主は主の御声に聞き従うほどに、
全焼のいけにえや、
その他のいけにえを喜ばれるだろうか。
見よ。
聞き従うことは、いけにえにまさり、
耳を傾けることは、
雄羊の脂肪にまさる。
1サムエル 15:22
1サムエル記の15章は、とても考えさせられる物語です。
今まで、あまり深く考えたことがなかったけれど。
自分を小さく見積もりながらも、(17節に「あなたは、自分では小さい者に過ぎないと思ってはいても」とあるのできっとそうなのでしょう)先生のような存在のサムエルや神さまの前に堂々とインチキをする大胆さは、実はよくある話だと思う。
3節の「今、行って、アマレクを打ち、そのすべてのものを聖絶せよ。」の命令を、一部だけ無視します。
9節、「ただ、つまらない、値打ちのないものだけを聖絶した。」
そして、それを指摘されると、21節「しかし民は」と今度は人のせいにするサウル。
美しいサウル。
背の高いサウル。
神さまに選ばれたサウル。
でも中途半端だったサウル。
自己像が低いサウル。
ずるいサウル。
15章は35節のこのことばによって閉じられます。
「サムエルは死ぬ日まで、二度とサウルを見なかった。
しかしサムエルはサウルのことで悲しんだ。
主もサウルをイスラエルの王としたことを悔やまれた。」
唐突に聞こえるかもしれないけれど、この責任はサウルにだけではなく、サウルを育てた親にもあると思う。
自己像の低さは、ずるをしても平気な社会観も、自分よりも下の立場の人たちに責任転嫁する社交技能能力の低さも、幼い時に、神のイメージとして、いつも見つめてくれて、励ましてくれて、守ってくれる大きな存在な親が不在だったからだと思う。
もしかしたら、いたかもしれないけれど、自分のことで忙しかったのかもしれない。
誰もの内にある弱さだけど、聖霊とは調和しない。
忘れずにいたい。このこと。
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