Thursday, February 29, 2024

心の準備室で・・・


大きな変化、分岐点は、
ごく個人的な霊的信仰とそれを包む公な教会生活だけではなく、
仕事の上にもどお〜ん、とやってきました
それはそれは、本当に大きな祝福なのだけれど、
唯一、平穏で、あまり変化のない、
日本の母を含む、私の家庭生活に心安らぐ思いです

外で何があったとしても、
なかったとしも、
私の内で何があったとしても、
なかったとしても、
この家の中が、
いつもあたたかく、優しく、平和であることは
大きな新しい祝福を受け取るため私の砦、
心の準備室のよう

師からの手紙 ②


以下、敬愛する異言の友に相談し、異言の集会で学びをしようと思うと師宛に書いた後、近づくべからず(固有の教会名を省いて紹介すると何がなんだかわからなくなるので、これは載せることができないけれど、十分に納得のいく文章でした)とのきっぱりとした、けれども、祈りながらしか書けない配慮のある返事を受け、「はい、わかりました」と書いた後のお手紙です。
この頃の私はわからないことを知ろうとする葛藤と日々闘っていました。

主の平和、

メールを有り難う御座います。そして、僕の気持ちを理解して下さり、有り難う御座います。


自分に起きたことをわかってもらえるクリスチャンや聖霊さまの声への憧れが抑えきれなくなっている” 姉妹の慕い求めるお気持ちもよく分かるし、理解します。自然な反応ですし、聖霊の満たしを経験する人は誰もが通る道です。


この時間をどう過ごすのかによって、興奮状態でさらに強い刺激を求めて、何かの現れや不思議ばかりを求めるいわゆる “ヘンテコクリスチャンになる人もいれば、使徒パウロのように、アラビア砂漠に退いて、”静かに黙って“、聖霊様とのさらに深い個人的な交わりを通して、より深い霊性を整える人もいます。


幸いに、姉妹はすでに、例によって泳いだ後に与えられた神様のみことばを通して、“今は、この憧れを抑え、「静かに黙って、手の技を確かなものとせよ」との神さまからのメッセージを預かっているので、安心しました。さすがだと思いました。実は姉妹は以前からもすでに、こう言う方法を通して、神様のみ声、つまり、聖霊様のみ声を聴く訓練を重ねてこられたのです。姉妹はすでに聖霊のみ声を聴く姉妹なりの方法を知っているので、異言を用いて自分の内側を強めながら、その調子で神様の広い、深い、高い、み胸のさらに深いところまで、進み続けてください。その内、異言の通訳の賜物やその他のいろいろな賜物を自由自在に用いるようになることでしょう。


本人の体験や聖霊様のお働きについて気になることやもっと知りたいことがあれば、遠慮せず僕にメールください。


主に在って 

Wednesday, February 28, 2024

話す霊−疑う私=感動して感謝する私

異言の賜物なんて求めたこともなかった私
あくしでんたりぃ・受け取ってもなお、半信半疑でした
でも、今日、例によって、車の中でそれらしいお祈りをしていて
ふっと信号待ちの時に鏡で自分の口を見てみたのよね
(見たい、見たい、と思っていたけど、ずっと我慢していた)
そしたら、本当に、絶対的に間違いのない、自分の唇と舌を見て、
「疑ってごめんなさい!」と思って泣きそうになりました
私の中の霊が天の父なる神さまとお話している・・・
疑い続ける私の声と舌と唇を使って・・・
心から感動して、そして感謝した
こんな私なのに、って

師からの手紙

このひと月あまりの間に私の身に起きた不思議な祝福を
心と頭の中に収め、整理するのにとても時間がかかっていました
その間に受け取った師からの教えを古い順に並べ
自分だけの大切な本にしようと思います
聖書が私の教科書とするなら、
これは、迷った時、わからなくなった時に開く、解説書です

主の平和、

キリストの体のこのエクレシアのためのご奉仕とご協力を何時も有り難う御座います。そして、昨日の神様の素晴らしい祝福を心から感謝します。

さて、その後は、如何でしょうか。さらに、深い、そして、熱い神様のタッチが続いていますか。その霊的感覚を常に維持し、さらに深く、熱く、力強くして行けるようにお祈りとみ言葉をもって、主のみ胸のさらに奥にまで進んで行きましょう。

昨日体験されました、否定できないほど力強い神様のご臨在体験に対する補足説明とその時に現れるーまたは、確認される聖隷の賜物、代表的に異言のたまものについてもう少し、説明したくメール致します。

