願っても受けいられないのは、
自分の快楽のために使おうとして、
悪い動機で願うからです。
ヤコブ 4;3
自分の心が望む必要と、天国から望まれている召しの間で、どうのように偶像を見分け、それを自分と切り離すかというテーマのメッセージでした。そして、それを切り離すのは日々の悔い改めというのが結論です。
いかがでしょうか。
私にも、たくさんの、神に代わって、なくてはならないニーズというものがあると思う。
それは、時に家族の理解、時にこの「おはようスポルジョン」の読まれ率、時に会衆賛美の会衆の平安。
つまり、私を知る人の私への反応。
それを手放す方法が礼拝という、天国的公の場で語られた。
私は、長年、プロの謝り屋になるなと、魂に刻むように教えられてきたので、すごくうれしい。
いつも、かなりこっそりと悔い改めてきたけど、でも、キリストを十字架につけ直すことにはならない、悔い改めというのもあると、やっと顔を上げて言える。
実は内心、ずっと疑っていたけれど、キリストに喜ばれる悔い改めってものもあったのだ。
私は、プロの謝り屋なんかじゃなかった。
私は、赦された罪人なのです。