Wednesday, September 30, 2020

人類の標準:The Normal ひゅーまん Life


明日から10月というのに、とっても暑い1日でした。
でも、とっても良い1日だった。
朝シャワーをしている最中に、父と母への私の心配に主の慰めがあつ〜いお湯と共に降ってきて、思わず、「ああ、ありがとう、神さま・・・」と声に出して言いました。
仕事先では、今度はつめた〜いお茶とお煎餅をおみやげにいただき、帰りの車の中でぐびぐびとラッパ飲みしながら、「ああ、ありがとう、神さま・・・」ともう一度、声に出して言いました。
この世界は、本当に、いつだって神と人のやさしさと思いやりに満ちていたのだと思う。
「キリスト者の標準」の以前に、「人類の標準」として。
人生って、実はそんなに難しくなかった。
私、知っていた。
でも忘れていた。
そして思い出した。
私はあっという間にこのやさしさや思いやりに慣れてしまうのだと思う。
だから、その感動の何もかもを今、書いておきたいと思うのです。


ノーマルな人生、感謝な日々

私はこう確信しています。
死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、
今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
高さも、深さも、そのほかどんな被造物も
私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、
私たちを引き離すことはできません。
ローマ 8:37
夕べ、久しぶりに、姉妹方と楽しく電話でおしゃべりしました。
そして、今朝、大すきなローマ人への手紙の8章を読んで思うこと。
「キリスト者の標準」とは、聖なるキリストの聖なる血による贖いへの単純な確信なのよね。
聖なるキリストの聖なる血による贖いへの理解ではなく。
理解は霊によるものであって、私たちには一生をかけてもできないと思う。
そして、その聖なる血を見て、安心するのは他でもない、私たちの父なる神さま、「ああ、この人は、わたしのものだ」「ああ、この人も、わたしのものだ」と私たちにふりかけたられたそのしるしを見て、過ぎ越してくださるとこの本の中にありました。
私たちがどういう人であるのかは関係ないと。
私たちが、もし、霊によって傷を受けるとしたら、それは、キリストの霊ではないと思っても許されるかもしれない。
私が、この新しいノーマルなクリスチャンライフ(昨日も書いたけど、この本のオリジナルの英語はなんと、THE NORMAL CHRISTIAN LIFE )に慣れて感謝を忘れるのはきっと時間の問題なのだけど、でも、覚えておきたいことは、キリストの霊はキリストの霊を愛するものだというシンプルな定義。
そして、愛って、良いもの。
うれしいもの。
優しいもの。
心の温まるもの。
御霊の実は決して、ばら売りされない。
喜びも平安も寛容も親切も善意も誠実も柔和も自制も全て愛。
愛は決して、自分の正常を疑わせるものではない。
そのことを忘れずにいるために、私、しばらく記念碑を持って生き続けることにしました。
この本、うしろを見たら、なんと300えん。

★RHCC Japanese Ministry はあなたを歓迎します
毎週日曜日、9時より北側のキャンパスの野外で礼拝をしています

Tuesday, September 29, 2020

ノーマルな日々、感謝な人生

神に感謝すべきことは、
あなたがたはもとは罪の奴隷でしたが、
伝えられた基準に心から服従し、
罪から解放されて、義の奴隷となったのです。
その手足を義の奴隷としてささげて、
聖潔に進みなさい。
罪から解放されて、神の奴隷となり、
聖潔に至る実を得たのです。
その行き着く所は永遠のいのちです。
ローマ 6:17-22
熱くておいしいコーヒー、2杯目を飲みながら書いています。
家族や教会の仲間たち(特に賛美チームの)、そして、今日までずっと、側で私を見守ってくださっていた方々、読んでくださっていた人々のやさしさやあたたかい励まし、そしてお祈りに支えられて、人生の新しい扉のこちら側のひと月が、一杯の感謝と共に静かに終ろうとしています。
世界は本当は、実に、平和で、静かでやさしかったのだなとしみじみと感動しています。
それに慣れてしまうことは、簡単かもしれません。
大きく息をはきながら、身体の力を抜いて、「神さまありがとう」と思い、ふた月もすれば、いつしかそれは、感謝でも何でもない、ただの普通の日々となってゆくのでしょう。
でも、今朝、「忘れてはならない」、と神さまに言われた気がした。

写真は教会の図書から借りてきて読んでいる本です。
タイトルは「キリスト者の標準」
このタイトルのオリジナルの英語はなんだと思いますか?
The Standard ?The Standard of Christian ? 
違うのです。
オリジナルタイトルはこうです。THE NORMAL CHRISTIAN LIFE 

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日曜日の9時から北側のキャンパスの野外で礼拝しています

Monday, September 28, 2020

RHCC Japanese Ministry はあなたを歓迎します

私をいやしてください。主よ。
そうすれば、私はいえましょう。
私をお救いください。
そうすれば私は救われます。
あなたこそ、私の賛美だからです。
エレミア 17:14
月曜日です。
いつの間にか月曜日が普通の日になっていました。
幼稚園で働いていた頃、月曜日は特別な祈りをもって迎える特別な日であったことを、辞めて初めて知りました。
色んなことがワンテンポ遅い私だけど、遅くてよかったと思うことばかりです。
月曜日って、小さな子どもたちはもちろん、大人たちもとってもご機嫌が悪くて、そこに、巻き込まれ、反応しちゃうと、彼女たちのご機嫌が自然に直った頃、今度は私1人が不機嫌という悲しいことになっちゃう危険をが一杯な曜日だったのです。あはは。
知らぬが仏の祈りの勝ち(こんなことわざはない)です。
さて、新しい月曜日です。
今日は仕事はないのだけど、何か関係のないことをして気分転換をしたいほど仕事をしているわけではないし、今は頭の中が仕事のことで一杯なので、次に向かっての組み立てや準備、教材のお買い物などをしてすごそうと思います。

★Rolling Hills Covenant Church Japanese Ministry に通っています。
毎週日曜日、朝9時から野外でマスクを着けて礼拝しています。

Sunday, September 27, 2020

家族の思いあれこれ


良い聖日、すばらしい礼拝でした。
先週の報告で、礼拝者の人数についてちらっとふれられ、私なりに、心配をはじめようとしたその矢先、新しい人が来てくれていて、とってもうれしかった。
誰かが一生懸命にお祈りして、そして神さまがお招きしたのだと思います。
私には、何ができるかな。
私も何かしたいです。
まずはお祈りをしなくれはなりません。
きれいごとの口先や社交辞令ではない真実な心の祈り・・・。
今日は、賢人が、長い夏休みを終え、アーバインに無事、戻っていきました。
本当に長い夏だった。
どこにも行かず、文句も言わず、この小さな家の小さな部屋で本当によくがんばりました。
夜な夜な、あの子の部屋からキーボードを叩くカタカタという音が聞こえない夜はなかった。
宿題でもないのに、ただ、好きという気もちだけで、毎晩、物語を書き続けていた。
それしか、できることがなったのかもしれない・・・。
どうか、あなたが彼の中に置いたこのパッションに責任を負ってください、今朝、礼拝に向かう車の中で思わず、こんな脅迫じみたお祈りを捧げてしまいました。
淋しくなります。
もうカタカタが聞こえないと思うと。
★今日のランチ。私の心のぽっかり感を知ってか知らずか、夫がひさしぶりに作ってくれた得意のラーメン。おいしかった〜!




