わたしが正しい人に、
「あなたは必ず生きる」と言っても、
もし彼が自分の正しさに拠り頼み、不正をするなら、
彼の正しい行いは何一つ覚えられず、
彼は自分の行った不正によって死ななければならない。
わたしが悪者に、
「あなたは必ず死ぬ」と言っても、
もし彼が自分の罪を悔い改め、
公儀と正義を行い、
その悪者が質物を返し、
かすめたものを償い、
不正をせず、
いのちのおきてに従って歩むなら、
彼は必ず生き、死ぬのことはない。
彼が犯した罪は何一つ覚えられず、
公儀と正義とを行った彼は必ず生きる。
エゼキエル 33:13~16
再び、昨日の礼拝に来ていたゲスト・スピーカーのことばを思い出しました。
「神学校で、たくさんの自分をクリスチャンと信じる人を見たが、その全てが、クリスチャンというはわけではなかった」
その言葉は、私の中で宙に浮き、そのまま、話は悔い改めへの勧めに流れました。
どういう意味かの説明は何もなかった。
このエゼキエルの箇所が、まさに彼が解き明かした、天国の教えのことばであったと思う。
先週の月曜日の交通事故の後にも思った。
どんなにがんばっても、今日負けて、今日罪を犯し、そしてそれを悔い改める間も与えられず、そのまま召されたら、私の運命の保障はどこにないのです。