●そうすれば、生活とか、場所とか、他の人間とか、あるいは環境とか、持ちものとかに対するあの恐ろしいぐらいの執着は、自分や自分の子供たちが無事に暮らせるために努力していた時代ほどは必要であなくなるはずではないだろうか。
●という訳で、中年の夫婦というものはどうかすると、もう役に立たなくなった要塞も同様の貝殻の中に置き去りにされた形になる。
●あるものは、それがもとの自足した日の出貝の世界に戻る機会だと言うかもしれない。
●しかし実際は、あの密閉された世界にもう一度戻って行くことはできない。
あの端正な形をした貝に再び納まるのには、我々の方が余りにも大きく、また多面的になり過ぎたのである。
●この段階に達して、我々は浜辺での生活と同様に、我々の誇りや、見当違いの野心や、仮面や、甲冑を捨てることができるのではないだろうか。
★十分に年を取って子どもを生むことに、あるいは子どもたちの年齢を十分に離しておいて家族を作ることに、リスクではなく、なにかしらのベネフィットがあるとするなら、まさに、この脱力感が免れるということにあると思う。
私たちは、15,6年ぐらは公園通いをしたし、学校への送り迎えをしています。
そうこうするうちに上の子が自分の家族を持つようになれば、脱力する暇もなく、孫など抱けるのかもしません。
そして、牡蠣のような家に再び、赤ちゃんのおもちゃが転がっていることを、夢みてやまないのです。