Sunday, June 5, 2016

創世記50章

あなたがたは、私に悪を計りましたが、
神はそれを、よいことのために計らいなさいました。
創世記50:20
創世記の最後の章を今日読み終わりました。
ヤコブの家族は、かつて、兄たちによってエジプトに売られたヨセフによって呼び寄せられ、ききんから救われ、生きのびることができました。

エジプトの地で家族は再びひとつになり、ヤコブもヨセフも異国の地でその生涯をとじました。
死ぬ前にヤコブはヨセフのふたりの子を祝福します。
妻はパロの親戚のエジプト人のはずだけど、そんなことを気にする記述は一切ありません。
そして、49章ではまるっとひとつの章を割いて、12人の息子をあつめて、長子ルベンから順に、それぞれへの祝福をさずけます。
エジプトで17年生き、147歳で死んだと記されています。
そして、ヨセフは、「神は必ずあなたがたを顧みて、この地からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地へ上らせてくださいます。」と兄弟たちに言い残し、110歳で世を去ります。
私は、12人への祝福のことばが好きです。
ヤコブはラケルへの愛ゆえのラケルの子たちへの溺愛が招いた淋しかった人生を、後悔していたに違いないと思います。
10人の兄たちにを上から順に、祝福を授けたのは、きっとそういうわけなのだろうと思って読みました。

Saturday, June 4, 2016

赤い水玉 2



赤い水玉

今日はほとんど1日かけて、
明日のバレエの発表会のドレス・リハーサルにおつきあい
前から5列めぐらいの中央に座っていてさえ、
はなを探すのに慌てちゃった
とてもよく合わせています
本番が楽しみ!

創世記46章

わたし自身があなたといっしょにエジプトに下り、
また、わたし自身が必ずあなたを再び導き上る。
ヨセフの手はあなたの目を閉じてくれるであろう。
創世記46:1
明日まで待てずに続きを読んでしまいました。
それで、もう一度ラップトップを開き書いています。(土曜日だしね)
年老いたヨセフの父ヤコブに夢で現れた神のことばです。
ヨセフのパロへの預言にあったように、全世界的ききんが始まり、ヤコブはエジプトに食料を買いに、兄たちをよこします。
42章では彼らの後悔のことば、「彼の心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった」が記されています。
父ヤコブが、必死にラケルが生んだもうひとりの息子ベンジャミンを守り、エジプトに近づけようとしないことにも兄たちは、なんの疑問も挟まず、父と末の弟をみんなで命をかけて守ろうとする姿にも感動します。
44章「ですから、どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなたさまの奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと帰らせてください。」
兄のひとり、ユダのことばです。
ヨセフがエジプトに売られた後、この兄弟たちの心にも主の癒しがあったことに、どこにでもある話しかもしれないけど、悪い人はいつまでも悪い人でいるわけではないという常識に心が温まります。
そして45章でヨセフは彼らに自分を明らかにします。
「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。
私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。
神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。
今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に神なのです。」
いかがでしょう。
なかなかいいクライマックスではないでしょうか。

創世記41章

神の霊の宿っているこのような人を、
ほかにみつけることができようか。
創世記41:33
50章まで一気に読んでしまいたい衝動を抑え、貴重なごちそうを味わうかのように3章だけ大切に、じっくり読みました。
ここにこの3章の全文を書き写したいほど、全てのことばが生々しく、何度読んでも魂に新鮮に迫ってくる物語です。
兄たちによってエジプトに売られたヨセフは、彼に主が共におられたっという、ただそのひとつの理由によって、何をしても、何をしなくても、周囲の人を魅了し、栄えさせてしまいます。
何をしなくても、っていうのは、主人の妻の誘惑を退けてさえ、っていう意味ね。
ヨセフと一緒にいた人には、いつもヨセフと共におられる神さまが見えていました。
主人の妻以外・・・。
まあ、完全に悦脱した女性だったということでしょう。
彼女の狂言により、投獄されれば、今度は監獄の長にそれが見え、投獄されてくる囚人にもそれが見え、そこを出て行った囚人によって、ヨセフの恐ろしいまでの臨在がニュースとなって王である
パロにまで届いてしまうほどでした。
そして、エジプトのピンチを救う預言をパロに授けます。
ヨセフは、パロに言います。
「私ではありません。神がパロの繁栄を知らせてくださるのです。」
思わず、溜息がこぼれてしまいます。
このみっつの章を真剣に読んでもらえれば、誰だってわかることだけど、ヨセフは慣れない外国で人々の行為を得るために一生懸命にがんばったとか、ヨセフはへブルの習慣を守るためにひとりでひっそり努力したとか、ヨセフは葛藤を退け神の臨在に留まるために朝も昼も祈り続けたとか、そんな文章はもちろん、そんなエピソードを匂わせる間も、何にもないのよね。
キー・ワードは常に、「主がヨセフと共におられたので」ってこれなのです。
どう思いますか。
へぇ、ラッキーねって、思いますか。
そうではないでしょ。
キリストの十字架の後に生きる私たちクリスチャンは、へぇラッキーねって、言ってはいけないほどの恩義をキリスト・イエスから受けているのだもの。
私たちは、誰もがみな、キリストのゆえにヨセフになれるって、私は信じているのです。

