Friday, May 31, 2013

聖められた生涯~責められることがないように

もし、あなたが主を恐れ、主に仕え、主の御声に聞き従い、主の命令に逆らわず、
また、あなたがたも、あなたを治める王も、
あなたがたの神、主のあとに従うなら、それで良い。
Ⅰサムエル13:14
ほとんどの人は、信仰の第一歩を踏み出したのち、一点の雲もない空と鏡のような海を期待してしまいます。
しかし私たちが、主から何かをいただくとしたら、まさに試みられることを予期しなければなりません。
主の臨在の最高のしるしは、敵の反抗に会うということです。
私たちの祝福が現実であればあるほど、私たちはいっそう確実に挑戦されます。
誘惑というものが、私たちの最も深い存在を貫通する力を持っていることと、そして、あたかも私たち自身から出たように思われる悪い思いや感情は、実のところ、悪の扇動者であることを、この際、ぜひ記憶にとどめておきましょう。
私たちの格闘は、主権、力に対するものなのです。
私たちは、悪が私たち自身のうちに住みついていると結論づけるように強いられます。
その結果、私たちは自分が信じていたようには、聖められ、聖別されていないと思うようになります。
この上なく巧妙な姿をとり、徐々にしみ込む感情とまことしやかなほのめかしを伴い、しかもあなたの奥深く秘めた存在から出たと思われるような誘惑に攻撃されたとしても、決して驚いてはなりません。
これらの心の中の悪い考えや悪の暗示は、もし私たちの霊が本当に聖別されているとしたら、それは私たちの霊から生じたものではないというのが真実です。
それは試みる者の声だからです。
私たちはこの試みる者の暗示と私たちの選択を区別し、次のように明言することを学ぶべきです。
「私は悪を受け入れない。同意もしない。私は責任も負わない。私は罪を犯さない。私は罪に対して死んでおり、イエス・キリストによって神に対して生きているのだから」
A.B,シンプソン
あなたにもう一度、祈ります。
私は悪を受け入れません。
同意もしません。
責任も負いません。
私は罪を犯しません。
私は罪に対しては死んでいるからです。
私はイエスさまのおかげで、あなたに向って生きています。
どうか今日一日、キリストの愛にとどまることができますように。
アーメン

A.Bシンプソンの教えを信じますか?
私は信じました。
今日の彼の教えは私には全く新しいものでした。
1844年に生まれて1919年に亡くなった牧師なのに、こんなに新しいなんて・・・。
私たちの格闘は、主権、力に対するものと信じられますか?
私はそんなものに全く興味ないわって言っているそばからじわじわと犯されてきた自分を想像してみました。
神さまと悪魔の闘いだとすれば、それはそうでしょうともと思います。
賢人の汚い部屋、交通渋滞、子どもたちのピアノの練習、増え続ける仕事に対するストレス。
生活のいたるところにばら蒔かれた問題の、そもそもの目的が、力や主権などという高尚なものとは考えてもみませんでした。
だって、マットレスの下の汚い靴下や、ガリガリのご飯をこびりついたバックの中のお弁当箱、気の毒な誰かの事故による交通渋滞、絶対に弾けるようにならない気がしてきた休符から始まるはなの左手、、、、そんなものが力?主権?
でも、今朝、それが神さまと悪魔の闘いであるなら、それはそうでしょうともと心からアーメンといいます。


Thursday, May 30, 2013

聖められた生涯~神の守り

だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。
なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。
その人は神から生まれたのであって、罪のうちを歩むことができないのです。
Ⅰヨハネ3:9
船が錨を上げ、純白の帆を張って、微風に旗をなびかせながら、期待に満ちて出航します。
やがて人生における現実的なテストが私たちの理論を実地に試すでしょう。
私たちは全く聖なる者とされました。
では私たちは、どのようにして責められるところのないように守られるのでしょうか。
この守りはキリストの贖いのうちになされています。
キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。
キリストの死が、私たちの完全にして最終的な救いを買い取りました。
ただし、私たちには、キリストに全く明け渡すことと、そののち、故意に自分自身を彼の御手から取り戻し、彼の恵みと真実を放棄しないという条件が必要になってきます。
それはキリストのとりなしによって継続されます。
ご自分によって神に近づく人々を、完全に永遠に救うことがおできになります。
私たちは、悪から全く聖別され、神にささげられていますが、絶えず悪と接触します。
私たちは絶えず、キリストの血を新しく適用する必要があるのです。
私たちを満たす彼の聖いいのちは、あらゆる悪を駆遂し、絶えず私たちの全存在を新しくします。
私たちとあらゆる誘惑の間に、イエスが臨在され、用心深い識別力、拒絶、勝利をもって私たちの敵に立ち向かってくださるのです。
A.B.シンプソン
主がわたしたちを祝福し、
わたしたちを守られますように。
主が御顔をわたしたちに照らし、
わたしたちを恵まれますように。
主が御顔をわたしたちに向け、
わたしたちに平安を与えられますように。
イエス・キリストの御名によってお祈りします。
アーメン
 
