Thursday, June 30, 2016

民数記21章

モーセは一つの青銅の蛇を作り、
それを旗ざおの上につけた。
もし蛇が人をかんでも、
その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。
民数記 21:9
旗ざおにからみつた蛇の印が、アメリカの保険会社の盾の印の絵柄になっているのは、きっとここからきているのね。
そして、この蛇の印はまるで、十字架のよう。
まるで、昨日の父と母のよう。
仰ぎ見ると生きた、だなんて。
夕べは、よく眠れませんでした。
幸せすぎて。
朝、カーテンを開けると使っている座敷の縁側の小さなバラが、「おめでとう」と言いながらさきほこっていました。
雨もあがりました。
世界が輝いて見えます。
ひとりででかけてこようかな。
電車に乗って。

尊敬してやまない父と母が、それでも人生にイエスと言った日

今日、20016年6月30日、83歳の父と78歳の母が、73歳の牧師に導かれて主の前に罪を悔い改め、主に向かって、人生の角度を変えた日。
クリスチャンとして生まれなおした日。
今日が、こんな日になるとは、アメリカを旅立つ日も、ここにたどり着いた日も、3人で主を礼拝したこの前の日曜日にも、今朝でさえ、それを夢にすら思うことができなかった。
不信仰な私は、それを願ってすらいなかった。
毎日、お兄ちゃんの今の状況を知るのに一生懸命で、父と母の魂の状態になんて、なんの気も配ることができずにいたのに、主はそうではなかった。
そして、主は廣田牧師を送ってくださった。
ハレルヤ。
今日は、父と母が、それでも人生にイエスと言った記念すべき日となりました。

歌いつつ歩まん

主にすがる我に悩みはなし
十字架のみもとに荷をおろせば
歌いつつ歩まん
ハレルヤ ハレルヤ
歌いつつ歩まん
この世の旅路を
大分チャペルノア教会の廣田牧師が、
お兄ちゃんのお見舞いきてくれました
そして、父と母に大胆に福音が語られ、
父と母を信仰告白へと導きました。
牧師は、
「6月30日今日はおふたりのもうひとつのお誕生日です
もう、だいじょうぶ、いつでも天国に行けますよ
おめでとうございます」
と高らかに宣言しました。
父は、「母さん、母さんの心も軽くなった?」と聞き
母は、目を閉じてうんうんと首だけでうなずきました。
これを良き日と言わず、いつか良き日でしょうか。

Wednesday, June 29, 2016

それでも人生にイエスと言う・V.E.フランクルのことば

●私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめかた誤っているのです。
人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。
私たちは問われている存在なのです。
●私たちは、人生が出した問いに答えることによって、その瞬間の意味を実現することができます。
●人生が出す問いは、瞬間瞬間、その人その人によって、まったくちがっています。
●一般的に人生の意味を問題にするなどということは、こういう見方からするととんちんかんなものに思われます。
それはたとえば、チェスの世界チャンピオンにインタビューして、「ところで先生、どういう手が一番いい手だとお考えでしょうか」と尋ねるレポーターの質問が、とんちんかんなのと同じです。
●人生が出す具体的な問いに責任をもって応答するなら、人生を意味あるものにできるのは活動によってだけではありません。
行動する存在としてだけではなく、愛する存在としても、美しいものや、偉大なもの、善いものを愛しそれに身をささげることによって、人生のさまざまな要求を満たすことができるのです。

それでも人生にイエスと言う・V.E.フランクルのことば③

●私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめかた誤っているのです。
人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。
私たちは問われている存在なのです。
●私たちは、人生が出した問いに答えることによって、その瞬間の意味を実現することができます。
●人生が出す問いは、瞬間瞬間、その人その人によって、まったくちがっています。
●一般的に人生の意味を問題にするなどということは、こういう見方からするととんちんかんなものに思われます。
それはたとえば、チェスの世界チャンピオンにインタビューして、「ところで先生、どういう手が一番いい手だとお考えでしょうか」と尋ねるレポーターの質問が、とんちんかんなのと同じです。
●人生が出す具体的な問いに責任をもって応答するなら、人生を意味あるものにできるのは活動によってだけではありません。
行動する存在としてだけではなく、愛する存在としても、美しいものや、偉大なもの、善いものを愛しそれに身をささげることによって、人生のさまざまな要求を満たすことができるのです。

