国々の間でイスラエルの家をふるい、
一つの石ころも地に落とさない。
アモス9:9

アモスが必死にとりなそうとしている罪を、今の私に置き換えてみると、どんな罪にあてはまるだろうと考えてみました。
私は、貧しい人々を残酷に支配しながら、きれいなお城に住んで、きれいなドレスを着て、毎日ごちそうを食べたりはしていなけけど、小さな子どもたちのやわらかな魂は、権威者の前の貧しい人にとても似ていて、弱いものだから、そんな罪を犯さないようにしなければって思いながら、このアモス書を読みました。
昨日、お掃除をしながら、インターネットで聞いた話。
ノーベル平和賞を受賞したマザー・テレサへのインタビューに、「マザー、私たちが平和のために今すべきことはなんですか?」というのがあり、マザーの答えは、「うちに帰りなさい。そして家族を愛しなさい。」というものであったそうです。
心にズキンと刺さりました。
お弁当作りや、はなのピアノの練習や、賢人のお金の催促とその理由などを、朝の、短い時間にバタバタと荒々しく対処し、叩きつけるように解決して家を出た日の私は、幼稚園の子どもたちの前でも、かたい気持ちのままでいることがあるからです。
全てはそこから始まっているという、マザーの教えとアモスのこの最後の章の言葉に、今朝は心からアーメンと思いました。

見よ。その日が来る。
主の御告げ。
その日にには、耕す者が刈る者に近寄り、
ぶどうを踏む者が種蒔く者に近寄る。
山々は甘いぶどう酒をしたたらせ、
すべての丘もこれを流す。
アモス9:13

Saturday, January 18, 2014

Happy to Me

さっき書いた記事は、教会のホームページから引っ越してきて、ここでひとりで書き始めて500個めだったようです。
すごいね。
一年も経たないのに、500個って、一日一回以上書いてきたわけね・・・。
毎日通勤に3時間かけながら・・・。
毎朝、弁当4個作りながら・・・。
すごい。
えらい。
誰も言ってくれないから自分で言っちゃう。
よ~く、がんばっている。
これからもがんばれ。

のんびり土曜日

今日は、ちょっとだけがんばって、家の中を片付けてお掃除しました。
小さいから片付けはあっという間に終わるけど、古いからお掃除は大変です。
やっても、やっても終わった感じがせず、汗だくになりました。
賢人がいなくて、レドンドビーチまでの送り迎えがないので、長い、ゆっくりとした土曜日です。
夕ごはんは時々むしょうに食べたくなるお好み焼き。
賢人がいたら、彼が大を3枚ぐらい食べるから、キャベツを刻むのに大忙しになってしまうお好み焼きディナーも、はなと二人なら大きな一枚を半分こでラクショウです。
今朝書いた、『どんぐりの導き』にたくさんの応答があって、ちょっとびっくりしています。
でも私は、それはあまり気にせず、これから先も祈りながら、淡々と書き続けたいです。
そらいろおうちの住人たち、静かに家をでた人々は、その後、みんなとても元気に幸せです。

どんぐりの導き

2000年の夏の終わり、3歳の賢人と手をつないで、胸をどきどきさせながら、彼にとって初めての社会、幼稚園の扉を開きました。
YOU&I Church Home School という自主保育グループ、コープ幼稚園、12組の親子と3人の先生方、ウォーターズ牧師とイエスさまの小さな幼稚園でした。
今思えば、あそこは特別な、夢のような場所であったなと思います。
私はこの幼稚園でクリスチャンになりました。
子どもむけの聖書物語と、子ども向けの福音のメッセージと、そして、子どもたちと祈る祈りの中で、「ああ、そうなんだ」って信じて、イエス・キリストを自分の造り主、救い主、主として受け入れました。
友愛幼稚園が夢のようと思うのは、そこが今では跡形もないからです。
もし跡形があるとするなら、それはそれぞれの卒園児とママたちの胸の中、先生方の胸の中。
そして、ただひとり、私がクリスチャンになったこと。
幼稚園を支えてた教会も、もうありません。
それはまるで、『そらいろのたね』のおはなしのそらいろのおうちのように。
そして、私は、教会がどうしてなくなったのか、たぶんただひとりで知っていました。
アイスエイジでどんぐりを追いかけるりすが、後ろで崩れる氷の山に全く頓着せずに、命の危険も知らずに、走ることができたのは、あのどんぐりのおかげだけど、私もあのりすのようだったなって思います。
そらいろのおうちの住人、人も動物たちも静かにいえを去りました。
あのどんぐりは、たぶん、聖霊。
私はそう信じています。
そして、巨大な氷の山を崩したのは、その小さな小さなどんぐりの実だったのです。

Friday, January 17, 2014

Hi,sis.

