母の胎内から、そのように生まれついた独身者がいます。
また、人から独身者にさせられた者もいます。
また、天の御国のために、
自分から独身者になった者もいるからです。
それができる者はそれを受け入れなさい。
マタイ 19:12
ここのところ、高津キリスト教教会からの新しい礼拝ビデオが届いていなかったので、ちょうど1年前の同じ週のを順番に見て礼拝していました。(創世記のヨセフ物語)
今朝チェックしてみると3本ものビデオが一度にアップロードされていたので、その中で時間的に一番古い1月の第3週の礼拝ビデオ聞きながら聖書を開きました。
昨年の秋ぐらいからやっている性的マイノリティについて聖書はどう言っているかというテーマのシリーズの続きでした。
内容の複雑さもさることながら、私自信のなされるべきビュー変換角度の大きさと、それからヨセフ物語からのギャップもあり、とてもとても難しいメッセージとなりました。
でも、私が生きる小さな世界の中でも、十分に適用のできる内容であったことだけは確かです。
私は、自分自身をマジョリティとみることよりも、マイノリティとみることの方がどうちらかいうと多いです。
日本に行くと特にそう感じるし、今まで働いた職場の中でも、今の職場では、よくそう感じます。
今の職場は日本に大学から幼稚園までのいくつかの学校を持つ大きな団体のカリフォルニア校という名が掲げられていることもあって、とても日本的だからかもしれません。
でもマイノリティであったとしても、「受け入れられている」という安心感の中で、一生懸命に働いています。
それが、学校の教育方針であるからです。
そのことを改めて感謝することのできる礼拝でした。
藤本満牧師のポイントは、イエスさまはマイノリティを受け入れたということ、そして、マジョリティの犯す罪に気づきなさいという2点であったと思います。
そして、「それを受け入れなさい」と教えたイエスさまのことばから、受けれるとは、心の中にそれを置く場所を作ることなのだと、説明していました。
なるほどと思います。
理解する、とか共感するとか、そんな難しいことではなく、ただ、心の中にそれを置く場所を作る、そして、イエスさまはその場所のために、どんなにでも私たちの心を広げてくれる、そんな様子をイメージしながら、聖書を閉じました。
マジョリティの罪のせいで、家庭を追われ、職場を追われ、教会を追われ、国を追われる悲しい世界の中で、聖書は本当はどう言っているのかを取り継ごうと奮闘する藤本満牧師の挑戦にこれからも耳を傾けてゆきたいです。
それが、私にできるビューの変換の第一歩であると思いました。