少年時代

なんとなくできたのので録画してみました
もう少し練習を続けます

それでも人生にイエスと言う・V.E.フランクルのことば②

●人間はありのままの実存に連れ戻されたのですが、この「実存」とは、まさしく決断に他ならないのです。
●この決断にあたって、人間の助けになったものがあります。
この決断にあたって決定的な役割を演じたものがあります。
それは、他者の実存、他者の存在、つまり他者が示す模範です。
●存在はいつも、言葉より決定的だからです。
●疲労は感情にすぎません。
●疲れて、疲労を感じただけではまだまだ、人生の途中で立ち止まる理由にはなりません。
●人間は「楽しみのために生きているのではない」からです。
●生きるということは、ある意味で義務であり、たったひとつの重大な責務なのです。
●しあわせとは、タゴールの詩で義務といわれているものを果たして結果なのです。

民数記20章

モーセはアロンにその衣服を脱がせ、
それをその子エルアザルに着せた。
そしてアロンはその頂きで死んだ
民数記20:28
17章、モーセに主は部族ごと族長の杖を集めさせます。
モーセの前にこれ以上不平をつぶやかせないためにです。
レビ家からはアロンの杖が渡され、あかしの天幕の前の主の前で芽をふき、つぼみを出し、花をつけ、アーモンドの実を結びました。
それなのに、民の不平はおさまりません。
18章、主はアロンを通して、レビ人に特別な任務、名誉ある任務を課します。
20章、民は今度は水のことで、不満を言葉にし、アロンにその償いをさせました。
日野原重明にも、教えられたけど、神さまは、ご自分の民に徹底的に耐えることを教えているように思う。
今日も雨です。
昨日、医師はお兄ちゃんは「話せる」と私に言いました。
私は、そんなはずはないと思った。
でも、今朝、冷蔵庫にお水をとりに来たお兄ちゃんに、なにげなく、「おはよう」って言ったら、「おはよう」と返ってきた。
医師は、お兄ちゃんは口からではなく胃にお水を直接運んでいるって言った。
それは、そうなのだろうと私も思っていた。
冷蔵庫の冷たいお水をガラスのコップに注いでいたお兄ちゃん。
あれは、絶対口から飲むと思う。
私の知らないお兄ちゃん。
お医者さんも知らないお兄ちゃん。
でも神さまには全てを知られているお兄ちゃん。

それでも人生にイエスと言う・V.E.フランクルのことば

最後の最後まで問題であり続けたのは、人間でした。
「裸」の人間でした。
この数年間に(強制収容所での)、すべてのものから人間から抜け落ちました。
金も、権力も、名声もです。
もはや何ものも確かでなくなりました。
人生も、健康も、幸福もです。
すべてが疑わしいものになりました。
虚栄も、野心も、縁故もです。
すべてが、裸の実存に還元されました。
苦痛に焼き尽くされて、本質的でないものはすべて解け去りました。
人間はとけだされて一つになり、その正体をあらわしました。
その正体は本来の人間ではありませんでした。
つまりじっさい、どこの誰でもない人間でした。
匿名の人間、名もない「もの」、たとえば囚人番号でした。

それでも人生にイエスと言う

日野原重明を読み終えてしまい、
いてもたったもいられず、
彼が著書の中で引用していた本を買いに走りました
(父に豪雨の中、走ってもらった)
誰かに語られたい
語り続けていてもらわなくては、
今にもバラバラになってしまいそう

ミニ・トリップ

お兄ちゃんの通院日だったので、
わけもわからず、一緒についてゆくことにしました
直前までどしゃぶりだったのに、
車に乗ったら雨はあがっていました
血液検査をして、CTスキャンをしました
膝に帽子とシャツをあずかって、出て来るのを待ちます
最後に耳鼻咽喉科に
受付の女性が私を診察室に入れてくれて、
医師から直接話しを聞くことができました

Tuesday, June 28, 2016

夏休み・今日のおやつ

ずっしりもっちり
抹茶のロールケーキ
いただきま~す
ごめんね、おとうさん(夫)