一週間で一番ほっとするひととき、金曜日の夜です。
今夜の月はおそろしいほどに美しく、サン・ペドロの港の夜景にころんと落ちてしまいそうなほど、地上の人口の光と張り合って、港とひとつになっています。
賢人は、ウィンター・ビジョン、冬のバイブルキャンプに無事出発しました。
はなと私は3連休です。
どんな一週間でしたか?
私は、ひとりになるたびに、それはほとんど仕事への行き帰りのクルマの中だけど、将来のことを考えていました。
ずっとこのまんま、同じでいられるような気がどうしてもしないけど、かといって風もなく、波もありません。
そんな中をただ静かに祈っていました。
今日の幼稚園のお茶会にボランティアにきてれれた茶道の先生は私のクラスの男の子のママで、そしてクリスチャンの女性です。
2000年に、当時つきあっていたクリスチャン・アメリカ人のボーイフレンドのことをもっとよく知りたくて聖書を読みはじめたそうです。
その後、彼の祈りと励ましによって、キリストを受け入れ、洗礼を受け、結婚し、以来、御主人と一緒の日曜礼拝と教会の女性たちとの英語のバイブル・クラスを欠かしたことはないと言っていました。
私が聖書を本気で読み始めたのも2000年だったから、同じねって思ってうれしかった。
そう、全ては2000年の夏の終わり、3歳と3ヶ月の賢人が幼稚園に通い始めた時から始まったのでした。

しゃかしゃか

おはよう!
あっというまに金曜日の朝です。
やれやれってならないように、特別に丁寧にすごしたな。
そう、幼稚園では今週は『初釜』と呼ぶお茶会の週でした。
今日で最後です。
畳の上に座布団を敷いて、そこに正座して、書初めに囲まれて、お茶をしゃかしゃかたてます。
私は、この抹茶をしゃかしゃかが大好きで、幼稚園でお茶をたてると必ず、おうちでもやりたくなります。
ミルクとお砂糖もひとさじだけ落として、カフェ・オレのボールではなとしゃかしゃか。
朝もしゃかしゃか、ディナーの後にしゃかしゃか。
冬の年中行事、しゃかしゃか。

Thursday, January 16, 2014

考えない努力

毎日がびゅんびゅんと過ぎてゆき、おそろしいほどだけど、私は相変わらずです。
相変わらすというのは、つまり、マイペースに、淡々と書き続けています。
その日1日がどれほど不本意に忙しくても、どれほど不本意にからっぽでも、書く時間になると、私の時間は私のペースで流れはじめます。
落ち着くべき場所に気持ちが落ち着き、いろいろな大切なことを思い出します。
ピりピりとした緊張感の理由はわからないけど、ムードに巻かれないように、必死に子どもたちを見つめて、余計なことを考えないように努力しました。
そう、頭の中をシンプルに、心はピュアに。




りすとどんぐり

今朝、目が覚めて最初に、「昨日書いたことは、なんかどっかちがうな」って思った。
だから、体を動かさないように、完全に私の全部が目覚めてしまわないように気をつけながら、そおっと、何がどう違うのか考えてみました。
そして、「そっか」って思った。
私はあのどんぐりじゃなくて、どんぐりを無我夢中で追うりすだったのだ!
そして、すごくすっきりとして、ベッドから出てきました。
おはよう。
今日も、きっと良い日でありますように。

Wednesday, January 15, 2014

どんぐりと氷

そろそろ、私がどうして、クリスチャンのなったのか、どうして、今の教会がみっつめなのか書いてもいいかなって思いはじめています。
私の人生はまったくドラマチックじゃないけれど、私を取りを囲む人々の人生はそれはそれはドラマチックだった。
それがあるから、なかなか書くことができなかったほどに・・・。
アイス・エイジという映画を知っていますか?
私はあの映画のドングリのようだった。
そして私の周囲はあの崩れゆく巨大な氷。
でも、今なら、そんな中で決心して、自ら選び続けてきた今日までのこと、自分のことだけを、書けそうな気がします。
読んでもらえますか?
もし、YESなら、どうぞお祈りください。
神さまが、私の人生に成してくださった、御業について、そのことだけを書くことができますようにと。

ウォーターズ先生のこと

ただいま。
今朝書いた記事に、サウスベイ地区の新年聖会のチラシの写真をアップしたのでぜひ見てね。
ウォーターズ牧師は、賢人が3歳だったあの頃とちっと変わりなくってびっくりです。
むかし、むかし、グリーンカードのインタビューに立ち会ってもらった時のエピソード。
移民局のオフィスのあるのビルに入ってから、面接のアポイントメントのあるお部屋に入るまでのほんの2、3分の間、ウォーターズ先生に話しかけた人が、一体何人いたでしょう。
夫と私は、手をつないで、ただその偶然にあっけにとられていました。
ビルの中で迷子になった人、帰りのバス代を欲しがる人、何事かを強いアクセントで喧嘩ごしに質問する人。
先生って、そんなふうに、どこに行っても知らない人々に求められ、責められ、そして真剣に答えてゆく人なのです。
それはまるで、誰かさん・・・。
そう、イエスさまのようだった。

ウォーターズ先生に会いにゆこう!

