わたしは主によって大いに楽しみ、
わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。
主がわたしに、救いの衣を着せ、
正義の外套をまとわせ、
花婿のように栄冠をかぶらせ、
花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。
地が芽を出し、
園が蒔かれた種を芽生えさせるように、
神である主が義と賛美とを、
すべての国の前に芽生えさせるからだ。
イザヤ 61:10,11
イザヤが詩のような福音書であることを始めて知りました。
世界中にいろんな主の教会があるように、聖書にもいろんな福音があったのです。
伝統的な賛美歌もあれば、コンテンポラリーのワーシップソングもあって、地下教会での隠れた伝道があれば、野球場を満員にしてイエスの御名を声高らかに叫ぶ伝道集会がある。
それが神さまの大きさと偉大さ。
それが聖書の深さと広さ。
そして召された人は、クリスチャンと呼ばれ、誰もがその大きさと偉大さと深さと広さの中のどこかに、なくてはならない個性的な役割があるのかもしれません。
今朝は、目覚ましの音を聞くことなく、4時前に目覚めました。
私の心のイグニッションに、主の鍵が差されたようです。
ぶるるん。