 

朝のこと、夜のこと

私はあなたのみことばを見つけ出し、
それを食べました。
あなたのみことばは、私にとって
楽しみとなり、心の喜びとなりました。
エレミア 15:16
この頃、いつも、朝の気分や気もちについて書いている気がするけど、今朝も朝の話。
起きたその瞬間に何をするかは、本当に大切と思う。
それを選べることはとても幸せです。
朝をお造りなる神さまと共に1日を始められることは何にも変えられない平安なことです。
そしてそれは、実は夜からつながっているのかもしれないなっと、今朝思いました。
朝リセットするのでは、ちょっと遅いのです。たぶん。
リセットは夜、寝る前に。
そして、朝はリスタート。
何もないわけではないのだもの。
必ずしも毎日が平和で大丈夫なわけじゃないけれど、でもそれであったとして、罪を犯さないでいられたのはあなたのおかげです。
神さま、ありがとうと思って寝ることが、朝の気もちに大きく影響をしている気がするのです。
もし、めちゃくちゃになってしまった日であったとしても、ごめんなさい、神さま、明日こそ、きっとあなたに喜ばれる私でいられますように、と思って寝たいです。
今日もきっと良い日でありますように。
どこでどんな礼拝をするにしても、どの礼拝の中にも、神さまの御臨済と霊が満ちあふれますように。
アーメン


 

Saturday, September 26, 2020

お財布新調しました!


とっても良い日でした。
すごくがんばった。
そして、がんばったかいがあった!
がんばった自分へのご褒美にお財布を新調しました。
ご褒美っていうか、もう限界だったのだけれど、限界にも、結構幅があって、お金がこぼれるわけではないし、とがんばっていました。
でも、今日は、さすがにうれしくて、そして、晴れてとりあえず、無職ではなくなったので、えいっと、思いきって新調しました。
覚えていますか?このお財布。
欲しくて、欲しくて、お祈りしながら写真に撮ってそれを記事にしました。
その写真を拝みそうになっていた今日この頃。(これ冗談)
神さま、ありがとう。
拝む前に与えてくれて・・・。(これ本当)

私の仕事

この希望は失望に終わることがありません。
なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、
神の愛が私たちの心に注がれているからです。
ローマ 5:4,5
目覚まし時計を使わなくなって、もうすぐ一月になります。
5時から6時の間のどこかで起きられるようになりました。
目が覚めたら、すぐに起き出します。
小さい頃からずっとそうです。
まるでバスが目的地に着いたかのように、何も考えずにさっさとベッドから降ります。
この頃は、特にそうです。
何の心配も何の憂鬱も思い出せず、「あれ、何もない。いえい!」と意味不明の喜びと共に、ともかく動くわけです。
でも、本当は何もないわけではなかったことを、聖書が思い出させてくれます。
色々あったのです。
でも、だいじょうになりました。
色々あるのです。
でも、だいじょうぶです。
今日も新しい仕事が私を待っています。
神さまがくださった贈り物をシェアするという仕事です。
Share your time, your energy, your friendship, your love, and your resource.
今朝のジョエルさんのメッセージです。
神さまが私にくださった良い物を、私の中で受け取る人のニーズに合わせて形を整えて差し出します。
もらってくれる人がいることが、本当に幸せです。



 

Friday, September 25, 2020

ちゃらんぽらんなりに真剣にお祈りしていること


幼稚園を辞めて25日め、はじめての現場仕事でした。(打ち合わせや準備じゃないって意味ね)
ちょっぴり緊張したけど、でも、とっても楽しかった。
そしてとても良い手応えを感じた。
私の手応えって、つまりこれからもっと楽しくできそうっていうそういう全く仕事っぽくない根も葉もない手応えなのだけどね・・・。
まるで「楽しく」が人生のコンセプトのちゃらんぽらんな遊び人みたいだけど、まあ平たく言って私って、そういうヒトだし、それがとても大切なのです。
ほっと一息を入れる間もなく、
残りの時間のほとんどを今日の次回と明日の準備に走り回り、それから教会のお友達とのZoomでの勉強会に滑り込みました。
初めて自らミーティングをスケジュールしてみました。
色々わからないことだらけだけど、なんとか、かんとか、前に進んでいます。
別に前に進むことが目的なわけではないけれど、留まってはいない日々。
神さまの目にはぐるぐると同じ場所をお散歩してるみたいかもしれないけれど。
夕べ、東京のお友達と電話でおしゃべりしました。
もしかしたら、彼女が私と一緒に九州に行ってくれるかもしれません。
公共の乗り物を使わずに家に帰るには、レンタカーしかないのだけど、運転は大丈夫だとしても、病的な領域な方向感覚障害なので、(これは真面目な話)祈って祈って祈って神さまからいただいたアイディアです。
彼女と心をこめて一緒にお祈りしました。
もしかしたら、この秋か冬、父と母に会えるかもしれません。
会えることを祈っています。

人の道、神の道

主よ。私は知っています。
人間の道は、
その人の歩みによるのではなく、
歩くことも、
その歩みを確かにすることも、
人によるのではないことを。
エレミア 10:23
やっと涼しくなりました。
何をするにも良い季節です。
お料理するにも食べるにも、洗濯するにも掃除をするにも、勉強をするにも本を読むにも、ピアノを弾くにも歌うにも。
私たちの人生を、より楽しくするために、季節をお創りになられた、神さまの心が大すきです。
遊びの心のようで・・・。
★写真は先週末にドライブしたマリブで立ち寄った地元のマーケットの中庭。
砂場の真ん中で女性たちがおしゃべりしています。
足元には犬もいます。
冗談みたいな光景です。
はやくこの砂場で子どもたちが遊べる日が戻ってきますように。
神さまは、その日をご存知です。
だから、私たちは安心して、今日すべきこと、私たちにしかできないことをやれば良いと思う。
今日もきっと良い日でありますように。 

Thursday, September 24, 2020

楽ちんふたつ


今日は、ほとんど半日をかけて、仕事道具のお片付けをしました。
8月31日の幼稚園最後の日、幼稚園から持って帰ってきた私物を、迎えに出てくれた夫が車から降ろしてくれて、家に運ぼうとしてくれたのを、やんわり断って、ガレージにおいてもらいました。
しばらくは、見たくなかったし、片付ける気にもなれないと思ったので・・・。
それを、今日こそはっと、がんばりました。
感傷にひたれないほど、頭がぐるぐる状態だったので、てきぱき・ぱっぱと終わらせることができました。
とってもすっきです。
いらない物、捨てる物は何もなかった。
さすが私。
完全ミニマム。
いや、ちょっと足りないかなっとという点をずっと維持して生きてます。
おかげでこういう時とても楽です。
髪の毛だけど、朝シャワーして、タオルドライして、頭をぶるぶるとふって、指で髪の毛の向きをなんとなく決めただけで、岡田さんが作ってくれたスタイルのままだった。
やったー!
超・楽チン。
まあ、長い時もそうだったけど。
でも、勝手にめちゃめちゃ膨らんでくれるのがとってもうれしい。
長い時は、かなりお天気次第。
ふわふわでハッピーだったり、ぺったんこで残念だったり。
でも、自分では何もしたくないから文句も言えなかった。

