ハンナの心は痛んでいた。
彼女は主に祈って、激しく泣いた。
1サムエル 1:10
そして、18節。
「それからこの女は帰って食事をした。彼女の顔は、もはや以前のようではなかった。」
ハンナが心を痛めで泣いた理由は、赤ちゃんが欲しいからではなく、ペニンナの屈折したイジメによるものだと考えてみたことはありますか。
私は今朝そのことに気づきました。
同じ夫を持つ、もう一人の妻のペニンナには子どもがたくさんいました。
4節に、「息子、娘たち」とあるので絶対に3人以上はいたはずです。
それなのに、ハンナに気を使うどころか、憐れむこともできず、なぜかハンナを憎むペニンナ。
人の心の中の複雑怪奇に、私もようやくこの頃、驚かなくなりました。
そして、聖書を読んでいても、そういうことに気づけるようになってきました。
でも、「気づく」ということと、「受け入れる」ということは、全く別問題です。
先週、食べ終わった後のお弁当箱、使ったフォーク、スープを飲んだ後のからのマグカップの一式を洗いもせずに、幼稚園に忘れてきた日がありました。
ちょくちょくではありません。
私の知る限り、初めてです。
朝、幼稚園に来てみると、一式の全てが冷蔵庫に放り込まれていました。
「衛生上、冷蔵庫に入れさせていただきました」と言われた時には、もう、何も驚くことはなかったけれど、でも、やっぱり悲しかった。
冷たい空のマグカップをお湯で洗いながら、二度と忘れないようにしなければと思いました。
でも、ハンナの顔が変わったのは、そういうことではなかった。
彼女は、主の前に正直に悲しんだのでした。
昨日の、みことばを思い出します。
「私に見せてください。あなたに私の訴えを打ち明けたのですから。」
心を軽くし、顔を上げて、ハッピーエンドを信じて前に進むためにの努力は、何もがんばることだけではないのかもしれません。
主の前に正直に悲しみを打ち明けること。
そして祈ること。
今日も良い日でありますように。