この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、
天地の主ですから、
手でこしらえた宮などにはお住みになりません。
使徒17:24
アテネで、町が偶像だらけなのを見て心痛めたパウロのメッセージの中の一文です。
ギリシャという国は人の数より偶像の数の方が多いと言います。
日本だって似たようなものです。
昔、九州のどこかの山の上の神社に白い大きな蛇が奉られているのを、爬虫類好きの私は、そんな興味から通りすがりのその祠を覗かせてもらったことがあります。
賢人と二人で、ふ~んとながめて帰ろうとすると、「拝んでもいんですよ」と言われてびっくりしたことがありました。
人は、誰でも、必ず、何かを信じているもの。
パウロは、「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である。』と言ったとおりです。」と教えます。
これはつまり、信じるもの以上の生き方はできないということだと知りました。
小さな祠に暮らす神や、死んだ人の霊を拝むとは、そういうことなのです。
ここアメリカにだって、実はたくさんの偶像があります。
セックスやドラッグやお金、スポーツや仕事ですら偶像になりかねない危険は一杯あります。
私のこの小さな願いや夢が、どうか神さま、あなたにとって代わって大切されるものとなることが決してありませんようにと祈ることは、それほど大げさなことではないと思います。
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