Tuesday, July 10, 2018

1サムエル 20章

ヨナタンは子どもの後ろから、また叫んだ。
「早く。急げ。止まってはならない。」
その子どもは矢を拾って、主人ヨナタンのところに来た。
子どもは何も知らず、ヨナタンとダビデだけに、
その意味がわかっていた。
1サムエル 20:42
どこまでも、どこまでも、しつこく、ネバネバとダビデにまとわりつくサウルの嫉妬。
その、もともとの始まりは、女たちの歌ったうた。
「サウルは千を打ち、ダビデは万を打ち」
千も万も、一杯、たくさん、山盛りという意味なのだからいいじゃん、だめ?
嫉妬というのは、一体どこから私たちのところにやってきて、私たちをどこに連れて行こうとするのだろう。
大人にも子どもにも、男にも女にも、働く人にも遊ぶ人にも、健康な人にも病気の人にも、嫉妬から、全く自由な人は、きっとないと思う。
でもあまり関わらずに生きるという、選択はあると思う。
それは、際どいところで傲慢という別の罪にすれすれなのだけど、「自分に満足する」というのが鍵だと思う。
時々、とても難しいことだけど。
小さな時から、親をはじめ、周囲の大人たちに、ありのままを受け入れてもらえて、満足を与えているという自信が育てられていないと、特に難しい。
5歳でも、ちょっと難しいなって思う子は、やっぱり、周囲の大人からのプレッシャーが強すぎるか、逆に無関心すぎるかのどちらかです。
★どうでもいいことだけど、30節で、嫉妬に翻弄されてとちくるってるサウルが、我が子ヨナタンに「このばいたの息子め」って口走っているけど、あのよく映画で聞く不思議な英語ののしり言葉って、ここから来てると思う。ぜったい。
★どうでもいいつでにもうひとつ、そうやって、人は憎む人の名前を呼ばなくなるという証。
サウルはこの頃から、ダビデをダビデとは呼ばず、「エッサイの息子」なんて言っ ちゃてるし。
だから、もし、誰かが自分を名前で呼ばなくなったら、ちょっと注意が必要です。