Thursday, March 24, 2016

朝ごとに 3・24

キリストは、人としてこの世におられたとき、
自分を死から救うことのできる方にむかって、
大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、
そしてその恐れのゆえに聞き入れられました。
へブル5:7
C.H.スポルジョンの『朝ごとに』の、今朝3月24日のみことば、へブルのここを開いて気がついたことがあります。
私の新改訳聖書ではこの「恐れ」ということばは「敬虔」となっています。
「敬虔」ではなんとことがよくわからかったことが、今朝、この「恐れ」という訳を通して少しわかった気がします。
昨日の朝、ラジオで、言っていた。
イエスは十字架の上にひとりぼっちで、唯一頼れる存在だった父を求めて叫んだって。
小さな男の子が知らない場所で父親とはぐれた時の気もちをイメージした私は、そんな風に聖書のどこかに書いてあったっけ、、、どれほど、苦しくても悲しくても、イエスは最後まで何も恐くはなかったんじゃなかったっけって。
そして、この「キリストは人として」のみことばに今朝、つなげられ、なんだかうれしい。
そうだよね。
恐いよね。
私は、「こわいんだよね」ってぽろっと言った時に、「恐れちゃだめだよ、悪魔に機会を与えてしまうよ」って言われるのが嫌いだから、もうあまり、誰にも「こわいんだよね」って言わなくしているけど、でも、恐い時ってあるろ思う。
健康的な感性の中でさ。

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