キリストにはかえられません

夏休み読書メモ・日野原重明語録⑥

●わたしたちは有限の生き物です。
すべての人に寿命があります。
かわいい子どもたちも、からだの中の細胞には死の遺伝子がはっきり刻印されています。
3万8千もある遺伝子のなかで最も重要な遺伝子は老化の遺伝子です。
●人にとって最もたいせつなものは愛です。
愛は、希望のない人に希望を与えます。
明日の、来年の、そして何年か先の希望をその人に植えつけます。
●願望の対象はみなさんの外にあるものです。
ですから、それを持って死ぬことはできません。
人は生まれたときの状態で、裸で死ぬのです。
●希望というものは、こころのうちに自分がつくるものです。
外から与えられるものではなく、目に見えるものでもありません。
『星の王子さま』という素晴らしい童話をご存じでしょう。
最後に王子さまが星に帰るとき、「たいせつなことはね、目にみえないんだよ・・・」という言葉を残します。
●希望をもつとは、いろいろな障害にぶつかったときに、その状況から脱出しようということではなく、むしろどうしたらその状況に耐えることができるか、その可能性をあきらめないということです。

夏休み・今日の朝ごはん

お茶をごはんにかけて
朝茶漬け
ごはん、梅干、明太子
漬物サラダ、緑茶

夏休み読書メモ・日野原重明語録⑤

●いのちも、空気も、すべて神さまのものです。
人間は自分勝手にこれらを使い、このことに気づかず、そして心配しています。
しかし、忘れないでください。
赦しがあります。
この赦しを感じ、知ることによって、わたしたちはまた生き返ることができます。
●サンテクジュぺリが、素晴らしい言葉を残しています。
「たいせつなことはね、目に見えないんだよ」という『星の王子さま』の言葉もそのひとつです。
みなさんがたいせつだと思っているものはみなさんの肉体でしょうか、みなさんの頭脳でしょうか、それももなさんの財産でしょうか。
みなさんの本当に大切なものは何でしょうか。
●アウシュヴィツの収容所でナチスによってユダヤ人が数百万も殺されなか、やっと生き延び、後にその体験を詳しく書いたヴィクトール・フランクルをご存じの方も多いと思います。
彼は人間をこのように定義しています。
第一に人間は、愛し愛されることに価値を見いだす生き物である。
第二に人間は、何かをつくりだすことに価値を見いだす生き物である。
第三に人間は、耐える生き物である。

民数記16章

もしこの者たちが、
すべての人が死ぬように死に、
すべての人の会う運命に彼らも会えば、
私を遣わされたのは主ではない。
しかし、もし主がこれまでにないことを行われて、
地がその口を開き、彼らと彼らに属する者たちとを、
ことごとく飲み込み、彼らが生きながらよみに下るなら、
あなたがたは、これらの者たちが主を侮ったことを知らなければならない。
民数記16:29、30
モーセはバランの荒野から、各部族の代表12人をカナンへの偵察隊を送り出します。
主が彼らに与えようとしている地です。
12人中10人が、いろいろ理由を並べてあそこは無理だと報告します。
でも、カレブとヨシュアは「私たちが主の御心にかなえば」それは可能だと主張しました。
モーセは、この10人と2人の間で、神さまといろいろ相談をします。
裁きについての相談です。
10人は疫病によって打たれます。
15章、主は特別な誓願が立てて、前進せよとモーセに告げ、モーセはそのようにします。
16章、ついにレビ族からモーセとアロンの前に反逆者が現れます。
話しの流れから言って、仕方のない群衆の心理な気がしないでもありません。
神さまが、まるでモーセのパートナーであるかのように、彼を尊重するあまり、妬みというものが起こっても不思議ではありません。
主は、この反逆者たちも容赦なく打ちました。
徹底的に絶大な業でそれをなさいました。

夏休み読書メモ・日野原重明語録④

●癒されるということは、疾病が治癒することではなくて、疾病をもちながらもわたしたちのいのちが癒されることです。
苦しい中にも、こころに救いが与えられることです。
●死ねば私たちのからだは灰になり、もはや治癒することはできませんが、からだの中に容れられた魂が罪の赦しを受けることができれば、永久のいのちにつながることができます。
癒されるいのちとは、そのようないのちです。
それが、もっともたいせつないのちです。
●とくにわたしが申し上げたいことは、「生きる意味があるかどうかという問いは、あまりよい問いではない」ということです。
つまり、人生に対し生きる意味を問うのではなく、与えられた人生こそがわたしたちにどう生きるかという問いを提起しているというのです。
●わたしたちは人生を問うのではなく、人生に問われているのです。
●現在がすべてです。
現在が新しい問いを含んでいるからです。
そのつど、わたしたちはどんな応答するかが問われているだけです。
その際、どんな未来がわたしたちを待ち受けているかは知る由がありませんし、知る必要もないのです。

