それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、
彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。
彼が自分のいのちを死に明け渡し、
そむいた人たちとともに数えられたからである。
彼は多くの人の罪を負い、
そむいた人たちのためにとりなしをする。
イザヤ 53:12
今週のはじめに、教会から、聖日礼拝賛美曲のために送られてきた聖書箇所は、ヨハネの17章でした。
ヨハネの17章を、そこだけを、じっくりと読んだのは、今週がはじめてだったかもしれません。
5節の、「今は、父よ、みそばでわたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょに持っていましたあの栄光で輝かせてください。」を読んだ時、朝の通読のこのイザヤの33章を読んで書いた、人は神さまに似せ創造されたから、自らの身体を汚すと違和感を覚えるのはやっぱり間違いないと思って、うれしかった。
イエスは世界の存在する前から創造主とそして神の霊と共におられた。
そして、三者会談で相談の上、人を神に似せて造られたのでした。
ヨハネの17章、6節ではイエスは、天におられる父なる神に、こう言われます。
「わたしは、あなたが世から取り出してわたしにくださった人々に、あなたの御名を明らかにしました。
彼らはあなたのものであって、あなたは彼らをわたしにくださいました。」
9節、「わたしは彼らのためにお願いします。
世のためにではなく、あなたがわたしにくださった者たちのためにです。
なぜなら彼らはあなたのものだからです。」
私が、何を書こうとしているのか、きっと誰もわからないと思うけど、私の感じたことは、こうです。
創造主であられ、子なる神と聖霊とを私に与えた父なる神は、世界の創造の御業の最後に人をお造りになった。神に似せて。この人類を主は愛しておられる。
でも、イエスがこれは自分のものと言っておられるのは、誰もかれもではない。
そして、誰もかれもではなく、イエスの所有された人に、聖霊が与えられた。
この超・シンプルで常識的な教義が、やっとわかった・・・。
おそいっちゅ~の。
平たくというと、自分の葛藤を人類の葛藤と重ねてはならないということを学んだと、そういうこと。
私の葛藤は私がこの世のものではないという意味だったのです。
そして、この世は私の葛藤を理解しない。
私のように葛藤を罪だと思っていた人が、ひとりでも減ればいいな。