Wednesday, March 4, 2015

愛されている者の選択

兄弟たち。
あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。
ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えあいなさい
ガラテヤ5:13
私たちは選ばれ、祝福され、裂かれ、分かち与えられる者とし、深い内なる喜びと平和を抱いて人生を生きるように召されています。
それは、愛される価値があることを実証する責任が自分にあると、つねに説得しようとするこの世で、神にあいされている者として生きることです。
この世界は、エジプトがヤコブの子どもたちにそうしたように、たくさんのものを提供してくれます。
そこに拘束され、服従を強いられていると感じない限りは・・・・・。
あなたの格闘すべき大きな課題は、この世界を離れることでも、あなたの野心や向上心を拒否することでも、お金や名声や成功を軽蔑することでもなく、あなたに与えられている霊的真理を受け止め、この世に属さない者としてこの世に生きることです。
私は、この世界が提供する良いものはすべて、あなたが楽しむとめにあると深く信じています。
しかし、それらを真に楽しむことができるのは、神に愛されているという真理の裏づけとして、それらを認めることができるときだけです。
ヘンリ・ナーウェン
いよいよ、一番、難しいところにやってきました。
私にとってね。
私が暮らす世界は家庭と幼稚園と教会という、この世の中で、最も天国に近そうな場所であるにもかかわらず、難しいと思うのだから、ショービジネスや、広告や、法曹や、政治、スポーツや芸術などの分野に召されたクリスチャンは、それこそ格闘の日々であると思います。
それでも、聖書に従い、御霊によって歩むクリスチャンがあらゆる分野に主によって派遣され、闘ってくれているから、だから、私のような者も安心して生きてゆけるのだとも思うのです。
今日も、あなたと私の御霊が、私たちを、この世界からの声から守ってくれますようにと祈っています。
アーメン↓
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Tuesday, March 3, 2015

私に与えられたパンと本日の一本橋

おつかれさま。
練習を始めた一ヶ月前なら考えられなかった
夢のような一本橋
夕べ、ゆりかさんと10時すぎまで、全身を口と耳にして夢中になっておしゃべりしていたので、なんだか今日はあくびばかりしていた気がします。
ゆりかさんに、「まきさん、えらかったね」と言われすごくうれしかった。
何がえらかったかっていうと、プッツンしなかったこと。
日曜日は旬子先生に、「ちゃんと言えてえらかったと思うよ」って言われてうれしかった。
何を言ったかっていうと、できること、できないこと。
その前はケイコねーさんが、「まきさん、えらかったよ」っていってくれたから、「なんで?」って聞いたら、「ちゃんと座ったし、立たなかったし」って。
きっともっともっと上手になれる
でも今日のお互いを感謝しながら喜び合いました
レベル低くて申し訳ないけど、そんなことを友だちに褒めたり励ましたりしてもらいながら、なんとか生きている私です。
そんな私が世界のパンになれるようにって祈るって、ノンクリスチャンはどう感じるのかなってふっと思って書くのだけど、パンになるってたぶんそういうこと。
「えらかったね」って言うために時間を割いて、電話をくれて、私にその言葉を与えること。
私のほんの少しの進歩を見逃さずに褒めてあげたいと思うその気もちこそ、パン的精神と思うわけです。
決して、燃えている家の中に救助のために、戻ってゆくことばかりじゃないのです。
アーメン↓





