Monday, January 4, 2016

You Are a Child of the Most High God

主は御霊です。
そして、主の御霊のあるところには自由があります。
私たちはみな、顔をおおいを取りのけられて、
鏡のように主の栄光を反映させながら、
栄光から栄光へと、
主のかたちに姿を変えられて行きます。
これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
Ⅱコリント3:17&18
重要な事実があるとするなら、主は、あなたの感性の価値をご存知ということです。
あなたの価値は、あなたの成功や失敗と何の関係もありません。
あなたが人にどのように扱われていようと関係ありません。
あなたはたた一つの被造物として、主のオファーを持って、生まれてきたのです。
あなたを除いて、その役目を果たすことのできる人は誰もいません。
あなたの未来の成功は、あなたの過去や現在には左右されることはないのです。
なぜなら、私たちはみな、完成へと向けて進歩し続けるプロセスにいるからです。
神は、あなたに大きな価値を置き、無条件に愛しておられます。
神は、あなたの可能性を見つめておられるのです。
私たちには、その全貌を理解することは不可能です。
でも、覚えておきましょう。
私たちは、一人一人が、それぞれに神の尊い使命を持って生まれたのです。
Your Best Life Now より
Ⅱコリントの3章をじっくりと読みました。
「顔のおおい」についてはさまざまな解釈があると思います。それらの全てに私はいつも、アーメンと素直に言ってきました。
今でも、それも一理と思います。
でも、雪山から降りてきた今、私なりの解釈があります。
「おおい」は初め、モーセの顔をみつめる人々の目を、神の栄光(私の感覚では聖すぎる眩しさ、圧倒的な光という感じなのですが)から守るものであったのかもしれないけれど、それは、いつしか、それほど重要でないことを隠すものへとなったのでないか。
ペンテコステ、聖霊降臨の後にです。
モーセが書を朗読する時は「おおい」が掛けられ、モーセが自分のことばで書を取り次ぐ時には「おおい」が取りのけられる。
この比較を、私の拙い文章力で説明するのは、とても難しいことだけど、がんばって、一言で書くなら、自発的に輝くこののできる『自由』というものがある気がするのです。
私が雪山で発見したものは、その自由を得た人の輝き、そうだったのかもしれません。

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