Monday, June 27, 2016

鹿のように


夏休み読書メモ・日野原重明語録③

●雲があって見えないけれどそこに山がある、そのことを本当に信じるのが信仰です。
●すべての人は死にます。
何が平等といって、こんなに平等なことは他にありません。
みんなが死んでいく、そしてそのことを人間のみが知っている。
この厳粛な事実を、わたしたちは人生のどの時点で考えるのでしょうか。
●奇跡という言葉は、科学的にはあり得ないことが起こるという意味ですが、しかし、あり得るかあり得ないかは、科学が進歩しないとわかりません。
今の科学ではわからないというだけです。
科学に反する、という証明はなにもありません。
●ここで、治癒と癒しとを明らかに区別しておきたいと思います。
治癒とは、細菌に感染された臓器を手術で取り除いたり、放射線療法や化学療法などさまざなな治療法を用いて病巣を元に戻すことです。
一方、癒しは病を抱えた患者そのものを対象とします。
●この癒しということがだいせつであることが、ようやく医学会にもわかってきました。
いのちの質を高めるためには癒しがなされなければなりません。
そして癒しがどのようになされるかを考えるとき、キリストがおこなわれた癒しの業に学ばなければならないことが、たくさんあるのです。

夏休み読書メモ・日野原重明語録②

●知っていなくてはならないことはただひとつ、なんとか耐えればよいのだなということ。
●ボクシングでいえば、ノックダウンされるけれどもノックアウトされないということです。
リングの外に出て失格するのではなく、膝をつくかもしれないけれども、必ず再起できるという信仰をもって、耐えなさいというのです。
●世の中には変わるものがたくさんあります。
科学の原則さえ変わります。
しかし、変わらないものがあります。
聖書の中に記された、神さまが与えてくれた知恵です。
学んでも学びきれない真実の知恵です。
●クリスチャンになるということは、ものの解釈の基準が変わることです。
●神さまは、わたしたちの能力をご存知です。
だから、耐えられない試練はない。
こころの目が開かれ、霧がさっと去れば、細い道が見れてくる。
そういう備えをしておいてくださるというのです。
この試練は、苦しくとも耐えられると神さまからいわれている試練なのだというふうに考えることのできる人は、このヤコブの手紙に書かれているとおり、命の冠を与えられる人ではないかと思うのです。
そして、試練に耐えた姿、その実存的な姿は、周囲の人々にとって大きな救い、励ましとなるのです。

夏休み読書メモ・日野原重明語録

父の本棚から昔、私がアメリカから買って送った本を開いています。
まだ人間でなかった頃の
私とお兄ちゃん
日野原重明『わたしが経験した魂のストーリー』
少しシェアします。
●科学は宇宙の法則をつくったのではなく、宇宙にはこのような素晴らしい法則があるということをほんの一部だけを証明したに過ぎません。
●人間はすべて病気になります。
病気にならない人はいない。
なっているのを知らない人がいるだけです。
人間は生まれるとまもなく病気になる生き物です。
●私たちはこのような病、あるいは試練にぶつかったときに初めて、考えるという、人間にしか与えられていない能力を用いるのです。
●苦難や試練に遭うと、はじめて人間は人間になるのです。