死を含めて生きること

私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。
それは、兄弟を愛しているからです。
Ⅰヨハネ3:14
そうです。
良い死というものがあるのです。
私たちは自分の死に方に責任があります。
私たちは次のどちらかを選ばなくてはなりません。
死は、過ち以外の何ものでもないとして生にしがみつくか、あるいは、自由に手放し、希望の源として自分を他者に与えるようにさかせるかです。
私たちは日々の生活で、それを選択する「作業」に取り組まなければなりません。
神に愛されている者の死は、多くの人の人生で実を結びます。
あなたと私は、私たちのささやかな人生が、地上の生涯の境界線をはるかに超えて実を結ぶことを信じなければなりません。
ヘンリ・ナーウェン
日曜日の聖餐式のとき、パンを裂いたその指が熱く感じて、それから、そのパンを唇に運ぶとやっぱりパンはなんだか熱を持っているようで、私は驚いて、悲しくて、うれしくて、涙が一粒こぼれました。
毎朝、ヘンリと、取り上げられること、祝福されること、裂かれること、与えられることについて、学んでいたので、パンが、本当のイエスのからだのように思えて、悲しくて、うれしくて泣きました。
その後、Come,Thou Fount of Every Blessing という曲をピアノで弾きました。
弾きながら、もういちど、涙がこぼれ、音は私の感謝になって、ぽろぽろステージの階段を下りて会衆の足元に転がってゆき、うつむいて祈る彼らの祈りと合わさって、天国に上っていくような幻想の中で、私はこの曲を弾き続けていました。
どうぞ私とここで祈っておられるみなさんを世界のパンとしてお用いくださいと祈りながら、弾き続けていました。
あれほど、気もちが音になったように思えた演奏は今までになかったと思います。
今日も良い日でありますように
アーメン↓


Monday, March 2, 2015

こうちゃんのための夜のお祈り

きょうの1日も おわります
きょうの1日をありがあとう
よるが ちかづいています
ゆうがたの かげが 空をおおいます
くらやみがひろがります
でも  どうかぼくを あなたの
やさしくてつよい手でつつんでいてください
ほしが かおを出します
とりや どうぶつや 花は
もうじき ねむります
ぼくもこれからねます
神さま ありがとう
神さま だいすき
明日もきっと良い日でありますように
アーメン
↓


花は散り、愛は残る

「人はみな草のようで、
その栄えはみな草の花のようだ。
草はしおれ、花は散る。
しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない」
ⅠペテロⅠ:24,25
私たちは生においてだけでなく、死においても同じく自分を与えるように召されています。
与えるために私たちが裂かれたことが本当だとすれば、私たちの最終的な傷、すなわち死は、自己を与えるという最終的な贈り物の手段になるのです。
私が絶えず驚かずにいられないことは、自分自身の死に備えてよい準備をすることを、この社会が妨げ続けていることです。
そして、ついに自分の死が近づいていることに直面すると、私たちはそれを懸命に否定しようとしたり、途方に暮れたり、さらに、それから逃れられなくなると、怒り出すことさえします。
しかし私たちは、神に愛されている者として生きることを、最後の与える行為である死への準備として信じるように召されています。
私たちは、他の人のために生きるように召されているだけでなく、他の人のために死ぬにようにも召されているのです。
私は死は喪失以上のものだと深く信じています。
私たち愛した人や愛してくれた人の死は、新しい、より根本的な一つとなる交わり、新しい親密さ、互いへの新しい所属の可能性を開きます。
もし、愛は死よりも強いというのが事実なら、死は愛の絆を深め、強くする可能性を持っているはずです。
そうです。
良い死というものがあるのです。
ヘンリ・ナーウェン
いよいよ、ヘンリ・ナーウィンのこの「愛されている者の生活」の中の、最も彼らしい、彼特有の賜物である文章に近づいてきた気がします。
ヘンリ・ナーウィンって誰?って聞かれたら、死を打ち破る命ではなく、死を打ち負かす命でもなく、生と死を包む愛を見つけた人って私は言いたいです。
とても偶然なんだけど、夕べ電話で旬子先生と友だちの死について話しました。
家族の死はおろか、深刻な病気にさえ、今のところ立ち会ったことのない私は、それがどんな感じなのか、全く想像ができずにいました。
私は、つい先日その友だちと一緒に写真を撮ったので、それをプリントしてピアノの上に飾ろうと思います。
そして、ピアノを弾きながら、彼を思い、その日、その時を、神の心のままに悲しみ、そして、喜べるように祈りはじめようと思います。
いつもありがとう。
あなたのためにも祈ります。
アーメン↓


