★さっき書いた記事にも、きっとそれがにじみ出ていたと思うけど、なんだか、今日はちょっと疲れちゃった。
私は、伝道らしい活動を何もしてこなかったけれど、私がクリスチャンになったというそれだけのことで、賢人と両親がそれに続いてくれた。
賢人はともかく(彼には世界にただひとつの証がある)、両親に関しては、単純なでも深い私との信頼関係のゆえの運命の共有の選択って感じがしなくもない。
でもともかく父と母はイエスを受け入れた。
それをはっきりと自分たちの言葉で告白した。
そして、たぶんはなももうすぐ。
今は、お兄ちゃんと夫のことを、祈っているけど、だからって、一生懸命に何かしてるわけじゃない。
そんな甘やかされたへなちょこクリスチャンの私が、ノン・クリスチャンに、福音のシェアなんて、本当に大丈夫なのかな。
★疲れると必ずやる私の行動のパターンは庭仕事。
今日は、礼拝の帰りに、はながジニーちゃんのおうちに寄せてもらったので、私は、帰っても家にも入らず、ドアの前にバックを置いて、草取りを始めました。
そして、枯れたバラの花を切り落とし、たくさんの雨のためについてしまった虫たちを指で取り除き、庭のために一生懸命に働いて、そして少し癒された。
ここ2週間、この10年なんの伝道してこなかった日々を、ゴミのように言わたことが耳から離れずすごく傷ついていました。
そして、今日のメッセージでそこに塩がすりこまれるような痛みを感じた。
でも、私について正直に言ってくれたその人と、そして、それにたたみかけるような今日の神さまのメッセージに、今は感謝できます。
神さまは、時間がかかったことで私を責めてはいない。
だって、私は神さまの時の中に生きてきたのだもの。
ペースを守ること。
急がない、近道は探さない、雑にならない、横着はしない。
祈ること、愛を全ての動機に。
そう、愛こそが私の生きる理由。