主は私の口を鋭い剣のようにし、
御手の陰に私を隠し、
私をとぎすました矢として、
矢筒の中に私を隠した。
そして、私に仰せられた。
「あなたは私のしもべ、イスラエル。
わたしはあなたのうちに、
わたしの栄光を現す。」
しかし、私は言った。
「私はむだな骨折りをして、
いたずらに、むなしく、私の力を使い果たした。
それでも、私の正しい訴えは、主とともにあり、
私の報酬は、私の神とともにある。」
今、主は仰せられる。
ー主はヤコブをご自分のもとに帰らせ、
イスラエルをご自分のもとに集めるために、
私が胎内にいる時、
私をご自分のしもべとして造られた。
私は主に尊ばれ、
私の神は私の力となられた。ー
イザヤ 49:2~5
神さまが私のために造ってくださった私という人格、私のことば、私の声、私の表情、私の顔、私の心。
それらが、もし、傷つくとしたら、それは、主が傷ついてくださっていると想像してみた。
否、主は傷ついていない。そんなことでは、決して傷つかない。
だから、私も傷つかない。
先週の礼拝のメッセージのテーマは Prize、報酬 でした。
私たちのPrize はキリストそのものであるというメッセージがパウロが書いたピリピ人への手紙から語られました。
造られた私が自分ではどうすることもできない主の創造物についてコメントすることは陶器が陶器師を超えて、何かをしようとするぐらい漫画のような滑稽なこと。
陶器師に愛され、大切にされ、尊ばれる陶器になれるなら、それでいい。それがいい。
それが私の報酬。
それだけが私の報酬。
★最近見たとってもインパクトのある陶器。
この陶器たちが、造っている陶器師を差し置いて、自分について色々言ってどうするよ。