わが父よ。
できますならば、
この杯をわたしから過ぎ去らせてください。
しかし、わたしの願うようにではなく、
あなたのみこころのように、なさってください。
マタイ 26:39
人生のルールは私たちに、どんなことをしても勝つということを求めていませんが、けっして戦いを放棄しないことは求めているはずです。
人生に重みを与えているのは、ひとりひとりの人生が一回きりだということだけではありません。
1日1日、1時間1時間、一瞬一瞬が一回きりだということも、人生におそろしくもすばらしい責任の重みを負わせているのです。
その1回きりの要求が実現されなかった時間は、失われたのです。
「永遠に」失われたのです。
肉体がなくなってもなくならず、私たちが死んでもなくならないもの、私たちの死後もこの世にのこるものは、人生の中で実現されたことです。
それは私たちが死んでからもあとあとまで影響を及ぼすのです。
V.E. フランクルの『それでも人生にイエスと言う』より
どんな状況の中にも、神さまは、「撰択」をくださっているということなのでしょう。
ナチスによる強制収容所を生き抜いた人が言うのだから間違いありません。
世界を揺るがす疫病に揺れない人はいないと思う。
世界が揺れれば、そこに生きる人がみんな揺れるの、これあたりまえ。
昨日見たニュースの醜いデモの映像を思い出します。
どのように映っているのか本人たちは全くわかっていないと思う。
「誰のために、何のために戦っているのですか?」
それこそが投げかけられ、答えてもらうべき質問なはずなのに、肝心のそこを話す人は一人もいなかった。
昨日、この目で確かめたのだけど、奇妙なほどに海の上だけに霧がたちこめ、真っ白。
丘との境目できっぱりと晴れていました。
港の中も真っ白。
人々が、慎重に、ゆっくりと船を動かしながら、霧笛を鳴らし続けているようです。