民数記 12章

それでミリヤムは、7日間、宿営の外に締め出された。
民はミリヤムが連れ戻されるまで、旅立たなかった。
民数記12章
11章、モーセの率いる民から不平が始まります。
4節の「また彼らのうちに混じっていた者が、激しい欲望にかられ、そのうえ、イスラエル人ももた大声で泣いて、言った。」がとても気になります。
エジプトから、もしかして、エジプト人を連れてきたのでしょうか。
妻がエジプト人という人もいるのかもしれません。
それとも非イスラエル人という意味なのかな。
ともかく、不満はそのような混ざり者によって起こされ、簡単に伝染してしまいました。
モーセは、ひとりでは民の重荷は負いきれないと主に懇願し、主は、モーセの他に70人の長老たちにモーセの霊を分け与えました。
霊を与えられた長老たちは、主のことばがわかるようになり、預言ができるようになります。
欲望にかられ肉を所望した民は、肉をたらふく食べたものの、結局疫病に打たれ、その地に埋められます。
12章、今度はモーセの姉と兄が不満をこぼします。
思えば、12章で70人ものあかの他人にモーセの霊が分けられたがおもしろくなかったのかもね。
それに怒りを燃やしたのは、モーセではなく、主でした。
私のとらえ方による、神の言い分はこうです。
「ちょっと待った。モーセは預言者以上の者だ。彼は自分のパートナーであるのに、そのモーセに張り合おうなど、あたががたの価値基準はいったいどうなっているんだ。」
なかなかいいでしょ。
私が聖書小説を書くなら、ここは絶対こう訳します。
そして、姉のミリアムはらい病に打たれ、けれど7日めに癒されます。
そして、無事にイスラエルの民たちと共に元気に(これ私の願いね)旅立ちます。
私にはここで聖書から目を上げて考えなければならないことがあると思う。
ここは、自分をミリアムに重ねなければ、なんの意味ももたないところ。
決してモーセの立場で、神の立場で読んではいけない。
彼女は赤ちゃんモーセを入れた籠が無事に誰かの元に届くのを影で見ていた子。
モーセを見つけて拾ってくれたパロの娘に、へブル人の乳母を紹介しましょうと言って、本当の母親を連れてきた子。
彼女はエジプトから脱出する民を、タンバリンと歌声と詩で励ました人。
いつだって、モーセのために、モーセが仕える神のために、一生懸命だったのです。


食前の祈り

お兄ちゃんの抱える問題はこうです
お兄ちゃんは声をなくしました
食べる楽しみも一緒に失くしました
お兄ちゃんは7ヶ月もの間、
この箱の中の栄養を
管を使っておなかに直接送っています
それがどういうことなのか、
アメリカではわからなかった
今も実はよくわかりません
でも、とにかく
食べることができるようになってほしいと
三度の三度の食前に父と母と共に祈っています

やさしい時に包まれて・・・

朝のお散歩の後、雨が降り始め、ずっと静かに降り続いています。
お昼にスパゲティを作って3人で食べました。
ここに来て始めてのお料理です。
ソーセージ、玉ねぎ、人参、ピーマン、いんげん、しめじを塩コショウでざざっと炒め、オリーブオイルと共に茹で上がったパスタにからめて食べました。
それから日課になってきたピアノの練習。
母の夏のデコ
井上陽水の『少年時代』の2段楽譜に挑戦しています。
古い私の楽譜ライブラリから選びました。
楽譜を読むのがすごく下手になって、なかなかすらすっらとはいきません。
賛美以外の音楽を練習するのも、きっとここにいる間だけの楽しみ。
最終日までにはなんとか仕上げて、ビデオに録ろうという目標を立てました。
本も読みました。
昨日、教会の帰りに本屋さんによってもらっ買った、和田秀樹という人の書いた『感情的にならない話し方』。
ノン・クリスチャンが書いた本を読むのも、とっても久しぶり。
この国にはこの国で弾きたくなる音楽、読みたくなる読み物というものがあるのかもしれません。
母と一緒にテレビもみました。
北カリフォルニアで、食べ物で世界を変えることができると信じるアリスさんという女性の作る庭と野菜やハーブ、スロー・フードのドキュメンタリーと、63歳で現役保育士のプロフェッショナルのドキュメンタリー。
私が時の中を駆け抜けるのではなく、時がやさしく私を包んでくれています。
お兄ちゃんはテキストに返事をくれません。
私は、書く人だから、それでいいや。

Sunday, June 26, 2016

夏休み・今日のおやつ

ず~っしりいろんなフレッシュ・フルーツ
上から見てもよくわからない
 切ってみましょう
じゃじゃん
ロールケーキでした
いただきま~す

朝のお散歩 ②

桜並木
日本を出て22年、
夏にしか帰ってきたことがないので、
私の中でのこの桜並木はいつも初夏の色
若葉いろ

民数記 10章

こうして、彼らは主の山を出て、三日の道のりを進んだ。
主の契約の箱は三日の道のりの間、
彼らの先頭に立って進み、
彼らの休息の場所を捜した。
彼らが宿営を出て進むとき、
昼間は主の雲が彼らの上にあった。
民数記10:33
7章、モーセは幕屋が完成したその日、油をそそいで、幕屋に属する全ての品々を聖別します。
12部族の族長たちは、毎日順番に12日をかけてささげものを持って幕屋をおとずれました。
8章、レビ人を聖別します。
9章、遠い旅路の中での過越しのいけにえの奉げ方。
そして10章、ラッパの音を合図に、シナイの荒野を旅立ちます。
35節、モーセの祈りのことばです。
「主よ。立ち上がってください。
あなたの敵は散らされ、あなたを憎む者は、御前から逃げ去りますように。」
クリスチャンの生活、人生に、常につきまとうテンポラリーな気もちの原点はここにあるのかもしれません。
この世界で生きる私たちの日々、私たちのアイデンティティは、寄留者に他なりません。


