Saturday, January 14, 2017

イザヤ 11章

エッサイの根株から新芽が生え、
その根から若枝が出て実を結ぶ。
その上に、主の霊がとどまる。
それは知恵と悟りの霊、
はかりごとと能力の霊、
主を知る知識と主を恐れる霊である。
イザヤ 11:1,2
イザヤの最初の10章の重く、苦しい、神の裁きの預言から、何事もなかったかのように、一変する11章が、大すき。
もちろん何事もなくはない。
だから、うれしい。
嵐の後の晴れのように、吹雪の後の日の光のように。
今週、何気なく読み始めた「心の病とその救い」という本を、夕べ読み終わりました。
お医者さんの書いた本なので、聖書の言葉はないけれど、お医者さんが、お医者さんの立場で書いて、尚、とっても聖書的なのがうれしい1冊でした。
危機理論という項目の中にこんな文章ありました。
そのままをいくつか抜粋して書いてみます。
「クリシス」(クライシス:危機)の動詞形「クリネイン」は「分離する」ないし「別れる」という意味ですが、ここから解釈すると、危機とは時間上の転機、人生の分かれ目になるような決定的瞬間、あるいはできごとを意味します。
危機はまさに破局に至る危険な時ですが、しかしまた問題解決の機会でもあります。
危機とは状況そのものではなく、さまざまな人格的、文化的背景を持つ個人の適応の問題です。
危機は固有のものであって、決して一般化できません。
危機は人格の退行か破局の時であると同時に、人格の再統合ないしは状況への再適応の機会でもあります。
焼き払われた木々という危機のおかげで、根株の新芽がある、そんな風に思いながら、イザヤを11章たっぷりと読みました。