サウスベイ地区の新年聖会の立派なカラーのちらしを、先週、教会でもらったので、冷蔵庫に貼りました。
申し込みがはじまってすぐに、はなと二人分のお弁当代と共にゆりかさんと一緒に申し込んでいます。
そのちらしを見た賢人が、写真を見て「ウォーターズ先生なの?」って聞きます。
ウォーターズ先生は賢人の初めての幼稚園の長で、初めての教会の牧師でした。
すごくびっくりした目をしていたので、「会いたい?」っと聞くと「うん」と言います。
「日本語だけの集会だと思うけど、一緒に行く?」って聞いたら、「日本語のメッセージは僕にはきっと難しいから、顔だけ見に行きたい」って。
大人みたいなことを言うようになりました。
ウォーターズ牧師は、私に洗礼を授けてくれた先生です。
追記:そうだ!今日の夜にちらしを写真に撮ってここに紹介するから、もう一度この記事にきてみて。会場はガーデナバプティスト教会、午前10時スタートです。



Tuesday, January 14, 2014

きかれたくない祈り

ただいま~!
今日も行きと帰りのクルマの中で同じことを祈りました。
気づくといつも頭の中がそのことで一杯で、あまりも邪魔くさく、思わず、「みこころであるならどうぞ、それを召しとしてお与えください。」と祈ってしまったのです。
でも、もし本当に与えれたちゃったら、きっと私の人生はガラリと変っちゃうのだろうな。
私のことだから、きっと全身全霊で立ち向かい、また一杯傷ついたり傷つけたり大変なんだろうな。
だから、この祈りはきかれない方がいいのだろうなって、思いつつね。

お兄ちゃんのこと

毎日いろんなことがあるから、ついつい書きそびれてしまっていたお兄ちゃんの近況報告。
おかげさまで、昨年の12月31日に無事に退院できました。
治療は一旦終了のようです。
完治という言葉は聞けませんでしたが、スカイプで1週間ほど前に話した時のお兄ちゃんはとても元気そうでした。
母の明るくきれいなキッチンで、ハンテンを着て幸せそうに笑っていました。
お兄ちゃんの奥さんのケイコさんにも、お顔を見ながら「おつかれさまでした。ありがとうござました。」と言えてうれしかった。
私もそうだけど、父も母も、ケイコさんの存在を、今回ほど心強く感謝したことはなかったことでしょう。
おそ~い結婚だったけど、全ては時にかなって美しい、神さまのプランです。
お祈りを本当に、本当にありがとう。
心から感謝しています。
私も、みなさんのこと、お祈りしています。





シンプルであることピュアであること

主はあなたに告げられた。
人よ。何が良いことなのか。
主は何をあなたに求めておられるのか。
それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、
へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。
ミカ書6:8

おはよう。
おいしいコーヒーを手に、カウチにラップトップをおいて、ラグに座りこんで書きはじめました。
こうするとじょえると密着できるから。
夕べは、パンがさりげなくキッチンに出しっぱなしだったし、ゴミ箱にはサーモンの皮や脂が紙に包まれずにそのまま捨てあったけど、特にいたずらされた様子もなく、じょえるってなかなか感心な子です。
おもらしもありせん。
じょえるは体が小さいから、つい、子どもような気がしてしまうけど、実はそのへんはもう大丈夫なのかもしれません。
今朝はたまたま古い最初の聖書で昨日の続きを読んでいたら、ミカ書のこの箇所に線が引いてあって、丸で囲んでありました。
今朝読んでも、ここは、線を引いて丸で囲みたい箇所だなって思った。
本当にそう。
何も大きなこと大そうなことじゃない。
ただ、誠実に、謙遜に、私の神と歩むこと。
誠実も、謙遜も、私の中なから見つけてきて苦しみながらひねり出す必要もなく、パイプのように、溢れる源流からただ通すだけ。
昨日も、ヨナ書を読みながら思ったけど、頭をシンプルに、心をピュアにって思う。
私のパートナーの先生ってまさにそういう人で、時々、っていうかいつも失敗ばかりなのだけど、でも私は、なぜかとても魅かれます。
学ぶべき点がたくさんある人なのです。
人の大らかさとは、一重に神からの賜物と思うけど、でも共に働いていると自然に流れてきて、やさしい気持ちで、彼女が見つめようとしている、子どもの中の、ある、小さな一点が見えてきて、「ああそうね」っと思えるのです。
さて、じょえるの今後の課題は名前を呼んだらくること。
まずはそこからです。
ねっ、じょえる。







