耳を閉じて血なまぐさいことを聞かない者、
目を閉じて悪いことを見ない者、
このような人は、高いところに住み、
そのとりでは岩の上の要塞である。
イザヤ 33:15
大好きなみことばです。
クリスチャンになってすぐに読んだ本、私に大きな影響をくれた本に、A.B.シンプソンの『聖められた生涯』というのがあります。
何もわからず手当たり次第だったにも関わらず、今振り返ると、あの頃貪るように読みまくった本が、ことごとく古典的なベストセラーなのは本当に不思議です。
その中の霊とたましいに続く「からだの聖め」という章に掲げられてたみことばがこれでした。
物質宇宙のすべてを造られた神は、人の身体を形造る前に、三位一体による厳かな審議の末、「われわれに似るように、われわれのかたちに」人を造りました。
私たちの身体は神さまのに(それが何かは天国に行ってみないとわかんないけど)そっくりなのです。
だから、私たちは、聖霊を受け取ったら最後、みこころに反するものに対して、わけのわからないモヤモヤとした嫌悪を感じるのだと思います。
聖霊と調和しないものに対して不快感を感じるのだと思います。
最近、こういうことを考えました。
例えば、カエルの解剖の連続写真は充分血なまぐさいし、ナチスの強制収容所の悲惨な現状を書き記した記事は充分すぎるほど、人類の犯した最悪でしょ。
でも、それは、その情報は、ある人たちにとってはとても大切で尊くてかけがえのないものだったりします。
それは、作る人の愛と、受けとる人の愛が聖霊の愛と調和しているからだと思ったのです。
つまり、情報はそのソースがとても重要。
正確さはもちろんだけど、愛があるかないか。
その違いが、私たちの耳や目を汚すのだと思う。