Friday, November 27, 2015

朝ごとに~11月27日

主は私に、主の使いの前に立っている大祭司ヨシュアと、
彼を訴えようとして その右手に立っているサタンとを見せられた。
ゼカリア3:1
ヨシュアが仕えるために、どこに立っていたか注意せよ。
それは「主の使いの前」であった。
私は自分のもっているものを、使者であり契約の使いであられる主イエスにさし出す。
私の祈りは主の祈りに包まれて受け入れられる。
私の賛美は、キリストご自身の花園から取り出された没薬、アロエ、肉桂の袋に包まれて、尊い香りを放つ。
もし私がうめきと溜息のほかは何も主の前にもち出すことができないとすれば、主はそれをみこころにかなう犠牲として受け入れてくださる。
主は満足され、私は祝福される。
それゆえ、「主の使いの前に立っている大祭司」であるクリスチャンの立場を考えよ。
『朝ごとに』より
とっさに、ゼカリアを開けず、目次を探すとマラキの前、旧約の終りから2個目でした。
そして、3章を読み始めてもなんの話しかさっぱりわからず、仕方なく最初から読み始めたけど、それでも 「?」だった。
スポルジョンに教えてもらわなければ、ちんぷんかんぷんなゼカリア書、てゆうか私。
自分がヨシュアと同じ身分だと、考えてみたことがあったでしょうか。
私は、ありません。
でも、確かに受ける憐れみや恵みはヨシュアと変わりない思うことはできます。
4章まで読み進めると、こうあります。
「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。」と万軍の主は仰せられる。
自分が小さく乏しいという自覚ほど、大きな武器をないとよく思います。
主の前にうめき溜息することに、罪悪感のある人とない人の最大の違いは、ここがポイントである気もします。

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