Monday, January 13, 2014

じょえると私


じょえるは、朝、おうちを最後に出る人に庭に放され、夕方、最初に帰ってくる人におうちにいれてもらうということになりました。
お散歩は、週日は学校から帰った賢人が毎日ほんの1ブロック、土曜日に私がビーチをたっぷりと、日曜日に夫とはなが公園などって考えていて、でもまだ相談中です。
家に来た最初の夜の明け方に、賢人のお部屋のドアをがりがりとやって、賢人を起こし、彼が部屋にいれてあげたら、すぐにじょじょ~とおしっこをもらしてしまったけど、日曜日の夜は大丈夫でした。
たぶん、あまりの汚さに、お家の一部とは思わなかったのよねって、みんなじょえるの味方。
はなの犬だから、はながピアノを弾く時とピアノの下、はながお勉強をする時は机の下、はながおやつを食べる時はテーブルの下、はながシャワーをしてる間はバス・ルームのドアの前でちぎれんばかりに尻尾を振りながら、目をハートにしてはなを待つ彼。
ボスが誰だかちゃんと心得ているおりこうなじょえる。
でも、一番心を許しているのは夫と賢人。
おなかをべろ~んとひらいてリラックスしている姿を何度も目撃した私。
一見おりこうそうだけど、その実、ひそかに誰の言うことも、あまり聞いていない彼にびしっと言えるのはこの私。

ヨナはともだち

しかし、私の神、主よ。
あなたは私のいのちを
穴からひきあげてくださいました。
わたしのたましいが私のうちに衰え果てたとき、
私は主を思い出しました。
私の祈りはあなたに、
あなたの聖なる宮に届きました。
ヨナ書2:6,7
おはよう。
一週間の始まりの朝です。
毎朝、ひとりでこの時間をすごすのが日課だったのに、足もとに新しい家族のじょえるがまるまっています。
最初の晩は家の中を何度も歩き、時々、窓の外に向って吠えたりもしていたけど、昨夜は、ずっと夫の眠る側の足元にまるまっていたようです。
猫でも犬でもその他の動物でも、一度会えば二度めは友だち、人間はみんな味方、というのがどうやらじょえるの律法のようなので、番犬にはならなさそうです。
今朝はヨナ書をめくりました。
3章の6節、「神である主は一本のとうごまを備え、それをヨナの上をおおうように生えさせ、彼の頭の上の陰として、ヨナの不きげんを直そうとされた。」
こういうことって身に覚えがあるなって思った。
揺るがない神のプランの中で味わう不満と喜びと落胆。
でも全体的には逆らいきれないほどに物事は一つの方向に向って流れ、みこころは必ずはたされなくてはならないことがわかっていて、どこかで覚悟している感じ。
ヨナを笑えない私。
ヨナに臨む主は、アブラハムやモーセやパウロに臨んだ神より、より私のよく知っている神に似ている気がするのです。
立派なクリスチャンになれなくてもいいや。
神さまの側で、精一杯に生きよう。
家庭も仕事も教会生活も自分の時間も一生懸命に楽しもう。
頭の中はシンプルに、心の中をピュアにして神さまにしがみついて生きよう。
愚か者、ばんざい!(ここ、ちびまるこちゃんとまるこのおじいちゃんの声でね)


Sunday, January 12, 2014

一人前ラーメンデビューと荒野キャンプの帰り道

礼拝の後のゆりかさんとの超スモール・グループで、ミツワの山頭火のしょうゆラーメンを食べながら、シェアしたこと。
私の2年間の荒野のように、周囲の人や自分によって、その痛みがはっきりとわかるって実はとても良いことだねと話した。
だって、祈ってもらえるから。
私はそんな、周囲の人たちの愛や祈りに支えられて、2年にも及んだ霊的荒野キャンプから引き揚げようとしています。
荒野はどうでしたか?と誰かに聞かれたら、まっすぐに顔をあげて答えたい。
「そこは、誰もいなくて、何にもなくて、ひとりぼっちで、孤独です。
でも、神さまはいました。」って。
私は、はなといつもラーメン・セットをシェアしていて、この頃それが、ちょっと物足りなく感じていたので、今日は思い切ってひとりひとつのラーメンをオーダーしました。
小さなどんぶりをつけない、ただのラーメンをふたつ。
そして、はなはみごとに完食し、今日ははなの一人前ラーメンデビューとなりました。