だいじょうぶ、だいじょうぶ

神である主の霊が、
わたしの上にある。
イザヤ 61:1
毎日が規則正しく流れてゆくようになりました。
子どもがそうであるように、大人だって、ある程度の決まったパターンの中にいるととても落ち着きます。
毎日、同じどこかに出勤して、決められたスケジュールの中で予定をこなして、時間を合図に帰路に着くのと違って、自由に時間を管理するのはとても難しいです。
私は苦手。お金の管理も苦手。
「お小遣い、はいどうぞ」というのが大すきです。
八百屋さんで働くことはできても、八百屋さんにはなれません。
私が八百屋さんになったら、ポテトも松茸もゴボウも全部200円です。(なぜかYEN!)
そして、売り上げの全てをまるでお小遣いのようにわーいわーいと使い果たし、お店の電気代も払えず、市場に新しい野菜を買いに行くこともできなくなってしまいます。
でもだいじょうぶ。
神さまは私に八百屋さんになりなさいとは言っていないから。
難しいこともがんばってみたら、「あら、楽しい」ということも一杯経験してきました。
何よりも、主の霊がわたしの上にあるからだいじょうぶ。
★写真は週末にドライブしたマリブで偶然通りかかったファーマーズマーケットのテーブル。
さすがマリブでしょ、売っているもが違うのよね〜。
テントは全て白で統一されていて、洗練されすぎていて、サン・ペドロのいなかっぺの私とはなは、ちょっとびっくりでした。

Wednesday, September 23, 2020

髪の毛一杯切りました

髪の毛、いっぱい切りました
メイクせずにどこにでも行くようになりました
ヘアカットの岡田さんも、顔に合わせて(?)
洗いっぱなしの髪でスタイルしてくれました
私服が少ないので、お洗濯が大変です
セーターはわりと持っているから、
早く寒くなってほしいです・・・



 

見えない城壁

主は絶えず、あなたを導いて、
焼けつく土地でも、
あなたの思いを満たし、
あなたの骨を強くする。
あなたは、潤された園のようになり、
水のかれない源のようになる。
イザヤ 58:11
神さまや家族と教会の人たち、それから私のことを忘れずにいてくれて、好きでいてくれて、心配してくれる人たちのやさしさに感謝の気もちを忘れずにいよう。
こんな風に神さまの廻らせる見えない城壁の中で、安心して愛しあえること、素直になれること、率直でいられることは本当に幸せです。
安心して夢中になれること、安心してがんばれること、それはとてつもなく大きな価値のある場所、空間、関係、なんと言えばよいのだろう・・・、「見えない城壁」。
見えない城壁の中で、心の中にあったさまざまな夢の破片、夢のメモの紙切れ、捨てられなかった願いを見つけました。
心の中の奥の、暗いところにあかりが灯り、あ、ここにも、あ、あそにも、と、まるで、エッグハントのよう。
そして、シワをのばして、並べてみています。
何年たっても変わらなかった好きなことは、きっとずっとすき。
何年たっても忘れなかったことは、きっとずっと忘れない。
何年たっても大切なものは、きっとずっと大切。

今日こそ、ヘアカットしてしてもらいます。
痛んだところ切ってもらって、すっきりしよう。

Tuesday, September 22, 2020

畏怖と畏敬のてんやわんや人生


頭の中のぐるぐるを自分にだけわかる記号で書き出し、伝えるべき人に伝え、知るべきことを知り、又それを誰にも解読不可能な図でメモし、少し落ち着いてきたところです。
私って、一生、こうやって生きていくんだわね、きっと。
てんやわんや人生。
さっき起きて、さっきまで聖書を読んでいたと思ったけど、気がついたら、夜でした。
いや、とぼけちゃいけない。
炊き込みご飯を焦がしたしたんだった。
あっという間に月曜日以外、土曜日までもが仕事で埋まりました。
こわいぐらいの勢いです。
でも、だいじょうぶ。
全ては神さまのご計画どおり。
知るべきこと、学ぶべきこと、準備すべきことの山々の前に恐れをなして、おののきそうになっているけれど、これぞ、まさに神さまが私に求めてくださっていたことだと思う。
この畏怖。この畏敬。








・・・。

 ありえない失敗・・・
お昼のつもりだった炊き込みご飯を焦がしました
頭の中の嵐が納まるまで、
私、あまり難しいことしない方がいいかも
っていうか炊き込みご飯、全然難しくないけど・・・
失敗することが難しいし・・・
・・・。

イザヤ 51章と52章

わたしは、わたしのことばをあなたの口に置き、
わたしの手の陰にあなたをかばい、
天を引き延べ、地の基を定め、
「あなたはわたしの民だ」とシオンに言う。
イザヤ 51:16
この2、3日、ずっと軽いブレインストーム状態が続いていて、なかなか落ち着かず、かなり躁です。
頭の整理整頓が必要なのだけど、アイディアの勢いが納らない限り、収集がつかないのかもしれません。
なるがままにまかせて、嵐の中でコツコツと作業を進めています。

今朝はイザヤの51章と52章を読みました。
それだけです。
でも、行きつ戻りつしながら、何度も読みました。
心の板に刻む思いで、ノートにも書き取りました。
もし、ここを半年ぐらい前に開いていたら、私の人生は今と違っていたかなって考えてみました。
もしかしたら、そうかもしれません。
でも、結局はこんな風に導かれ、今向かう方向にむく日はやがて来ていたと思う。

今日は、お花を買おうと思います。

Monday, September 21, 2020

快眠生活における9秒の決断

わたしは、あなたの神である。
わたしは、あなたに益になることを教え、
あなたの歩むべき道にあなたを導く。
イザヤ 48:17
毎晩ぐっすりとよく眠り、そして、夜明け前にすっきりと目覚めるようになりました。
あたりまえのことのようだけど、これも神さまの恵です。
目覚めた時の、昨日の続きの心配のかけらのようなものが一掃されていることに気づきました。
朝一番の「なんだっけ」が習慣になっていたのだけれど、なんにもないブランニューな気分で目覚めることの幸せは、何ものにも変えがたい、神さまからの贈り物。
「昨日のことを思い出さなくては」、とは思わず、「ああ、朝だ、あれをしよう、これもしよう」、そんな風な朝でした。

写真は、マリブの山のふもとで見つけた植物屋さん。
ふらっと入って、値段も手頃だし、色々欲しいお花を見つけてしまったけれど、ぐっと我慢して、その代わりにパティオを飾るライトを買いました。
こちらは、ずっと欲しくて値段と長さの理想的なものを探していたので、9秒ぐらいで決心。
さっそく夫がつけてくれました。
お庭でごはんを食べたり、本を読んだりすることが、この頃の小さな楽しみです。
(外だと、メガネがいらないので、疲れずにたくさん読めて勉強にはもってこいです。礼拝も野外なので、メガネがなくて聖書が読めるし、ピアノの楽譜もだいじょうぶ。いろいろ見つかるコロナの副産物です)

Sunday, September 20, 2020

パティオの電気が灯る日

お買い物、ずっと、がまんしていたけど、
(20日間!)
ついに買っちゃった
パティオの明かり

ドライブをしながら考えたこと


礼拝の後、早めのお昼ご飯をささっとすませ、おでかけしてきました。
憧れのマリブ。
よくハイキングで行ったマリブだけど、今日は、山ではなく、海沿いのドライブです。

ドライイブしながら、ずっと考えていたこと。
コロナという名の新種の疫病が大流行して以来、ほとんど毎週のように、きれいな景色を求めてドライブをしてきたけれど、今日ほど、気もちのよいドライブはないなって。
この半年を、なんだかしんみり、ふりかえったりして。
色々あったけど、でも、いつもとても幸せだった。
たくさん、愛されたし、よくしてもたった。
悲しいこともあったけど、でもそれ以上によく笑ったし、楽しかった。