午後のお散歩

礼拝で聞いたメッセージを、もう一度、今度はひとりで祈りながらかみしめたいって思って、午後も風が涼しくなった頃を見計らって散歩にでかけました。
午後はのどかな畑のあぜ道を歩きました
この国で、この町で、父と母が、娘の私が信じているという、ただそれだけの理由で、私がいない日でさえ、日曜日に教会に行って、神さまを礼拝をすることは、ほとんど奇跡のようなことだと思います。
ここは、この美しい山村はそんな場所です。
角を曲がるごとに石の苔むしたほこらがひっそりとこっちをみている。
鳥居がある。
奥のピンクのお花の群生が風に揺れて
本当にきれいだった
何かが奉られている。
今朝は、国分寺の周辺の世にも美しいガーデンを歩いたけれど、私は、国分寺には入れなかった。
息苦しく、心が重く圧迫され、蚊がいるわけではないのに、目の前をひらひらと手を振って一生懸命に何かを払いながら、斜めに走って、急いで敷地から足を出しました。
私の霊が私にそこに踏みこむことを禁じたとしか思えない、おかしな不快感でした。
ここは、そんな場所なのです。


泣きながら、右にも左にもそれず

すると雌牛は、ベテシェメシュへの道、
一筋の大路をまっすぐに進み、
鳴きながら進み続け、
右にも左にもそれなかった。
Ⅰサムエル6:12
とてもよい礼拝でした。
15分ほど早く着き、座って、ここにくることを夢に見ていたことを思い出していました。
通勤の車の中で、何度も、ここに父と母と共に座っていることを白昼夢に見ていたのです。
座っているだけで、涙がこぼれ、賛美してこぼれ、メッセージを聞いてこぼれ、最後に廣田牧師がお兄ちゃんのために祈ってくれて、もうこぼれにこぼれ、こぼれっぱなしの礼拝でした。
顔は涙でくちゃくちゃだけど、心はなんともいえない温かな霊に包まれ、リフレッシュしました。
祈りの中で廣田牧師がお兄ちゃんの心を『祈られている魂』という言葉で表現してくれて、私は、すごくうれしかった。
今日の私は、まさにこの、主に用いられたこの雌牛のようだと思いました。
泣きながらら、ここまで来た。
右にも左にもそれず。
主に導かれて。
帰って来て本当によかった。

Saturday, June 25, 2016

朝のお散歩

今日は暑くなりそうです
日曜日の朝の6時
すでにまぶしい朝日
小道の向こうは国分寺
航空写真みたいでしょ
道端の苔
水路が無意味に美しい
この水路も

雨上がりの朝に

おはよう。
今朝は、雨はあがったようです。
外はとても静か。
小鳥のさえずりが遠くで聞こえます。
数えてみたら5年ぶりの実家です。
今朝はお茶のカップ
にコーヒーを入れてみました
その間に一度、長野にミッション・トリップで訪れているけど、実家には足を伸ばしませんでした。
子どもたちを夫に託して伝道旅行として来ていたので、親に会いに行くということに、なんだか気乗りがしなかったのだと思います。
あれから、いろんなことがありました。
5年前、はなはお兄ちゃんにプールだデパートだ水族館だ花火だと、毎日のようにあっちこっちに連れて行ってもらいました。
不思議と、そのことを嘘みたいとか、夢のようとか、懐かしいとか、そんなふうには思いません。
それは全てひとつの道の上のできごとで、そしてその道は神さまの国に通じているのだとただ静かに思います。
今朝は、シャワーの前に散歩をしてこよう。
そして、教会に行きます。
午後は、ピアノを弾いてすごそうと思います。
あなたの主の日、聖日にも、一杯の祝福がありますようにと祈っています。

