Saturday, June 4, 2016

創世記41章

神の霊の宿っているこのような人を、
ほかにみつけることができようか。
創世記41:33
50章まで一気に読んでしまいたい衝動を抑え、貴重なごちそうを味わうかのように3章だけ大切に、じっくり読みました。
ここにこの3章の全文を書き写したいほど、全てのことばが生々しく、何度読んでも魂に新鮮に迫ってくる物語です。
兄たちによってエジプトに売られたヨセフは、彼に主が共におられたっという、ただそのひとつの理由によって、何をしても、何をしなくても、周囲の人を魅了し、栄えさせてしまいます。
何をしなくても、っていうのは、主人の妻の誘惑を退けてさえ、っていう意味ね。
ヨセフと一緒にいた人には、いつもヨセフと共におられる神さまが見えていました。
主人の妻以外・・・。
まあ、完全に悦脱した女性だったということでしょう。
彼女の狂言により、投獄されれば、今度は監獄の長にそれが見え、投獄されてくる囚人にもそれが見え、そこを出て行った囚人によって、ヨセフの恐ろしいまでの臨在がニュースとなって王である
パロにまで届いてしまうほどでした。
そして、エジプトのピンチを救う預言をパロに授けます。
ヨセフは、パロに言います。
「私ではありません。神がパロの繁栄を知らせてくださるのです。」
思わず、溜息がこぼれてしまいます。
このみっつの章を真剣に読んでもらえれば、誰だってわかることだけど、ヨセフは慣れない外国で人々の行為を得るために一生懸命にがんばったとか、ヨセフはへブルの習慣を守るためにひとりでひっそり努力したとか、ヨセフは葛藤を退け神の臨在に留まるために朝も昼も祈り続けたとか、そんな文章はもちろん、そんなエピソードを匂わせる間も、何にもないのよね。
キー・ワードは常に、「主がヨセフと共におられたので」ってこれなのです。
どう思いますか。
へぇ、ラッキーねって、思いますか。
そうではないでしょ。
キリストの十字架の後に生きる私たちクリスチャンは、へぇラッキーねって、言ってはいけないほどの恩義をキリスト・イエスから受けているのだもの。
私たちは、誰もがみな、キリストのゆえにヨセフになれるって、私は信じているのです。