わたしたちの霊が否定できないほど力強い神様のご臨在で満たされと、わたしたちの肉なる身体がそれに圧倒され、倒れたりする場合があります。

ヨハネの黙示録1:17 それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、

何らかの現象や現れに頼る信仰生活は神秘主義になりやすく、さらに強い霊的刺激ばかりを求める霊的現象中毒になりやすい危険性があります。しかし、自分の体験した聖霊の働きやご臨在による自分の体験をみ言葉を土台に識別・分別し、そこから神様にしか与えることのできない、霊的励ましと慰めと力を得ることが出来るならば、私たちの信仰は、霊とみ言葉とにバランスの取れた健全、且つ、健康な信仰としてさらに成長して機能出来るようになります。

神様のご臨在、つまり、神様の霊、そして、イエス・キリストの霊である、“聖霊(御霊)” による満たし、注ぎがわたしたちの内側を満たし、満ち溢れる時に現れるいろいろな現象―しるしがありますが、その中で一番体表的なものが、“異言”です。これは聖霊の与えてくださる “賜物”-プレゼントなので、良いものに決まっているわけですが、教会の中にはこの異言に対する意外と多くの立場や意見があります。が、わたしは聖書を根拠にそれぞれが自分の信仰の中で、判断(識別、分別)すべきであると思います。なぜならば、わたしはこの異言に対するさまざまな反応の背景には、この賜物を求めたが与えられなかった人々の嫉妬と妬み、そして、この賜物に預かった人々の知恵と配慮の欠けた高慢と傲慢な用い方が大きく影響していることを知っているからです。もちろん、より深く探ると神様恵みがわたしたちに届くことを妨げようとする暗闇の力が働いていることは言うまでもないことでしょう。ゆえに、姉妹も今後、人の前で異言の賜物を用いる時は、周りに異言の賜物を求めていたが与えられなかった人々に対する十分なご配慮と心使いをもって用いるようにしましょう。ここでは、わたしたちの預かっている異言の賜物について、聖書はどう言っているのかについて、そして、異言の賜物の持っている霊的有益さについての聖書の教えを根拠にともに学びたいと思います。

その前に、祈る自身がその祈りの内容を知らない異言がどう言う意味があるのかについての事ですが、ヤコブの手紙3章と箴言などに記されているように、わたしたちの舌、言葉は、わたしたちの人生の舵取りのようなものです。ゆえに、神様が姉妹の舌と唇を用い、それをコントロールしようとされることは、神様が姉妹の人生の舵を用いたい、それをわたしに委ねなさいとわたしの人生の舵を求められることであると僕は理解しています。これを念頭に入れておいて、次のことを学んでいきましょう。

1. 異言は、姉妹の霊が、神様と霊的な神秘をダイレクトで語るためのものです。ゆえに、姉妹の魂―知・情・意―もその内容が分かりません。使徒パウロは、異言を用いてのお祈りは、霊による神様との直通の祈りであるがゆえに、暗闇も、わたしたちの魂も、その内容を知ることも、妨げることも、影響することもできないものであることを次のように説明しています。

コリントの信徒への手紙一14:2 異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。

コリントの信徒への手紙一 14:14 わたしが異言で祈る場合、それはわたしの霊が祈っているのです。(つまり、わたしたちの魂―知・情・意―の状態に影響されないとの意味)

2.異言による祈りは、姉妹の内に姉妹とともにおられる聖霊が姉妹のためにとりなす、姉妹のための姉妹の内側におられる聖霊ご自身のとりなしでもあります。

ローマの信徒への手紙 8:26 同様に、““霊””も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、““霊””自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。27 人の心を見抜く方は、““霊””の思いが何であるかを知っておられます。““霊””は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。

3.それなので、聖書は、わたしたちが、苦しみと悲しみ、寂しさ苦難の中にいるときこそ、理性をもっての、自分の思いや考えや感情や気分によって普通の言葉で作文された祈りばかりではなく、わたしたちの霊が、わたしたちの魂―知・情・意―に影響されず、異言をもって霊そのものが祈ることの大切さについて教えています。ポイントは、魂の祈りと霊による祈りのバランスです。

コリントの信徒への手紙一14:15 では、どうしたらよいのでしょうか。霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう。