これからも、もっともっとそうだと思う。
神さまは私に、夢見る力をくださった。
賜物と言っても許されると思う。
いつだって、前に進んでこれたのは、そのおかげです。
これから、どんなに楽しいことが、私を待っているのだろう。
わくわくしながら、運転をしました。

ENJOY LIFE

わたし、このわたしは、
わたし自身のために
あなたのそむきの罪をぬぐい去り、
もうあなたの罪を思い出さない。
イザヤ 44:25
人生をもっともっと楽しもう。
生きるって、生かされるって、本当にすばらしい。
神さまのために造られたのだから、神さまと一緒に生きよう。

みことばを生きよう。
生きて見てもらおう。
標本のように。

みことばを食べよう。
さつまいもやかぼちゃに愛をこめて。
ほくほく食べよう。

みことばと遊ぼう。
遊びながら覚えてしまおう。
海でも山でも荒野でも谷でも、どこにいても思い出せるように。

みことばを学ぼう。
証しあおう。
熱いお茶を飲みながら、笑って、泣いて、励ましあって。

みことばを歌おう。
おんちでもだいじょうぶ。私もおんち。
ちょうしっぱずれでもだいじょうぶ、大きな声で歌ってしまおう。

みことばを祈ろう。
イエスさまがお祈りを教えてくれる。
イエスさまが一緒にお祈りしてくれる。

春、夏、秋、冬、全てのめぐりくる季節の中で、人生をもっともっと楽しまなければ。



 

Saturday, September 19, 2020

我が子への生きた標本

時間をかけて、じっくりと話し合い、質問を重ねながら進めてゆく仕事。創ってゆく仕事
喜びというお互いの報酬が、最も広くて高い地点を、心を開いて話し合える仕事がひとつ成立しました。
大きな一歩です。
たくさんの失敗を乗り越えて、確かめるべきことは全て確かめました。
こうして欲しかった、こんなことはして欲しくなかった、の後の祭りの中で傷つけ合うことなど決してありませんようにと、祈りながら、勇気を出して。
今、本当に良い気分です。
この3週間、正確には、19日間の中で、最も良い日、うれしい日となりました。
全てをのりこえられそうな気がしてきています。
神さまのおかげです。
みことばのおかげです。
お祈りのおかげです。
教会のおかげです。
おかげ、おかげの、うれしい感謝な秋がやってきそうです。

夫も賢人もはなも、この話を、心から喜んでくれました。
みんな、私はほっといても、そのうち勝手に元気を取り戻し、すぐにてんてこ舞になるはずと笑いながら、でもどこかで、私の挫折を心配をしてくれていたのだと思います。

子どもたちに標本のように見てもらえてとてもうしれい証です。






 

神との和解

どうか私を健やかにし、私を生かしてください。
ああ、私の苦しんだ苦しみは
平安のためでした。
イザヤ 38:13
古今東西、人は、何をどう、祈っても、結局求めているのは「主にある平安」なのに、人はそれになかなか気づかずに、一生懸命に目の前にある問題や障害や痛みや悲しみや苦しみについて、神さまに打診や交渉、嘆願をしているのかもしれません。
そして、神さまは、その打診や交渉や嘆願にさまざまな形で丁寧に応えてくださることで、本当の必要を満たしてくださる。
つまり、神の臨済。
神の側にいるセキュリティ。
神さまだらけのこの世界、神になりたい人で満ちているこの世界の中で、本当に心から安らげるのは、まことの神の側だけだと思う。
贈り物を愛しすぎてはいけないと思うのはそういうことなのです。
良いものはたくさんあります。
全て神さまの贈り物です。
でも、それが心に大きくスペースを占める時、平和が小さくなる。
神との平和を取り戻そうとして、あわてて、贈り物と自分の間に、線をひこうするけど、上手にできず、周囲や自分を傷つけてしまうことってあると思う。
でも、神さまは必ず癒してくださる。
時間はかかるかもしれないけれど。
私、そう信じています。



 

Friday, September 18, 2020

小さな植物園


なんとも良い感じにルーティーンが定まりつつあります。
晩ご飯の支度は、夕方、よっこらしょってならないために、お昼ごはんの片付けのその流れでやってしまうのが良いと気づきました。
おおむねすませておいて、直前は火を入れるとか、和えるとか、その程度が手抜きにならないコツかもしれません。
20代の新婚じゃあるまいし、今ごろ、気づくかよって、座布団が飛んでくるかもしれないけれど、私の場合、いくつになっても学ぶべきことは山のようにあるのです・・・。

小さな仕事のオファーが毎日のように、ころころ、お団子みたいに転がってきます。
どれも、これも、とっても楽しそう。
喜んでお引き受けしたいところだけど、私の仕事も喜んでほしいから、じっくりとプランするために、何度も話し合って、確認しながら進んでいます。
時間やお金の管理がものすごく苦手だから、それがとても心配。
自分をマネージメントするもう一人の自分が欲しいです。
集中する私と、それをたんたんと管理する私。

このところ何度か連続で記事の中にのせている写真は、今、お気に入りの植物屋さん。
お花や植物の苗や苗木はもちろん、ガーデニングのための道具、お庭のアクセントになりそうなかわいいオーナメントがとても充実しています。
まるで小さな植物園のよう。
インスピレーションが刺激され、気もちがリフレッシュされる私のオアシス。

愛はアジの南蛮漬け

義は平和を作り出し、
義はとこしえへに平穏と信頼をもたらす。
イザヤ 32:17,18
あたりまえすぎることを書くけど、でもこのあたりまえのことを信じるのが私にとって、とっても難しいから、あえて書くけど、神さまのことばは、信じるに値します。
今朝、心からそう思うのです。
昨日、知らない間に平和を祈りました。
本当は、愛してくださいと祈ったのです。
具体的に祈りました。
夫を通して、あなたの愛をください、夫を通してあなたの励ましをください、そう祈ったのです。
夫の横を洗濯物を抱えて歩きながら。
そしたら、神さまの義が私を包みました。
「私はもう十分に愛しました」の心を神さまが取ってくださった。
そして、愛をくださった。
それは義なる平和の神がくださる夫の愛だった。
「義は平和を作り出し、義はとこしへに平穏と信頼をもたらす。」
アーメンです。
平和、とか、平穏、って、実は作り出すものだし、義は神さまからしかいただけないもの。
頭ではわかっていたつもりだけど、たぶん、信じていなかったのだと思う。
だから、こんなにうれしくて、こんなに感動してしまうのだと思う。
愛の形はいろいろです。
昨日の愛はお魚の形をしていました。
アジの南蛮漬けです。
私、このアジの南蛮漬けが大すきだった。
母の得意料理なのです。
でも、アメリカで食べたのは昨日がはじめてです。
夫が作ってくれました。
涙が出そうなほど、おいしかった。
ここだけの話、母のよりも実はおいしかった。
どんな味かっていうとね、それは、それは平和の味でした。(命を食べておいて、そりゃないぜって、鯵に言われるかしら、ごめんね鯵さん、でも本当に平和の味がしたのです)