民数記 6章

主があなたを祝福し、
あなたを守られますように。
主が御顔をあなたに照らし、
あなたを恵まれますように。
主が御顔をあなたに向け、
あなたに平安を与えられますように。
民数記6:24~26
モーセ率いる、エジプトから脱出したヤコブの子孫たち、イスラエル人を部族ごとに長を選出し、人数を確認した後、主はレビの家系だけをそこからはずし、レビ部族をさらに大きく三つの名前に分けて登録させます。
そして4章、そのレビ部族の中の部族ごとに、役割を与え、細かな指示をモーセを通して告げます。
5章、のろいの水裁判法とでも言うのかな、シナイの荒野版嘘発見機の使い方。
おもしろいので、聖書を開いてじっくり読んでみてください。
6章、主のものとして身を聖別するための特別な誓いをして、ナジル人の誓願を立てる場合の方法。
ナジル人って別に種族の名前ではなく、分離される人、分けられる人という意味。
他の用事から自分を分離し、神のみこころのために献身する=ナジル、な人。
レビ人のように男性だけに限定されず、系図のように受け継がれるものではなくて、主体的に決断する人とも言えると思います。
私は、ナジル人になりたくて、はなを置いて、単身でここに来たのかもしれません。
いろんな人に、「はなちゃんお留守番大丈夫?」って聞かれます。
それはわかりません。
サムエルの母、Hannah の立てた誓願は、まさにナジル人になりたい女性の誓願でした。
そして、主は彼女にサムエルを与え、その誓願を祝福されました。
主がナジル人になりたい私の願いも聞いてくださり、そして私のHannahも祝福し、守ってくださるに違いないと信じています。

がんばる!

お兄ちゃんからのテキスト・バックはないけれど、めげません。
何度も書いて送ります。
実は、渡したとき、リボンは解いてくれたけど、箱は開けられず、電源を入れるあのくぼみを押さえるのも手伝いが必要だったので、読んでも、開いて返事を書けないのかもしれません。
でも、神さまがきっと、あの i Pad を用いてくださるから、私はせっせと彼に話しかけます。
「おはよう。お兄ちゃん。雨だね。でもね、雲の上にはお日さまがあるんだよ。ここからは見えないけどね。私は見たよ、飛行機から。今日も良い日でありますように」ってね。

ただいま

この前の地震の時に、動いた跡
ピアノの蓋を開いてみました。
5年ぶりです。
なつかしい手触り。
真ん中に向かって、ちょっと黄ばんだ象牙の鍵盤。
少し弾いてみました。
驚かせないように、やさしくやさしく。
「鹿のように」。
「キリストにはかえられません」。
やわらかくてあったかな音色。
指にくっつくみたいに返ってくる人懐っこい手触り。
それでいて、さらっとした感触。
雨の音をメトロノームがわりに、しばらく弾いていました。

Friday, June 24, 2016

夏休み・今日のお昼ごはん ②

お昼からお刺身
いただいきま~す!

夏休み 第9日め

おはよう。
雨はまだ降り続いています。
居間の横の座敷に用意してもらった布団を片付けて、立派な机のはじっこで聖書を読みながら夜が明けるのを待っていました。
まだ、外はうす暗いけど、5時をまわったのでいいかな?
とりあえず、シャワーを浴びようと思います。
それからコーヒーを作って何をするか考えます。
ちょっと待っててね。
雨の写真を撮ってくるので。
今日も良い日でありますように。

おしらせ

すごく不思議なのだけど、たった今書いた『民数記3章』という記事が、6月22日の『神さまこの子をたのみます』の後ろにアップされました。
たいした内容じゃないけど、一応、お知らせです。

スーパー・マーケットでみつけたかわいいもの

いろんなお味のチーズ
チーズに何かを入れるってすごいアイディア
サラミ、アーモンド、などなど
アメリカ産のさくらんぼ
でもサイズも量も日本的でかわいい

Thursday, June 23, 2016

さよなら i Pad

自宅を出るぎりぎりまでお兄ちゃんの i Pad にLINE を設定しようと奮闘していたのに、結局できずに、そのまま飛行機に乗ってしまいました。
i Pad にお兄ちゃんの名前で LINEを開設すると、私の電話からアカウントが消え、私の方を開設し直すと、お兄ちゃんのアカウントが消えます。
あきらめて飛行機に乗ったのだけど、実家に着いて父の電話を借りて成功。
お互いの名前を連絡先として登録し、実家の Wi-Fi のコードを入れ、電池を100パーセントに充電して、箱に戻し、カバーとイヤフォンを添え、リボンをつけて無事プレゼントを渡すことができました。
喜んでくれたかな。
うんうん、てうなずきながら、私が入れたものを一緒に確認してくれて、それから両手を合わせて「ありがとう」のしぐさをしてくれました。
LINE を開いて、「ここでこうやって、会話ができるのよ、テキスト送ってもいい?」って聞いたら、うんうんってうなずいてくれた。
さっそく、同じ家の別々の部屋でテキストします。