4.異言には、否定的な思いや感情や行動をもたらす、悪しき霊と暗闇の力を追い出す霊的力があります。

マルコによる福音書16:17 信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。

5.それなので、異言をもって祈ると、心に平安と安息が与えられます。

イザヤ書 28:11 確かに、主はどもる唇と異国の言葉で、この民に語られる。12 主が彼らに言っておかれたことはこうだ。「これこそが安息である。疲れた者に安息を与えよ。これこそ憩いの場だ」と。

6.ですから、聖書は、異言を語ることは、自分の信仰をさらにしっかりしたもの、自分自身を造り上げ、自分の徳を高めることであると強調しています。異言は、種々の賜物の中で唯一、自分自身の有益のために用いられる賜物です。ゆえに、暗闇はこの異言の賜物の活性化や広がりを極力妨げています。

コリントの信徒への手紙一14:4 異言を語る者が自分を造り上げる。(新共同訳)

コリントの信徒への手紙一14:4 異言を話す者は自分の徳を高めます。(新改訳聖書)

7.異言の賜物には、こう言う素晴らしい霊的有益さがあるがゆえに、初めの教会では、礼拝の時に、皆が自由に、異言をもって祈っていました。

コリントの信徒への手紙一14:26 あなたがたは集まったとき、それぞれ詩編の歌をうたい、教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈するのですが、すべてはあなたがたを造り上げるためにすべきです。

しかし、その後、教会に対するローマ帝国による厳しい迫害による、礼拝状況、環境の変化により、聖霊に満たされて、様々な霊的賜物を用いての霊的豊かさや霊的深さを満喫する、御霊による真の自由さのある礼拝や祈りが段々難しくなって来ました。そして、時代と生活環境の変化により、決められた時間と環境の中で、求道者も、未信徒も、初心者も、子どもも、大人も、どなたでも参加できる、理解できる、礼拝の形式が主流となってくる中、日曜日の定期礼拝は、事前に決まった形の礼拝が主流になり、さまざまな霊的賜物を用いての霊的豊かさや霊的深さを求め、御霊による真の自由さを求める礼拝とお祈りは、平日の、あるいは、別形の特別集いの形で用いられるようになってきました。しかし、現状は、現代社会の忙しさのゆえに、平日のこう言う集いもだんだん少なくなっています。それなので、各個人の祈りや、こう言うことに対する霊的な一致のあるスモールグループの中で、さまざまな霊的賜物を用いての霊的豊かさや霊的深さを求める御霊による真の自由さを求める集いや祈り会があちこちでほりおこされることを僕は期待しています。

姉妹も、個人的なお祈りの時ごとに、聖霊による満たしと癒しと励ましを経験し味わい楽しみまくって、姉妹から溢れ出る聖霊のご臨在が生ける水の川となって姉妹の周りを潤うそののように変え、アメリカの日系コミュニティを変え、日本を変え、地の果てに至るまで流れて行けるように、異言の賜物を用いて、姉妹の内側を強め、神様とより深いレベルの霊的秘密を共有する神様との霊的親密感と霊的信頼関係と愛をさらに深く味わい楽しんでください。

主に在って、

 

Tuesday, February 13, 2024

思えば、夢の中に・・・

今朝のはなのoutfitがあまりにもかわいく
私の17歳の頃の、そして今も基本・変わらないtasteに
ぴたっときたので思わず、写真を撮りました



mc Sister の世界に憧れていた私のティーン時代
今でも大すき、こんな雰囲気


思えば、私が憧れた世界で、
現実に生きているんだな、はなって、
いいな・・・
いや、私もいいな
はなを通してそんな世界を体験できて






 

Monday, February 12, 2024

ずれずれクリスチャン

クリスチャンですか
私はそうです
イエスさまを自分の救い主と信じていて、
聖書を毎日読んで、お祈りして
讃美歌を聴いたり歌ったりすことが大すきで、
日曜日には教会で主を礼拝をしています

クリスチャンのあなたに質問します
神さまを愛していますか
私は、愛したいと、いつも思っています
(でも、あまり愛せていません)

教会を愛していますか
私は、最近、ようやく、
愛したい、と願うようになりました・・・
(今までは、家庭よりも職場よりも、
良い人でいること、ご機嫌でいることが
難しい場所でした
今でもそうです
でもそうでなくなりたいと願うようになりました)

「おつかれさま」

仕事を終えて、クルマを降り、
靴や上着を脱いで、
お弁当箱を洗ったり、その辺のものをぱぱっと片付けたり
する間に聞くソングリスト
名付けて
「おつかれさま」
良い日も、そうでない日にも
疲れている時にも、そうでもない時も、
おすすめです