Thursday, September 17, 2020

めざせ寛大、とどまれ無頓着


今日は、はなの授業が終わるのを待ち、夫とはなと私の3人でおでかけ。
ヘアカットに行ってきました。
予約ははなと私だったのだけど、彼が興味を示してくれたので、私の枠を急遽夫に譲り、夫とはなが切ってもらうのを、スタイリストのおかださんと世間話をしながら眺めていました。
私は失業中の暇な身の上なので、今、時間に関してはとっても寛大。
来週に予約を取り直しました。
おかださんは、とても仕事が丁寧で時間をかけれくれるから、一人で来て、色々相談しながら切ってもらいたいっていうのが本音です。
夫も彼女のことを気に入ってくれたようで、これから、親子3人でお世話になりそうなおかださん。

さて、ヘアカットの後は日系マーケットでのお買い物。
お豆腐厚揚げ納豆の大豆兄弟と、そばうどんラーメンの麺類、そして、日系にしかない野菜や薄切りのお肉を買い込み帰路に着きました。
私が、必死に安い、セールの商品ばかりを選ぶ中、夫もはなも、目が欲しがるものを、ぽんぽんとカートに放り込み、会計はもうすぐ3桁・・・。
まあ、いいわ。しかたありません。
ステイホームでは「作る」と「食べる」が楽しみの中心だもの。

そして、私は、失業中といいつつ、そのうち、またてんてこ舞いになるにきまっていると家族も周囲も思っているから、そのてんてこ舞いの頃と同じ無頓着さでいた方が家庭は円満なのです。はい・・・。

私の先生

たとい主があなたがたに乏しいパンとわずかな水とを
あたながたに賜っても、
あなたの教師はもう隠れることなく、
あなたの目はあなたの教師を見続けよう。
イザヤ 30:21
今朝はあまり、たくさんは読まず、イザヤの30章を何度か行ったり来たりして読みました。
21節には赤えんぴつがひっぱってあるけれど、その意味がよくわかりません。
でも、好きなのだと思います。
乏しいパンとかわずかな水だとは、決して思わないけれど、でも、確かに教師が私の前にいると思う。
見失ってはいけないと、毎日、彼の後ろを一生懸命について歩いています。
彼を追い越してはいけない。
彼から離れすぎてもいけない。
ひと間違いをしてもいけない。
五感を研ぎ澄ませ、自然や音楽や人、あらゆるものを通して、お話しする先生の声を聞き逃すまいと一生懸命です。

少しづつ、生活のリズムが整ってきました。
毎日、何かしらの予定が入るようになったし、その予定の時間も定まってきました。
これで、Yのプールで泳げたらいうことないな〜。

 

Wednesday, September 16, 2020

The Red Sea Diving Resort

おすすめです
でもひとりか、大人どうしで観てね
(すごくいい映画だけど、子どもとは一緒に観られません)

 

脱・ぼさぼさ


小さな1日の中に、いろんなことが一杯につまった、とても充実した良い1日でした。
私、今まで、本当によくがんばってきたのかもしれません。
誰にそれを言われても、あまり信じたい気もちになれなかったけれど、今日は、素直に「そうですね」と思いました。
それもまた、「砕かれる」というプロセスの一部なのかもしません。
2週間ぶりにマニキュアをしました。
女性にとって、外に出てゆくとは、そういう自分自身に関する楽しい面倒を喜んでみるということなのかもしれません。
それは、家族や教会が私にくれる愛とは、また、少し違う、でも、それも神さま愛、贈り物だと思います。
明日は、はなと一緒に久しぶりのヘアカットに行きます。
ぼさぼさしている場合じゃない。
前に進むべし。
前とは愛だ。
そう神さまが背中を押してくださっているから・・・。







 

前は、どこ

しかし、

もしわたしのとりでにたよりたければ、
わたしと和を結ぶがよい。
和をわたしと結ぶがよい。
イザヤ 27:5
昨日は7時、今日は6時半。起床時間です。
なかなか良い感じです。
昨日の午後、この聖日のための賛美曲を選んでいて、こんな歌をみつけました。
新聖歌の372番 「聖なる者と」です。
1、聖なる者と なさんとて
  主われをば 召し給えば
  聖なるものを 追い求めて
  俗なるものと 手を切らん
3、聖霊の火よ ああわれらに
  天より降り 聖別なし
  主イエス君に 愛せらるる
  全き者と 成し給え
素敵な歌詞です。
少しづつ、練習して上手に弾いて、上手に歌えるようになりたいです。
今日は、午後から約束があって、出かけます。
ひさしぶりに、家族や教会以外の人に会います。
色んなこと、少しづつだけど、前に進んでいます。
前は、どこ。
前は、愛。
もう、夢とか、目標とか、そういう風に言うのはやめにしなければ。
前は、愛。
そう、愛。
愛の中の夢。
愛の中の目標。
主イエス君に 愛せらるる 全き者と 成し給え アーメン



Tuesday, September 15, 2020

ヨナの気分


少しづつ、少しづつ、てさぐりで、毎日のパターンを構築中。
午前中は、あっという間なので、色々選んではいられないのだけど、午後に悪の誘惑が波のようにやってきます。
おうちの中もきれいだし、やることやったし、この辺で、ちょこっとベッドにごろんとなって、読書タイムとか、そういうのもいっかなあ〜、などなど。
今日もまんまとその誘惑に屈してしまい、C.S.ルイスをパラパラと読みふけるうち、ぐぐっと集中しそうなったけど、20分で切り上げ、晩ご飯の準備にとりかかりました。
カレーうどんとしゃけごはん、それにミニサラダです。
今日は、じょえるのお散歩中に、大すきな人からEメールが届き、ちょうど、木陰がたくさんある、ほとんど森のような公園の中にいたので、思わず、座って、きちんと読みました。
そして、それはとてもうれしい知らせ。
やっと、本当にやりたいことがはじめられるかもしれない。
でも、お祈りしなければ、神さまからの確信をいただかなければ、そう思い、電話をポケットに戻し、再び、森の中を歩きはじめました。
明日の朝、お返事のメールをしようと思います。
私、本当に神さまに愛されている。
大切にされている。
お魚にのまれたヨナみたい。
さからっても、すねても、それでも、愛してくださる神さまに、心から、感謝です・・・。

御手の中で

その日、あなたは言おう。
「主よ、感謝します。
あなたは、私を怒られたのに、
あなたの怒りは去り、
私をなぐさめてくださいました。」
イザヤ 12:1
なるべく、規則正しく、ある程度のパターンの中で毎日をすごしたいと思っているのに、なかなか難しいです。
静かなピアノだけの賛美を流し、聖書を開くと、もう時間の流れがよくわからなくなり、いつまでも、いつまでも、誰かが起きてくるまで、ただ、ぼんやりと座り続けてしまう今日この頃。
家事や庭仕事、これから先の準備やピアノの練習、じょえるのお散歩など、必須たすくすを、ささっと済ませて、午後の活動をもっと充実させたいです。
昨日の賛美チームのズームのミーティングのおかげで、エンジンがかかったのかもしれません。
励まし合って、支え合って、なぐさめ合って、祈り合える場所があることは、本当に幸せです。
それは御手の中のような温かで、安心なぬくもり。