私たちのはな、はなのじょえる

しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、
あなたがたをすべての真理に導き入れます。
ヨハネ16:13
聖霊によって、自分の罪がわかる時って、悲しいけどうれしくて、負けたけど勝ったみたいで、最低だけど最高で、最悪だけど最善で、全敗全滅なのに感動的。
そんなうれしい気持ちを体験したばかりの私は、今日のメッセージが痛いほどにうれしかった。
どんな週末でしたか?
私たちは、家族みんなではなのお誕生日を心から喜び、祝い、そして彼女のじょえるを迎え、はなと一緒にじょえるを感謝しました。
じょえるがやってきて、私はたちは、よく話し合い、よく笑うようになりました。
賢人は、じょえるにかまうために、部屋から出てくるようになりました。
夫は、小さなじょえるのためにお庭の囲いの隙間をチェックしたり、修理したり、犬小屋を直したり、はなと一緒にじょえるのために一生懸命です。
私たちは、新しい家族のメンバーをむかえることによって、自分たちまで新しくなったようです。




Saturday, January 11, 2014

ハッピー・バースデイ!はな③




はな、お誕生日おめでとう!
主がこの子を特別に祝福してくださいますように。
あなたが造ってくださる人生を、喜び、歌い、踊り、楽しむ子になりますように。
楽しいことを見つけて、探求する賜物がますます磨かれ、難しそうに見えることにも、やりたくないことにも、立ち向かってゆく、勇気と忍耐を与えてください。
喜ぶ人と共に喜び、悲しむ人と共に悲しみ、そして、手をつないで、励ましながら一緒に歩くような、そんな、おおらかで、ポジティブな信仰を、どうぞ、この子に与えてください。
主よどうぞ、たとえ、はながあなたを忘れる時があったとしても、あなたは決して、はなを離れず、はなを忘れることがありませんように。
アーメン


ようこそじょえる!
はなが、ひとめぼれして、どうしてもっとがんばり、連れて帰ってきたじょえるは、大人だけど、小さな、今月13日で1歳になるダックスフンドとチワワの混血です。
中型のもっと年をとった犬がほしかった私は、家中をきゃんきゃんいいながら走り周りそうなこの小さな犬をドキドキしながら迎えました。
でも、全く予想に反して彼をフロントヤードで迎えた瞬間、あまりのかわいさに、抱きしめ殺しそうになりました。
この子はまぎれもなく神さまに贈られてきたうちの子。
新しい家族です。
アーメン


ハッピー・バースデイ!はな②



じょえるで~す

ハッピー・バースデー!はな

おはよう。
今日ははなのお誕生日です。
8年前、出産予定日から3日目の今日、検診のために運動靴をはいて、40分ほどかけててくてくてくてくクリニックまで歩きました。
「もうすぐですね。先に行っていてください。」ってドクターに言われて、そのまま、そこから病院までさらに40分かけててくてくてくてくてく歩きました。
ちらっと、ちょこっとおうちに帰ってシャワーをしようなかって思ったけど、でも「先に行っていて」っていうことは、今すぐっていうことだから、やっぱり直行しようっと思い、てくてく歩き始めました。
お財布と電話だけの持ち物でレジストレーションをすませて、入院しました。
夕方、ドクターがお部屋に来てくれて、ふつうのベッドの上で、ころんと生みました。
そのお部屋は実は分娩室で、ベッドや天井がトランスフォーマーのようにかっこよく自動的にがしゃがしゃと変身するを、見学の時に見て知っていたのに、ふつうのまんまで、看護婦さんも夫も誰もいなくて、黒人の女性のドクターと二人だけで、とても静かな出産でした。
あれから8年です。
0歳のはなは8歳になり、9歳までひとりっことして生きてきた賢人は苦労して立派な兄になりました。
夫は料理の腕をあげ、私もずいぶん変わったと思います。
私たち4人と亀一匹を乗せた小さな船はおおむね順調に航海を続けています。

Friday, January 10, 2014

探し犬

明日ははなのお誕生日です。
はなは今年もダディとふたりでディズ二-ランドに行ってくれるものとばかり思っていたら、犬がほしいとガンコにがんばり、同じく犬が欲しい夫と、共謀して、ひそかにあちこちに犬を探しまわっていたようです。
今日は、ガーデナのアニマル・シェルターでとてもいい犬に会えたから、その子に決めて手続きをしようとオフィスで待っていたら、なんと一足違いで飼い手が決まっていたそう。
犬を飼うことに反対派だったのに、どんな子がくるのかと気になって、幼稚園から電話しちゃったわ。
ふう~、どうなることやら、犬探し。
明日は家族みんなで、心をこめてお祝いします。
8年前の明日は、すごく良い日でした。
よく晴れて、きりっと寒くて、そして特別に美しい日だった。

