Monday, May 30, 2016

創世記30章・おまけ

おはよう。
もうすぐ9時というのに誰も起きてきません。
それで、ちょっと片付けて、洗濯機をがらがらと回しながら、何か書こうと思って、もう一度ラップトップの前に座りました。
「前進せよ、ことばはその先々でわたしが与える」っていう、見えたような聞こえたような、いえただ感じただけかもしれない神さまの啓示の意味が、なんだか少しわかった気がしています。
聖書を創世記からめくっていて、毎日思うのは、正しいとか正しくないって、天国的には、大した問題ではないのよね。
神さまは、なさろうとすることをなさる。
人の様子を見ながら。
大洪水でノアの一家とつがいの生き物たちを除いて、全てを流す時、人々がきれいな女の子を選んで結婚しようとするのに幻滅したって、6章にあるのに、アブラハムもイサクもヤコブも、3代そろいもそろって面食いって、どういこと?
神さまは、ノアの子孫にも清く正しくあることは強制はせず、ただ、純粋に信じて従う心を求めておられるのだなと思うわけです。
社会的には「?」なことをやったり、言ったりしても、神さまの祝福をもらっている人は守られるし、ごもっともな意見や行動も、神さまの前で、沈黙しかもらえないこともあるのはそういうわけなのかもしれません。
創世記とはなんと、理不尽な人生のオンパレードでしょう。
夫に愛されたがゆえに神の沈黙を破って子を授かるラケルや、主人に愛されなかったがゆえにその忠実を神に憐れまれたハガルが象徴するように、大切なことは信じる気もち。
アーメンですか?