Friday, June 3, 2016

今後の課題 2

★いろんなことがてんこ盛りな1週間が今終わろうとしています。
まずはやっぱり、Mary Poppins。
とっても素敵なショーだった。
この、ちょっとめずらしいビジュアルとパフォーミング・アートのマグネット校にはなを送ってくださった神さまに、あらためて心から感謝しました。
普通の勉強は午前中だけで、午後はもっぱら、自分が選んだクラスで賜物を磨いているような学校だけど、それだからこその厳しさも、今回のショーを通して親子で体験することもできました。
芸の道は楽し、されど厳し、です。
★そして今週は、幼稚園の学年末発表会もありました。
つい昨日のことです。
毎回のように感心してしまう、会場と共に借り入れる、サウンド・テクニシャンに今回ほど、切実に感謝したことはありません
プロのテックって、演る側の目的を瞬間的に読めるひと。
音のバランスは目的の結果であって、よいバランスが目的ってことではないのよね。
その証拠に、私は欲しい音を欲しいだけもらえ、私の小さな演奏者たちは、ただの一度のリハーサルもないのに、まるでいつもの練習のような音を聴きながら、いつものように演奏することができました。
いつも、会の終わりに何か言いたい思いにかられるけど、今回も何も言えなかった。
★副担任の先生が、再び、いえ、みたび、エモーショナルに。
がらにもなく、対処に緊張しています。
怒り、落ちこみ、そして今は喜びの中で未来を思い描きながら、現実と、自分の願いを照らし合わせている様子。
そこにどう、関わり、関わるべきでないのかを、そっと祈りながら神の定めた距離にて寄り添うべし。
せっかく、幼稚園の仕事に自信を得、自分や未来に喜びを見つけたのだもの。
がんばってほしいな。
これをまさに上り坂女と下り坂女の坂の途中の一瞬の素敵な交わりにできるのは、神をおいて他にないと思う。
★「今後の課題」にも書いたけど、「一緒にがんばりましょう」って例えば言われたとして、っていうか言われて、じゃ、どう反応するのが良いのかな。
「すっかり自信をなくしているから、それは無理」って言うのが今までの私だとして、っていうか今までの私なわけだけど、これからはどう反応すべきなのだろう。
まるでノー・アイディアです。
前途多難って書いたけど、これほど前途が早急で、多難が困難とは思わなかったわ。

今後の課題

はっぴー・ふらいでー。
もうひとがんばりだね。
私は、見た目と中身にかなりギャップがあるようで、いろんな人、主にお付き合いの浅い方々、がいろんな意見を私にくださいます。
まあ、ひらたく言うと、「意見のない人」と思われがちなんだけど、っていうか特に意見なんてないけど、まあわりといつもいろんなことを感じているし、思っているし、考えているわけです。
そのギャップに自分が慣れなくちゃいけないと思うようになりました。
やっと。
聞き流すというか、反応しないとうか、立ち止まらないというかね。
無視しちゃうと、これまた別の問題を生んでしまうので、(最近やっとそのタイプの問題の後始末が終わったとこだがら、もうしばらくはこりごり)がんばりますとか、ありがとうとか、やってみますとか、ごめんなさいとかって言葉をさらっと言えるようになりたいです。
そう思えるようになっただけでも、すごい進歩なんだよね・・・。
前途多難ではあるけれど、少しづつよくなってきているって、思えるの。
だから、はっぴー・ふらいでー!