雲の上の祈り

奇跡のような順調さで、あっと言う間に実家に帰ってきました。
飛行機の中では、ずっとお兄ちゃんにプレゼントする音楽を聴いていました。
でも、いつの間にか眠ってしまって、気づいたら朝でした。
日本の上空はものすごい大きな雲に覆われていて、その上から、神さまにいろんなこと祈りました。
祈れば祈るほど、神さまを近くに感じることができるようでした。
私のために、祈っていてもらえますか。
よろしくお願いします。

まだ書いてる

まだ書いてるし
眠いのに
あと10分で空の上
私ってもしかして、いわゆるブロガー?
めっちゃそう?
ははは


Wednesday, June 22, 2016

行ってきます!

夫が混雑するレーンを外れて、なんだかよくわからない裏道をいろいろ使って、スイスイと無事にエアポートに着きました。
夫とはなが手を振っているの見える?
 ものすごく混雑しているにも関わらず、駐車場でも、入った目の前に空きがありました。
まるで他の車には見えていないかのよう。
海を分けたモーセの神さまが、私のそばにいてくださっている。

神さま、この子をたのみます

記念撮影
ではでは、行ってきます

民数記 3章

レビ人をイスラエル人のうちのすべての初子の代わりに、
またレビ人の家畜を彼らの家畜の代りに取れ。
レビ人はわたしのものでなければならない。
民数記3:45
イスラエル人たちがエジプトから出て2年が経ちました。
主はシナイの荒野の天幕で、モーセに、人々を氏族ごとに分けて、人数確認するよう命じます。
それで、私も創世記の49章のヤコブの12人の息子たちへの祝福のことばを読み返しながら、この子たちの子孫がちゃんとその名で氏族を呼ばれているかを確認してみました。
創世記49章
父親の祝福のことば順に、ルベンシメオン、レビ、ユダゼブルンイッサカルダンガドアシェルナフタリヨセフベンジャミン
民数記1章
氏族の長としてモーセの助手に任命された人は、以下のよう。
ルベンーエリツル、シメオンーシェルミエル、(レビが落ちてる)ユダーナフション、(この二人順番が逆転)イッサカルーネタヌエル、ゼブルンーエリアブ、ヨセフーエリシャマ(11番からくりあがり)、マナセ(えっ?だれだっけ)-ガムリエル、ベンジャミンーアビダン(12番からくりあがり)、ダン―アヒエゼル、(この二人も順番逆転)アシュエルーパクイエル、ガドーエルヤサウ、ナフタリーアヒラ。
わけわかんないから、ちょっと色分けハイライトしてみます。
やっぱりマナセのガムニエルさんが余ります。
聞いたことがある気がするけど、思い出せない・・・。
誰だっけ。
そして、レビは、モーセの家系なので外れたのでしょうか。
でもね、創世記49章のヤコブのレビへのことばがちょっと気になります。
「のろわれよ。
彼らの激しい怒りと、彼らのはなはだしい憤りとは。
私は彼らをヤコブの中で分け、イスラエルの中に散らそう」
だなんて。
外は激しい雨が降り続いています。

持ち物リスト

持ち物リスト
・お兄ちゃんのi Pad
・お兄ちゃんの i Padn のカバー
・お兄ちゃんのイヤフォン
・私の聖書
・私のパスポート
・私の着替え
・私の出勤用のバック
以上
やればできる
出勤用バックには、常に辞書やら電池やらラップ・トップやらペンだのお化粧道具だのメモリー・スティックだのバンド・エイドだの爪きりだのお買い物バックだのなんでもかんでもきちんとすっきりと入っているんだわ。

からっぽのスーツケース

5月の終りの日に、夫が日本行きの航空チケット買ってくれたました。
たしか、23日って聞いていたので、明日だな~、何時だろうって思いながら転送してもらった日程表を開いてみて、びっくり。
日本語ではこれを、『明日』ではなく『今夜』っていう。
英語でもきっとそう。
あと5時間後しかない。
あはは。
お兄ちゃんへのお土産の i Pad の中身はかなり充実してきたけど、スーツケースはまだからっぽ。
さて、何いれよう。