Sunday, March 1, 2015

あれこれいろいろだった日曜日

主の日、聖日、いかがでしたか?
私は、あれこれいろいろ盛りだくさんでした
まず、かりんちゃんがひさしぶり来てくれてうれしかった
かりんちゃん2週間ぶりに礼拝に来てくれて
はな、大喜び
聖餐式の間の奏楽もなんとか、弾きたかったように弾くことができました
でも、その後の献金のお祈りの当番だったことをすっかり抜けててちょっと慌てちゃった
そっか、今日は2月29日だとばかり思っていたけど、3月1日だったのね
そうそう、エリさんに例の本のタイトルを確かめて買っちゃった!
ベースになっている物語のDVDも買っちゃった
全然関係ないけど、
おちついていのるべしと書かれた水筒も買っちゃった 
ブック・ストアで、
お話しがしたいな、メール書こうかな、それとも直接会いに行こうかなっ、
て思っている人たちにばったり会ってびっくり仰天
私は、これぞまさに、神のアレンジと思って、
1年ぶりに会う彼らに、たくさんの祈りの課題を託してきました
感動と感謝でぼ~っとしながら、ふらふらとブック・ストアを後にし、
マルカイで2割引きのお寿司をあれこれ買って帰りました
今日のディナーはこれとおそば
食べてる横で写真を取って、そして書いてます
たまにはいいよね
お惣菜ってたまに食べるとすごくおいしい
今日はたくさんの人のごはんを作った日だから、特にそう思う
今日も読んでくれてありがとう
ありがとう
↓


シンプルに生きる

イエスはパンを取り、祝福して裂き、
弟子達に与えて言われた。
「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」
マタイ26;26
きびしい競争と貪欲なこの世界で、与えることの喜びに触れる機会が失われているのは悲しいことです。
私たちの多くは、幸福は所有することにあるかのように生きています。
しかし私は、持っているがゆえに本当に幸福だという人を誰も知りません。
真の喜び、幸せ、内なる平安は自分自身を他者に与えることから来ます。
幸福な人生とは、他者のための人生です。
まず何よりも、私たちの生それ自体が―私たちはそれをほとんど忘れていますが―与えることのできる最大の贈り物です。
私たちの本当の賜物は自分が何者であるかであって、どれだけ多くのことができるかではない、ということです。
私たちがなすべき本質的な問いは、「私たちは互いに何を提供できるか」ではなく、「互いにとって何者であるのか」です。
私は年を重ねるにつれて、私の提供すべき最大の贈り物は、私の生きる喜び、私自身の内的平和、私自身の沈黙と静まり、私自身の健やかな生活感覚であることにますます気づくようになりました。
私は、どのような人が、私をいちばん助けてくれるだろうかと自分に問うならば、喜んで私と生を分かちあってくれる人という答え意外に見つかりません。
すなわち、友情、親切、忍耐、喜び、平和、赦し、柔和、愛、希望、信頼、その他多くのもの。
これらは、私たちが互いに与え合うべき真の賜物です。
ヘンリ・ナーウィン
賜物は才能よりの大切と、私もだんだんわかるようになってきました。
最初はあきらめるかのようにそれを知りはじめ、でも今では、少しの才能でどれだけたくさんのことをなすかということよりも、神の無限の蔵から無限に受けることのできる賜物で、どれほど、本当の自分に近づくか、(イエスさまの近づくか)について考える方が、よっぽど幸せと思えます。
とても似ているけど、全然違うので、ちょっとの方向の角度の違いで、行き先が全く変わった気がします。
今日は、聖餐式です。
聖餐式にいつもソロでピアノの弾いてくれるピアニストがいるのですが、彼女にピンチヒッターを頼まれて、今日は私が代わりにピアノを弾きます。
取られ、祝福され、裂かれ、与えられたイエスを思いながら、心をこめて弾こうと思います。
アーメン↓