 

Friday, February 9, 2024

寒い日、良い日

とっても、とっても寒い1日でした
でも、良い日でもありました

4つのお弁当を作って
聖書を読んで
英語のクラスをとって
プールで泳いだ

一生懸命に働いて
いっぱい笑って
とても良い気分

そして、今、
おいしい夕ご飯を作り中
今夜は水炊き鍋にしました

おつかれさまでした
また、明日

(土曜日も働いているあなた、
もうひとがんばり ねっ)

Wednesday, February 7, 2024

雨風から守られて

ようやく、雨もあがり、
今日は束の間、
晴れ間を見ることができました
今夜、また、少し降るようです
でも、雨風から身体や心を守ってくれる家の中で
静かにすごせることが、とても幸せです
今夜はそぼろ丼
ごはんを炊いて
スープを煮て
準備も整い、
座って一息ついています
何か難しいことがあると(大雨ね、例えば)
今まで、あたりまえに受け取っていたものが、
急に、とてもかけがえのない感謝なものと気づきます
だから、時々は難しいことも必要な私です

Monday, February 5, 2024

冷たい雨の中で・・・

今日は朝から雨
冷たい雨
ずっと雨
今も雨

でも、心の中はぽかぽかとあたたかな
なかなか良い日でありました

昨日のピアノの奉仕に、
いくつかのありがとうメッセージが届きました

神さまへの奉仕だから、
人に感謝されようがされまいが、
かわいげ全くなく、
献げっぱなしな私だけど、
今日は、それがとてもうれしかった・・・

がんばって行ったから

がんばって弾いたから

ジーンズに運動靴で

Sunday, February 4, 2024

すむ?すむ?すむすむすむ?


この1週間、色んなことがあり、日曜日の今日、疲れがピークに・・・、と予想しておりました。
今週は雨に濡れて寒かったり、冷えてしまった身体がなかなか元に戻らず、どこに行くにも首筋から背中にくっついて離れない「ぞくぞく君」と一緒。
そして、土曜日はぞくぞく君と共にアーバインまで行き、午後は入園試験で帰路に着いたのは、たっぷり夕暮れ時となりました。
ああ、もうだめ〜、とベッドに倒れ込み、ジンジンする頭で考えた欠席届の文章を牧師とライフ・グループのみなさん、そして奉仕のパートナーであるギターさんに送ったのだけれど、全く予想もしなかったお返事が牧師から届き、びっくり仰天。
曰く、「よ〜く、わかりました。ただ、それではあなたを見ているご家族や若いクリスチャンたちへの証が立ちません。明日8時45分に会堂でお会いしましょう」。とな。
絶対いくもんか、と思って寝たのに、朝、6時に目覚めてしまい、頭がジンジンしていないのに気づいてしまい、ヨロヨロと起き上がってコーヒーを作っていたら、喉が渇いて起きてきた夫が、私を見て、これまたびっくり仰天。
蘇った死人を見る目で、「えっ?起きたの?」。
はい、起きました・・・。
死んだみたいに疲れていたので、「こりゃだめだ」と思っていたのでしょう。
コロナとかインフルエンザとかだったら、うつしてあげたいほどの挑戦的メールだったけど、どうやら、コロナでもインフルエンザでもなかったようです。
ちょっと残念そうな私の中の悪魔。
コーヒーを飲みながら開いた通読の聖書の箇所が、これまたすごかった。
「責められても、なお、うなじのこわい者は、たちまち滅ぼされ、いやされることはない。」箴言29:1
こんわ。
たちまち滅ぼされたくなどない私はそそくさと楽譜を準備し、(それすらできなかったこの1週間、もちろん弾いてもおりません)コードを確認し、シャワーを浴びて、ジーンズに足を突っ込み、セーターをかぶって、コンバースに足をひっかけ、ロトのごとく転げるように家を出た次第であります。(このようないでたちで主を礼拝したのは、後にも先にも今日が初めてと思う)

結論。
行ってよかった・・・。
牧師は、「それでいいのです、よくがんばりました」と言いながら、私が戦っている本当の敵について短く、でもかなりはっきりと説明をくれたけど、私は、それへの克服よりも、滅ぼされずにすむ?すむ?すむすむすむ?という喜びと今日という特別な礼拝に出られたことに心から感謝しました。
そして、なんだかよくわからなけれど、私のこの先生への信頼はますます深まったような気がします まる