主に立ち返り、そして言え。
「すべての不義を赦して、
良いものを受け入れてください。
私たちはくちびるの果実をささげます。
アッシリアには私たちそ救えません。
私たちはもう、馬にも乗らず、
自分たちで造った物に
『私たちの神』とは言いません。
みなしごが愛されるのは
あなたによってだけです。」
ホセア14:2,3
ホセア書を通して、神は私たちに教えてくださろうとしています。
私たちは、偶像に仕えながら、その偶像が自分を幸せないしないのを見て、あたかも神が、自分の幸せを邪魔しているかのように、悲しみます。
私たちは、実はあらゆる方法で、神を拒絶しているのです。
クリスチャンになってさえ―そして神は、それでもなお、私たちを信じ、愛してくださっているのです。
The Love Dare より
今朝も私は、ホセア書のあちこちをめくってみることから、このデボーションを始めました。
この22章の最初デボーションの中で、ルカ書の10章の「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」は、十戒の最初の戒め、「あなたは、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」の新約版だと思うと書きました。
そして、今朝、きっとに違いないと、もう一度強く思います。
神を愛することや信じることを難しくしているのには、ちゃんとわけがあって、神はそれをよくご存知で、最初の最初の最初から、それを、くり返し、くり返し、私たちに教えてくださっているのだと思わずににはいられません。
つまり、偶像に気をつけよと。
またしても偶像です。
ゴメルが慕ったものを汚らわしいと言える人は、神をおいて誰もいないと思う。
そして、その自分が慕った偶像が自分を幸せにしないことを、私たちは毎朝聖書をめくりながら、日曜礼拝で毎週説教を聴きながら、知っているはずなのに、それを目の当たりにすると、「御心がわからない」と言います。
10章の3節にこうあります。
「今、彼らは言う。『私たちには王がない。私たちが主を恐れなかったからだ。だが、王は私たちに何ができよう。』と。」
どうでしょうか。
今、深く考えてみています。
私は、時々、とても不安になって、そして、ついにたどり着くのは、いつも、夫との喧嘩、そして、離婚への衝動。
このみことばを、自分に置き換えて読んでみるとこうなります。
「私には、ビジョンがない。私が主を恐れなかったからだ。だが、ビジョンは私に何ができよう」
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