苦しみのうちから、私は主を呼び求めた。
主は、私に答えて、私を広い所に置かれた。
主は私の味方。
私は恐れない。
詩篇 118:5
この夏、日本で最初に母に会ったのは病院の廊下でした。
どのくらいだろう、数メートルも離れたところから椅子に座った母に、「おいでおいで」のしぐさをされ、でも、側に行ってあげることができず、とってもとっても悲しかった。
そして、さらに悲しかったのは、思ったより全然元気そうに見えたのに、転院が決まっていたこと、そしてホームが決まり次第、転院先からホームに入ることになっていたことでした。
その晩、私は、ひとり、父と母の家のトイレのドアの外で声をあげて泣きました。
泣きながら、「もう一度呼んで、私の名を呼んで、この家で、二階の私に向かって『まきちゃん』と呼んで、神さま、お願い、聞かせて、もう一度、もう一度だけでいいから、母の『まきちゃん』と呼ぶ声を、この家の二階の自分の部屋で聞かせて」そう叫びました。
そしてそれは10日後に現実となりました。
1回どころではありませんでした。
何度も。
「まきちゃ〜ん、お隣さんですよ」「まきちゃ〜ん、電話」「まきちゃ〜ん、(私の夫に)朝ごはんを用意したいのだけど手伝って」とか、「まきちゃ〜ん」「まきちゃ〜ん」。
終いには、気配を感じただけで、「お母さん、さっきも言ったけど、彼は朝はお茶だけで良いのよ」と呼ばれる前に階下に向かって言ってしまったほど・・・。
神さまは、本当に生きて、私たちの呼び求めを聞いておられます。
本当です。
私は、何度も何度も何度も何度も神さまの奇跡のような応答を見ました。
転院はサポート・チームと主治医と手術をしたお医者さんと病院のカウンセラーの一致の意見、しかもかなり威圧的で強力な意見であったにも関わらず、私は母を無理やり退院させました。
これまで時間をかけて築き上げてきた良い関係を失うリスクについても考えたうえで・・・。
それは神さまの促しだったし、私が日本にいる間にホームに入所させることも神さまの憐れみのご計画でした。
確信はなかったけど、絶対大丈夫なはず、となぜか思えた。
でも誰にも理解されなかった。
すごく怖かったし、孤独でした。
でもね、その恐れや孤独を引き受けて、神さまを選ぶ時に起きる奇跡はすごいです。
私、このこと、言わずにいられない。
書かずにいられない。
教会で聖らなか人の聖らかなで正しい証を聞くたびに、シラ〜っとなっちゃうひねくれ者の私は、こういうことはあまり言わないことにしていたけど、今度だけは、言わずにいられないのです。