Tuesday, August 20, 2019

民数記16章

モーセは激しく怒った。
そして主に申し上げた。
「どうか、彼らのささげ物を顧みないでください。
私は彼らから、ろば一頭も取ったことはなく、
彼らのうちのだれをも傷つけたこともありません。」
民数記 16:15
レビ族の3人が250人のリーダーたちと共謀して(1節でこの言葉が確かに使われているのです)モーセとアロンと立ち向かってきます。
幕屋で仕える彼らは、祭司の職をも要求し、モーセに「あなた方は分を超えている。全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか。」と。
「あなたはこれを、勝手に自分一人で決めたの?」と。
どっかで、聞いたことのある話ではないですか?
どこにでもある話だと思う。
毎日、どこかのグループで、チームで、教会で、会社で起きている、天災と呼びたくなる災害です。
そして、モーセ、ついに怒ります。
それが、上のみことばです。
そして、言います。
「あなたとあなたの仲間のすべては、一つになって主に逆らっているのだ。アロンが何だからといって、彼に対して不平を言うのか。」
モーセのポイントは、アロンや自分にはない。
だから言い訳もない。
そこが、モーセがモーセである所以があると思う。
これは、自分への攻撃ではない、この人たちは主に逆らっているのだと思うから、彼の話し方のトーンには、いつも、「我々感」が滲んでいるだと思う。
「我々感」「私たち感」
それはとてもとても大切な感性だと思う。
決して、神のサイドに立って、民を裁かないモーセの、特別な賜物というか感性。