みみずうじゃうじゃの夢、プレイハウスの夢

おはよう。
夕べはどろどろに疲れていたはずなのに、たくさんのこわいうような、楽しいような、インディアナ・ジョーンズ的アドベンチャーな夢をみて、寝たような寝ていないような・・・。
まあいいわ。
金曜日だもの。
夢のラストシーンはミミズがうじゃうじゃいる穴に突き落とされて、蓋をされそうになるのだけど、私は勇気を出して大声で、「知ってる!これは全部ガミワムでしょ!」と言いながら、ミミズを1個もちあげてびろ~んとひっぱって、口にパクと入れたら、本当にガミで、しかも私の大好きな青りんごの味でパチと目が覚めました。
メールをチェックしたら、はなの親友のママのリンダから、うれしいメールが。
昨夜遅くに、メールでキャンセルした今日のプレイ・デートだったけど、彼女が子どもたちが約束通り会えるように、私をヘルプしてくれるといいます。
スーパー・モデルのようにかわいいリンダのおうちは、マーサ・スチュアートの雑誌のページのようにかわいくて、そのおうちのお庭には子どものおうちがあります。
ミニチュアだけど、ちゃんとドアがあってカウチがあって、そして工作テーブルがあるおうち。
よかった。
はなとキャサリンを悲しませなくですんで・・・。
神さまは、いつもこうやって私を助けてくれる。
今日もきっと良い日にちがいない。

Thursday, January 9, 2014

福音のおまけつきブログ

10時をたっぷりまわっています。
6時に幼稚園を出て、たった今、帰ってきました。
これには、ふか~い、なが~い事情があるのだけど、おもしろい話じゃないから書きません。
でも、夫が飛んできてくれて、助けてくれて、解決してくれて、私は、その間ずっとipodから流れる音楽で耳をふさいでお祈りしていました。
彼は、ずっと黙っている私に飲み物や食べ物をすすめてくれて、でも私はただ首を横にふりながら黙っていた。
大人なんだから、一生懸命助けてくれようとする彼に労いの一言でも言えればいいのに、まるで親とはぐれた子のように、ずっと黙っていた。
そして、見つからないようにこっそり静かに泣いていた。
子どもたちは、おうちでいい子にお留守番できたようです。
本当に私の人生って波乱万丈。
一難去ってまた一難。
だから、書いてゆける。
毎日、毎日。
彼が『おはようスポルジョン』の読者だったらいいのに、って思う。
そしたら、実はとても感謝していることがわかってもらえるかもしれないのに。
ついでに福音のおまけもあるよって。
なんだかいい匂いがするなって思っていたら、夫がオーブン・トースターで焼きおにぎりを作って持ってきてくれました。
あんまり、おなかはすいていないけど、でも、これは彼の愛だから、感謝していただくことにします。
じゃあね、おやすみ。
明日もよい日でありますように。

「いいね!」

おはよう。
寒い朝、ベッドから出るのが大変です。
でも、やりたいことがたくさんあるから、がんばって、がばっと起きてきました。
ここ数日、この1週間ほど書いてきた今回の悔い改めに至る経緯を、今朝、じっくり、まとめて読み返してみました。
そして、「いいね!(親指)」、と思った。
すごく満足しています。
聖書と読んだり、
お祈りしたり、
お弁当を作ったり、
渋滞の中で賛美したり、
子どもたちと凧揚げしたり、
絵本を読んだり、
鉢植えのお花にお水をあげたり、
はなの体をお風呂で洗ったり、
読書をしたり、
泣いたり、笑ったり。
そんな毎日が大好きです。
そんな日々の一こまとして、とても、「いいね!(親指)」と思った。


Wednesday, January 8, 2014

ここだけの話とはなのための祈り


ただいま!
今朝書いた記事、『ちゃいたの由来、ヨエルへの夢』を読み返して、「気持ちはすっごくよくわかるけど、かなりぶっとんでますわよ。」と思い、文章を整え、写真をつけて、読みやすく整理しました。
そしたら、いつかどこかで話す機会があったら、と思う大切な証になりました。
大切な大切な宝ものです。
幼稚園では、3、4歳の子どもたちと書初めをしました。
ぐるぐる、どどどど、ぼちゃぼちゃ、ぐりぐり、文字を書く子がひとりもいなかったことを心のどこかでほっとする私。
ここだけの話、3歳、4歳で、書く道具を手にすると自然と文字を書く子は、ちょっとその後、難しいことが待っているかもと思います。
幼稚園を3時に出て、はなをバレエのレッスンに連れていきました。
水曜日は職場のコ・ワーカーたちのヘルプがなければあげることのできない、はなの1週間で一番大好きな日。
今朝、クルマの中ではなと一緒に祈った祈り、私の口が勝手に祈ってしまった祈りは、「どうぞはなを、あなたがくださった恵みを、全身で全力で踊り喜ぶ子にしてください」。
はなは大きな声で「アーメン」って言ったけど、そうね、はなってそういうふうに祈って育てるべき子ねって思いました。