Monday, September 14, 2020

新しい季節


祈りでサポートしてもらっていた、ZOOMでの賛美チームのミーティングに初参加させてもらいました。
すばらしいディスカッションでした。
昨日今日の関係ではない、長い時間と努力を重ねて築いてきた土台の上の安心した真正面からのことばのキャッチボールに、私は、ただ、その流れにいきなり直角に飛び込んだにもかかわらず、溺れることなく一緒に流れてゆける不思議な恵に感謝しました。
みんなとても純粋で、正直で、そしてひたむきで、私は自分の技術主義を恥ずかしく思うほどでした。
チームのひとりひとりの気高い霊性が、私の、超・この世的判断基準を砕いてくれそうな気がして、私は、静かに黙って、耳をすませていました。
これからも楽しみに参加させてもらおうと思います。
ミーティングの後は、犬のじょえるを連れてお散歩にでかけました。
知らない間にとてもよく訓練され、お行儀の良いじょえるくん。
どこに出しても恥ずかしくない、青年に成長しています。
新しいお仕事の話も、ちらほらと届きはじめました。
祈りながら、すすんでゆきます。
色々、変化でいっぱいな私の新しい季節です。

動機の確認

あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、
あなたがた自身も、
あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。
それは、
「わたしが聖であるから、あなたがたも聖でなければならない」
と書いてあるからです。
1ペテロ 1:13
昨日の礼拝の中心となったみことばです。
私たちが聖を目指す、理由はただひとつ。
それは、神さまのそばで幸せであるため。平安であるため。
今朝、伝道者の書を読み終え、そう思いました。
よりよい人生というのはの、その後ろにもれなくついてくるのでしょう。
だから、それに憧れすぎてはいけないと思う。(より良い人生の方ね)
昨日も、礼拝の中でそれをとても強く感じて、スモールグループでお話ししました。
聖をめざす理由を、他のことに置いていた時、私はとても苦しかった。(実は、今もそれが頭でわかっていても、心と体と魂の全てがそこに向かってアジャスト中なので、少し苦しい)
良い結果が出ないと、しばらくそれを放棄し、また戻って、目標を立て、がんばる。
そして良い結果がでないと・・・、の繰り返し。
どこで読んだんだっけ。
最近読んだ本の中に、天国への道は砕かれた心でできていて、地獄への道はもう2度と失敗しないという誓いでできている、というような意味のことを読んで、大きくうなずいてしまいました。
昨日も、牧師を通し、神は、私に、罪の解決に選択肢はないと強く迫ってくださった。
会衆は、みな、神に近づいても燃えてしまうことのない、十字架以降の、聖霊と罪の赦しを感謝していたけど、私は、そこまで神に近づいたことがない事実をつきつけられたのでした。




 

Sunday, September 13, 2020

地上のキリスト体験


研ぎ澄まされた足すことも引くこともない純粋で真っ直ぐなみことばのとりつぎの前に、くだかれた魂が集まって賛美し、お祈りし、ささげられる精一杯をささげ、心からの満足をいただきました。
礼拝とは、まさに地上のキリスト体験です。
ハレルヤ。
聖いイエスさまと仲良しでいるためにクリーンでいることは、何かを一生懸命にがんばることよりも、よっぽど難しいと思う。
それを難しいと感じることは、きっと、私特有の問題。
イエスさまが私に課した特別な課題。
きっと、私特有の賜物。
イエスさまが私にくださった特別な贈り物。
そんな風に考えてみています。
スモールグループでのシャアリングにも少しづつ慣れてきて、今日はそんな、心の深いところまで、お話しすることができました。
私、今、この教会に支えられて、やっと生きている。
でも、ちゃんと生きている。
★写真は最近とても気に入っている野鳥保護区内のトレイルコース
すごいカメラを持った人が歩かずに鳥を見つめる、別名:カメラのおじさんの道


 

Saturday, September 12, 2020

今日のランチ

びゅーてぃふるハンバーガー

 

贈り物の贈り主はだれ

実に神はすべての人間に富と財宝を与え、
これを楽しむことを許し、
自分の受ける分を受け、
自分の労苦を喜ぶようにされた。
これこそが神の賜物である。
こういう人は自分の生涯のことをくよくよ思わない。
神が彼の心を喜びで満たしてくださるからだ。
伝道者の書 5:19,20
伝道者の書を、これほど、しっくりと、心をそこに置いて、乾いたスポンジのように読むことができるのは、後にも先にも、これが初めてです。
聖書とは、本当に不思議な力を帯びた、特別なことばの宝箱です。
そして、今日という時に、この伝道者の書の1章がスタートしたことも、これまた、神の時。
美しいご計画。
色々、楽しみな1日です。
それも、これもみな、神さまの贈り物。
でも、愛するべきものは、贈り物そのものではなく、その贈り主。
(口調がちょっとソロモンみたい?)
どうぞ、良い日、良い週末、良い聖なる安息の日をおすごしください。

Friday, September 11, 2020

やさしさの正体


とても良い日でした。
ここ、数日、私を包んでくれているやさしさの正体がわかったような気がしています。
それは、あまりにも繊細で純粋な神の愛、人を通した神の愛。
文章にしようと努力しようとするはじから、この世界の支配者に拐われてしまいそうで、それができずにいます。
あまりにも無邪気で、あまりにも無垢で。
だから、書くことよりも、表現することよりも、感謝していただき、いつかきっと書ける日が来ると信じて、今はじっと胸に大切に抱いていることにします。
今日は、夫がお昼ごはんを作ってくれました。
ごはん、お味噌汁、納豆、オムレツ、そしてお漬物。
心が温まる彼の献立です。
家族みんなでテーブルで食べました。
8月の末、私の休暇の最初の週、「オンラインだけど、学校なの、だから、ランチも学校で食べたい」ときっぱり言って、お部屋にごはんを運んでいたはなもここ1週間、毎日一緒にテーブルで食べてくれています。
私を包むやさしさは、はなをも包み、そして、守ってくれています。

やさしさの正体、今はまだ、うまく表現できないけれど、そのうち、きっと書ける日が来ると思うので、楽しみにお待ちください。

来週は愛する姉妹たちと公園でピクニックを計画しています。
何を作ろうかな。
何をして遊ぼうかな。
神さま、ありがとう。
本当にありがとう。

平和の神の支配下にて

自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。
それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。
箴言 28:13

やさしい時間が静かに流れてゆきます。

この頃、毎日のように父と母とスカイプでおしゃべりしています。
母が髪の毛をきれいな栗毛色に染めていました。
スカイプがはじまると、はなが来て、私と一緒にカメラの視界に入ってくれます。
何も自分からはおしゃべりしないし、聞かれたことにしか答えないけど、ただニコニコとしているだけで父も母もうれしそうです。
それはそうよね、娘のしょぼしょぼした顔よりも、孫のぱーんとした顔の方が見てて元気が出るというものです。

電話やテキストでいただく励ましに支えられて、少しづつ、新しい自分に慣れてゆくようです。
新しい私。
そむきの罪を言い表し、捨て、あわれみを受ける弱い私です。

昨日は、箴言の5章24節から、神さまに新しい唇とくださいとお祈りしました。
毎日、いろいろなところが少しづつ新しくなる私です。
それは、必ずしも、うれしいことばかりではありません。
でも、私の内で、神の平和が確実に大きくゆきます。
ハレルヤ。







 

Thursday, September 10, 2020

おうちで焼きえび


ガレージの片付け、自分ではずいぶんがんばったと思うけど、見た目はあまり変わっていません。
今日は、無数にある、わけのわからいケーブル類を見た目の汚さで分けたり、危険な油を、これは夫に、使える、使えない、さらに使う、使わない、を聞いて、きちんと分けたりなどの作業をしました。
ケーブル類はスリフトストアへ、油は土曜日と日曜日に開く、近所の危険物のリサイクルセンターに持って行きます。
量にしたらわずかなものだけど、気もちは前に進み、そして軽くなりつつあります。

ピアノの練習もしました。
何をどこからどう取り組んで良いやらわからないかなり混沌とした分野なので、とりあえず、聖日礼拝の賛美の伴奏の練習をしました。
中学生ぐらいの頃にやったバッハとかモーツアルトとかの教本を開きたいけど、家族が全員家にいるので、ちょっとなんだか、それもできずにいます。
やっぱり、片手づつ、地味に練習できるハノンかしら。

空から灰が降り続けています。
今日のお天気は「スモーク」。
そんなお天気、知らなかったし、子どもに教えたこともなかった。
お天気は晴れ、曇り、雨、雪、吹雪、風、台風。
スモークってそれ、なんでしょう。
そして今日の月は信号みたいに赤い。
それで、お庭ディナーはあきらめ、おうちで焼えびです。









本日の予定

心のきよさを愛し、
優しく話す者は、
主がその友となる。
箴言 22:11
やさしいく流れる時間の中で、さまざまなものを通して、神さまは私にお話ししてくださいます。
例えば夫の髪の毛。
私:「のびすぎてるなあ。切ってあげたいけど上手にできるかなあ」
神さま:「あ・あ、それはやめた方がいいと思うよ。一緒に切りに行けばどう?」
例えば夢。
夕べ、とってもこわい夢をみました。
夢の中でこれは夢に違いない、と思うのに、そして周囲の人にも訴えるのに、それは絶望的なまでに現実的で、私は夢の中で本当に苦しみました。
でも、おかげで、起きて、目が覚めて、夢だったことを信じることができた時、心からうれしかった。
朝一番に開いた箴言のみことばを通して、神さまはその夢を解き明かしてくださった。
やがて現実となったかもしれない、おそろしい未来を見せることで、「心配をやめて、神さまとの時間、家族との時間、教会の姉妹たちとの時間をエンジョイしなさい」と言われている気がした。
さて、今日もメイン活動はガレージの片付けです。
それから、過ぎゆく夏を惜しんで、今日もお庭でごはんを食べたいな。
昨日、とっても新鮮でおいしそうなエビを買ったので、それを殻ごと焼いてお塩をふって食べたいです。
あちちと言いながら。

Wednesday, September 9, 2020

やさしい時間


やさしい時間が、しずかに流れてゆきます。
聖書を読んで、お祈りをして、賛美を歌う。
音楽を聴いて、本を読んで、外を歩く。
お買い物をして、お料理して、食べる。
シンプルな日々です。

今日は、夫と、Seafood City というマーケットに行ってきました。
まるで、遠足気分で、わくわくと。
いたいた。
ぴちぴちと新鮮な魚たち。
まるでミュージアムに来たみたいに、ただ、じっと見つめてしまいました。
ようこそマーケットに。
でも私にはさばけない。
夫がささっと選び、ささっと計ってもらって、色々買うことができました。

洗濯室の片付けが終わり、ガレージに取り掛かりました。
ここは、かなり大がかりなビッグ・プロジェクトです。
ここに比べたら、洗濯室のお片付けなんて小さなものでした。
引き出し一段から始めて、ついにガレージです。
そして、それが終わったら、きっと心や頭の整理にとりかかるのでしょう。
でも、だいじょうぶ。
いつも、主が共にいてくださるから。




Monday, September 7, 2020

今朝の私の願い

しあわせなことよ。
情け深く、人には貸し、
自分のことを公正に取り行う人は。
彼は決してゆるがされない。
正しい者はとこしえに覚えられる。
その人は悪い知らせを恐れず、
主に信頼して、その心はゆるがない。
詩篇 112:5~7
このことばのような人になりたいです。
特に、「悪い知らせを恐れず、主に信頼して、その心はゆるがない」のところ。
そのために、正しい者になりたいという、動機そのそのものが、もうすでに、とってもあやしく正しくない私なのだけれど。
神さまは、ものごとやできごと、人の良い面を、いつも、私に見せてくださろうとしてくださいます。
にもかかわらず、その反対側を無理矢理覗いておきながら、喜んでがっかりしているというのは、本当に愚かなことです。(はい、それ、わたし)
今朝は、神さまが見せてくださるものごとやできごとの良い面を、それが全てだと信じる信仰をくださいとお祈りしました。
神さまが私から隠してくださっているものには興味を持たないようにしたい。
そんなものは「ないもの」と思えるようになりたい。
より純粋になりたい。
なれるかな。
なれるとも。
願ったのだから、祈ったのだから、きっとくださる。
きっときっと。
★もさもさの向こうのデッキ、最近は、ここを、我が家では気取って、「パティオ」なんて呼んでいるのだけど、ここが、ちょっとした気分転換スポットなのです。
このコロナのステイホーム状況の中の・・・。





All Together Now

熱帯夜のような夜がようやく明けました。
ようやく?いえ、そうではないのです。
とっくに明けていたのに、起きたら、なんと9時。
しばらく、頭がぼんやりとしていて、軽い記憶喪失のようでした。
大袈裟ではなくて、「えっと、今日はいつだっけ。私はどういう状況なんだったっけ。えっと、お兄ちゃんが亡くなりました。仕事を辞めました。そうそう、そうだった、ほっ。」
何が、ほっ、なんだか。自分でもよくわかりません。
お兄ちゃんごめんね、でも、とりあえず、ほっとした。

昨日、これからやっと涼しくなるのかなっという夕方、停電が起きてしまいました。
レイバーデー・ウィークエンドなので、親しい人たちが集まって、家でごちそうを用意しているその電力が、きっと限界を超えたのでしょう。
だって、本当に大変な暑さだったのです。
私は、はなに手伝ってもらいながら、前日の残りごはんでガーリックライスを作っている最中だったけど、ガスの火しか使っていなかったの最後まで作り終え、大きなボールに移して、さてどうしましょうと、とりあえず座りました。
夫はそれまでずっと座っていたのに、さてどうしましょうと、とりあえず立って、いろんなことを始めました。
灯りを確保したり、USBで使えるいろんな端末の電池を用意したり。

あつ〜い、お部屋の中でなかなか電気が戻ってこないし、どんどん暗くなっちゃうので、とりあえず、外に出ようと思って、はなにスポンジとボールを持たせて外のテーブルをきれいにしてもらいました。
それから、晩ご飯用にキッチンに出してあった、キャベツときのこと玉ねぎを切ってお皿に並べ、冷蔵庫からしゃぶしゃぶ用の薄切りのポークとビーフのパック、ポン酢やソースを出して、大きなお盆に乗せ、「けんと〜、これ、お外のテーブルに持って行って」と声をかけました。
テーブルをスポンジできれいにして戻ってきたはなが、勝手に小皿だお箸だナプキンだと持って行ってくれました。
ポータブルストーブもその上に置く鉄板もデッキの物置にあるので、夫はガスをひとつと飲んでいたビールを持って、外に出て、とってもうれしそうでした。
私は、子どもたちの大すきなガーリックライスのボールを抱いて、蚊取り線香ほしいなと一人で虫の心配をしながら庭に。
家の中にいるといまにも陽が沈みそうに思えたのに、外に出ると、そんなことなくて、1時間ぐらいかけて、のんびりとお肉を焼きながら、ビールを飲みながら、おしゃべりしながら、港から運ばれてくる風の中でお食事できました。