ちゃいたの由来、ヨエルへの夢


地よ。恐れるな。楽しみ喜べ。
主が大いなることをされたからだ。
野の獣たちよ。恐れるな
荒野の牧草はもえ出る。
木はその実を実らせ、
いちじくの木とぶどうの木とは豊かにみのる。
シオンの子らよ。
あなたがたの神、主にあって楽しみ喜べ。
主は、あなたがたを義とするために、
初めの雨を賜り、大雨を降らせ、前のように、
初めの雨と後の雨とを降らせてくださるからだ。
打ち場は穀物で満ち、
石がめは新しいぶどう酒と油であふれる。
ヨエル書2:21~24
ヨエル書を読み始め、ヨエル書を読み終えました。
だって3章しかないんだもん。
ヨエルって素敵な響き。
今度うちに新しい生き物がきたら、ヨエルって名付けたいな。
緑亀の〝ちゃいた〟はチャイナタウンからきたから〝ちゃいた〟だけど、家族全員、それぞれ別な名前で私のちゃいたを呼んでいます。
『悔いて生きよ』を最初に読んだ時、「イエス・キリストは私の罪に対する盲目でかたくなな心や、独善的に自分をかわいそうに思う心を打ち砕き、自分の罪を悲しむ心を、悪魔から勝ち取り、それを私にくださるためにこられた」という内容に、心のどこかで、「やめてよ~」という気持ちがあったことを、今朝正直に認めます。
この本の内容はどんなに疑り深い気持ちで読んだとしても、正しいと思えてしまうけど、でもそれは、あまりも自虐的、何もそんなことを祈らなくとも・・・ってそう思った。
だから、すごく斬新で衝撃的だけどシェアするのがこわかったのだと思うのです。
そして、友だちが友だちを呼ぶみたいに、こわい気持ちがどんどん大きくなって、過去の悲しかった出来事や、開かないように気をつけていた心の暗闇の部分がじわじわと表面にまで滲み出てきて、それが、私の書く文章の中心となってきました。
10年ぐらい前のような気がするけど、ほんの先週の後半のことです。
それは、壊れたダムをから溢れる大量の水のように、自分でもどうすることもできない、恐ろしい体験でした。
・・・・この2年ほど、「赦します」と宣言しない日はなかった。
私の心の中には、もう自分では処理しきれないほどにわけのわからないイライラがたまっていたのでした。
日々の普通の祈りでは、カバーしきれないほどに、心がその思いで溢れ、もうだめって思った時、天から啓示が降りてきたのです。
問題はそうじゃなかった。
「赦します」ではなく、「赦してください」と祈らなければならなくて、「人」にではなく「神」にそれを求めなければならなかった。
実は、全然、何にもわかっていなかったのです。
日曜日に講壇から牧師に、言われたはっとしました。
世に憎まれてもいいって思った時、全てがガラガラと変りはじめました。
何かが変る、何かが起きた、そんな予感にドキドキしながら、エンジンオイルをドボドボとこぼしつつ、(そんなこと全然気づいていなかったけど)マクドナルドに行って、ゆりかさんと一緒に、小さく、でも心をこめて祈りました。
二人でメッセージを感謝しました。
私と彼女の間に起きた出来事も小さくそこに含まれていたので、私の葛藤を先刻承知の彼女は、私を大いに励ましてくれました。
そして、翌朝、『おはようスポルジョン』を書きながら、『悔いて生きよ』が教える悔い改めを、自分なりに祈った時、奇跡が起きたのです。
結論から言って、自分の罪を悲しむ心とは、ひじょうにいい、すごくいい、最高かもしれない。
最低で最高。
最悪の私が最善な神に近づいた日。
悲しいけど、うれしい。
夫と結婚した時も賢人が生まれた時もはなが生まれた時も、自分の洗礼の日でさえ、こんなにうれしかったことはないぐらいです。
今朝はすごく一杯書いちゃったけど、最後にヨエル書からもうひとつ。
その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。
ヨエル2:28
私にも紛れももなく、この霊が注がれていたから、この霊によって滅びの穴から引き上げられることができたのだな~と思います。
もし将来犬を飼うことがあれば、ヨエルと名付けたい。