お庭での焼肉ディナーに大満足していると、賢人とはな手際よく片付けはじめてくれて、そうね、そろそろ、日没ね、っとお開きにしました。
真っ暗な家の中に入るとぱちんと電気が戻り、神さまありがとう、と心の中で言いました。

★写真は、夕べ観た映画です。
これまた、とってもお勧め。
悲しそうに流れてゆくのだけど、ハッピーエンドです。
安心してごらんあれ。







Sunday, September 6, 2020

The Yang Messiah

The  Yang Messaiah
自信を持って、おすすめしたいです。
とってもよかった。
空想物語です
でも、きっと、イエスさまって、
こんな子どもだったのだと思う。
マリアって、こんなママだったのだと思う。
でも、私が一番好きだったのは父ヨセフ。
地上の父としての責任感や葛藤、
抑えられない愛をふんだんに表現してくれています。

Saturday, September 5, 2020

幸せな夕べ

暑い1日でした。
でも、いっぱい、いろんなこと、がんばった。
悲しい貧乏性な私です。
涼しい所でじっとしているより、暑くても何かに夢中になっていたい。
洗濯室の大整理にとりくみました。
おかげで、とってもすっきりしました。
何も捨てていないのに、スペースにゆとりもできました。
とりあえず、入りこめるようになり(どれだけ、物にあふれていたんだか)手前の物を動かさなくても欲しいものが取れるようになりました。
ここに収まっているものは洗濯機と洗濯用品、タオル、予備の布団、スーツケースと旅行バッグ、掃除機やモップなどの掃除用具、そして買い置きの雑貨と食材。
その雑貨と食材が問題だったことが判明。
えっ、からっぽ?
もお〜、おと〜さ〜ん!
すててよね!
空箱がばごばこ出てきて、潰しては捨て、潰しては捨てして、すっきりです。
父からひさしぶりにスカイプがかかってきました。
無事に Wi Fi 開通のようです。
ぱちぱちぱち
お家のツアーをして見せて、とっても楽しい夕べでした。

 

幸せな朝に


やみと死の陰に座する者、
悩みと鉄のかせとに縛られている者、
彼らは、神のことばに逆らい、
いと高き方のさとしを侮ったのである。
それゆえ主は苦役をもって彼らの心を低くされた。
彼らはよろけたが、だれも助けなかった。
この苦しみのときに彼らが主に向かって叫ぶと、
主は彼らの苦悩を救われた。
主は彼らをやみの死かの陰から連れ出し、
彼らのかせを打ち砕かれた。
詩篇 107:13,14
清々しい朝です。
お水をグラスになみなみいっぱい飲んでから、おいしいコーヒーを入れ、ピアノだけの賛美を小さく流しながら、静かな朝をひとりでのんびりすごしています。
神さまからの励ましをみことばからたっぷりと受けとりました。
ぴこん、ぴこん、といろんな人がいろんな形で慰めや励ましや労いやその他色々な気もちを送ってきてくれます。
どれも、神さまのお使いさんからの贈り物のように、私が思いもよらないうれしい「気もち」の贈り物です。
人はいくつになっても、褒められたり、喜ばれたり、感謝されたり、惜しまれたり、大切にされたりするのが大すきなのですね・・・。
本当に幸せです。買えない幸せ。代えられない幸せ。
そのことがどれほど、人を幸福にするかを知ると、小さな人たちにそれをふんだんに与えることの大切さをもう一度深く、心に刻んでおかなければと思います。
昨夜は父の携帯電話から電話が入り、どっきりしたら、電気屋さんにいて、私がいつでも帰ってきて色々できるようにと、WiFi環境を整える努力の実況中継も聞くことができました。
すごいです・・・。
86歳。しかも息子を亡くしたばかりなのに。
生きている娘への愛のなせる業、いえ、それこを、主の父への慰めと励ましと愛と力と導きと祝福です。
昨日、ドライブ中にみたかわいすぎるパラソル
こんなふりふりのついたパラソル下でカルピス飲みながら
寝っ転がってビデオをちびまるこちゃんとか見たいわ〜


Friday, September 4, 2020

シフトの切り替え中

はなの学校がお休みだったので、私もなんだかそのお休み気分に便乗し、ふたりしてドライブに行ってきました。
フリー・ウェイでラグナビーチまで走り、そこから、ニューポートビーチ、ハンティントンビーチ、シールビーチ、ロングビーチ、そしてサンペドロ。
海沿いの下道をゆっくり走って帰ってきました。
途中、シールビーチで野鳥保護区域になっている、小さなトレイルコースを少しだけ歩いて、野鳥が魚をつかまえて食べる様子をじっと観察し、ロングビーチでアイスクリームを食べ
たりもしました。
サンペドロに着いた頃には、どっぷりと日も暮れていたので、近所のグローサリーストアで、ささっと焼くだけで、おいしく食べられそうな新鮮な(それだけが取り柄の)食材を買って帰りました。
色々やりたいことは山ほどあるけど、あわてず、急がず、「明日もあることだし」と思って、のんびりとかまえる努力中。(シフトの切替中)
時間を惜しんで、目を三角にすることなく、声がかかれば、作業は中断。
電話が鳴っても作業は中断。
遠出のドライブにでかけ、空を見上げ、笑い、そして、再び、作業に戻る。
ああ、もう、日暮れね。
では、明日にしましょう。

そういえば

主は泉を谷に送り、
山々の間を流れさせ、
野のすべてのけものに飲ませられます。
野ろばもかわきをいやします。
そのかたわらには空の鳥が住み、枝の間でさえずっています。
主はその高殿から水を注ぎ、
地はあなたのみわざの実によって満ちています。
夏休みの終わりが延期になりました・・・。
このまま、感謝祭まで、続くかもしれない長いお休みです。
幼稚園を辞めました。
まだ、なんだか、辞めた生活に慣れずにいるけれど、色々なことを新鮮な気もちで楽しんでいます。
オンラインの授業に集中するはなと、カタカタと何かを一生懸命に書いたり、レゴを作ったり、ゲームをしたりして、夏の終わりをのんびりすごす賢人を家において、夫とふたりで出歩くことが多くなりました。
献立を相談しながらグローサリーストアの中を歩いたり、車を洗いに行ったり。
昨日は卵が安かったので、たくさん買って、ランチにお好み焼きを作りました。
リビングルーム(そういえば、そんなお部屋が、この家にもあった!)で一緒にテレビを見たりもしています。
色々なチャンネルが開けるようになりました。
こちらのローカルニュース、映画やドラマ、日本の番組、ニュースはもちろん、料理、教育、趣味、ドラマ、バラエティにいたるまで。
読書もしています。
ピアノの練習もしています。
お勉強の準備もしています。(そういえば、クラスを取ったんだった・・・)
教会のお友だちとの連絡も頻繁になりました。
とっても楽しいです。
デボーションのビデオがピコンと送られてきたり、電話でおしゃべりしたり。
昨日は、わらび餅というのを作って、トーレンスの絵里さんのおうちにおじゃましました。
でも、わらび餅じゃなくて、彼女の手作りのチーズケーキを食べながら、証の交換をし、それから、お祈りして帰ってきました。
神さまが、お創りになる日々は、すばらしいです。