Tuesday, January 7, 2014

癒された日

賢人のお部屋から、賢人のデスクトップ・コンピューターで書いています。
これにはなが~い話があるのだけど、一言で説明すると私のラップトップは、他のいかなる仕事もまじめにきちんとやってくれるのに、写真のアップロードにだけは、おそろしく時間がかかるようになり、一体どれほど待てば良いかもわからないほどだったので、ここに駆け込んで書かせてもらっているいというわけです。
今朝のお話の続きです。
もしかしたら瞬きをした次の瞬間に夢から覚め、元のみじめに過去に囚われた自分に戻ってしまうのではないかしらって、今日は一日中、ずっとドキドキしていました。
でも日曜日の朝の礼拝の後に与えられた啓示と、月曜日に受けた解放は、どうやら夢ではなかったみたいで、他に考えるべきことやるべきことが一杯だからではなく、朝のゆっくりとした時間も、昼間の忙しさの中でも、夜ののんびりとした時間も、あれほど苦しかった過去へのこだわりも、書くことへの葛藤も、恐れも、トラウマ的痛みも、そして自分を守りたい気持ちも、1ミリたりとも、一滴たりとも戻ってくることはありませんでした。
そのことを思う時、ただあるのは、神と神が愛する人へのごめんなさいの気持ち。
これは、私がクリスチャンのなった日の次にくる、大きな大きな喜びの日、癒され記念日。


神さまとの仲直りとフィルターの穴について

わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する。
わたしの怒りは彼らを離れ去ったからだ。
わたしはイスラエルには露のようになる。
彼はゆりのように花咲き、ポプリのように根を張る。
その若枝は伸び、その美しさはオリーブの木のように、
そのかおりはレバノンのようになる。
ホセア書14:4~6

主よ、命も、悔いた心も、赦しも、喜びも、
みんなあなたからの贈りものです。
私は生きる限り、罪を犯し続ける罪人です。
けれども、生きる限り、あなたの前に赦しを求め続け、
赦された罪人として、喜びに満ちた日々を送ることができますように。
アーメン
眠ることも、悔いることも、ひとりぼっちと感じることでさえ、すべて、神さまからの恵みという贈りものと考えるようになりました。
今年の最初の日曜日に受けた啓示は、もしかしたら、神さまと私との和解だったのかもしれません。
光の中でみる景色は、同じ場所でも全く違ったものに見えるのです。
光の中で考えることは、同じ出来事であるのに、全く違ったふうに考えることができるのです。
シビックはエンジンオイルのフィルターに何かがぶつかって穴が開いてしまっていたそうです。
今日の夕方には引き取ることができるそうです。
私はいつも、このクルマのトラブルを奇跡のように思うのだけど、なぜかいつも大事故をすれすれのところで免れます。
これをいつかまとめて証集として、シリーズにして、ここに発表したいほどです。
エンジンオイルをこぼしながら走るとエンジンがストップしてハンドルがきれなくなるって知っていました?
私は、広いマクドナルドの駐車場で時速5マイルほど出しながら知りました。






Monday, January 6, 2014

互いに愛し合うこと 

新しい学期がいよいよ始まりました。
新しい気持ちで、新しい祈りを奉げながら幼稚園に向かいました。
なんだか素晴らしい年になりそうな感謝と期待で胸が一杯になり、涙の一歩手前で祈りを閉じて、CDを聴きました。
でも実は夕べはあまりよく眠れなかったのです。
三度の飯より寝るのが好きな私がです・・・。
礼拝のメッセージのことを考えていました。
タイトルは確か『互いに愛し合う』だったと思います。
礼拝の後、例によってゆりかさんと超スモール・グループのシェアリングをしました。
私たちほど、『互いに愛し合う』を最も難しいレベルから跳んで現実にしたふたりは他にいないでしょう、そう思います。
でも私たちはいつも、話題がそこに及ぶたびに、「これは神さまの奇跡、御業よね。」と言い合います。
お互いから自分を隠し、逃げても逃げても、ふたつの教会とひとつの幼稚園とで会わされた私たち。
誤解が解けた時、失った時間と、相手の傷に対する悲しみにくれました。
そして、その悲しみがようやく癒えた時、今度は代わりに大きな怒りが私を包みました。
でも日曜日の昨日、礼拝の後、マクドナルドで小さな祈りを奉げて、甘すぎる1ドルのアイス・ティーを飲みながら、私たちを引き裂いた、巧妙で偽善に満ちた悪の仕業に対する怒りとがすっと消えたことに気づきました。
跡形もなくすっと。
同時進行で、マクドナルドの駐車場では私のシビックのエンジンオイルがどばどばと漏れ、大変なことが起きていて、夫が電話一本で私から呼ばれ、夫によってAAAの牽引が呼ばれ、、シビック危うしというそのガラスのこちら側で、私たちはしんみりと、心から神さまに感謝したのでした。
どう思いますか?
『互いに愛し合いなさい』は私たちの価値基準や、私たちの経験が教える人の常識ではどうしようもなく難しいことだけど、でも、本当は、天からの贈り物のように与えられ、そんなふうに実現するものだと、私は思うのです。
鍵となったのは、聖霊さま。
開いてくださったのも聖霊さま。
いいえ、ドアそのものだった聖霊さま。
私はそんなふうに思うのです。