最近、ようやく、何が本当の幸せなのかということがほんの少し、わかりかけてきた気がしています。
それは、心で感じていることと、頭で考えていることと、体でやっていることがひとつの時。
どんな状況であっても、それが私に安らぎと安心をもたらすのです。
昨日の夕方、暗くなる直前にお庭のブランコのロープに近所のはなの仲良しの女の子の髪の毛がからみついてしまいました。
彼女は吊り上げられる寸前だったようで、とても痛がって大きな声で泣き叫んでいました。
だから、はなに髪の毛用のハサミを取りに行かせ、彼女の髪を切ろうとしましたが、彼女はママに聞いてと泣きながら言います。
それで今度ははなにママを呼んでこさせました。
裸足で飛んできた彼女は「911よ!」とほとんどパニック状態で、電話を要求しました。
彼女には娘の髪を切るという選択しは絶対にないようでした。
私は何かが違うと思って、天を見上げました。
ただ、落ち着いて考えよう、そうできるように祈ろうと天を見上げたのです。
それは大きな大きな樹齢90年近い木です。
木を見つめながら、木につながっているブランコに女の子がつながってしまったことが、本当にかわいそうと思いました。
だからブランコの綱を彼女の髪の毛に一番近いところで切ることにしました。
そのことにどんな意味があるのかわからないけど、でもとりあえず、そうすれば女の子と木は離れ、彼女をを座らせてあげられると思ったのです。
ファイアデパートメントと女の子のママが話している間に左手で彼女を抱いたまま、右の手で小さな小さな髪の毛を切るはさみでキコキコキコキコ。
切りながら、みるみる心が静かになてゆきました
綱が切れたら、切り離されたブランコのついた方の綱がゆっくりと女の子の髪の毛の中で回転を始め、すっかりほどけました。
はなはその間、腕でブランコを支えながらずっと親友の手をにぎりしめ、「だいじょうぶ。ママたちがあなたを助けてあげるから。だから、泣かないで。」とくり返し言っていました。
女の子のママは、一本の髪の毛も失うことなく、すっかり綱から解かれた女の子を見て、「ああ、だいじょうぶです、ありがとう」と電話を切りました。
そして「ブランコを買い戻すわ、だって、ふたりはこれが大好きだもの、遊べなくなるのはかわいそう」っと言ってくれました。
*右側のちっちゃなスライドショーに4年ぐらい前のブランコが写っていました。今はもうないブランコ・・・。
 



Wednesday, May 29, 2013

その後のはな、その後の私

おかげさまで、はなはすっかり元気です。
麻酔の影響から覚めるまでは、本当に気が気ではなかったけれど、覚めてしまえば、とろんとしたはなは、薬以外のどんな状況でも生み出させないことをしみじみ実感。
あのよれよれのはなを写真撮影などして、あらゆる角度から観察すればよかったなどと思います。
はなはぐらぐらしていた歯をどさくさまぎれについでに抜かれてしまったことを、心から残念に思っているようです。
歯を妖精に返して、お金をもらいたかったのに、歯医者さんは、はなが眠っている間に勝手に抜いてそれを自分のものにしてしまったと怒っているのです。
私は、あと2週間足らずで皆勤賞だったのにって、それがちょっぴり残念・・・。

聖められた人生~からだの聖・満たされたからだ

私たちは、この宝を、土の中に入れているのです。
それは、この測り知れない力が神のものであって、
私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。
Ⅱコリント4:7
土の器は、きわめてもろくできています。
しかしキリストのいのちが私たちを所有しているとしたら、それは神の神聖と同様にその力によって満たされます。
それはイエスのいのちが私たちのうちに明らかにされるためなのです。
このいにちは私たちを肉体的な弱さのはるか上に運び、超自然的な生命力の高潮へとのせます。
そのため私たちは心の底から、このように言うことができるようになります。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべてのもので生きる。」
神は、あなたという土の器を取り、それを聖め、啓発し、整え、そしてご自身の聖い臨在をもって満たされます。
さあ、私たち自身を神に明け渡そうではありませんか。
私たちの全存在で神ご自身を受け入れようではありませんか。
からだのあらゆる器官が、主の内住と主の内なる働きのための器となりますように。
こうして私たちの霊、たましい、からだの全部分が全く聖められ、主イエス・キリストの来臨の時、責められるところのないものとなりますように。
A.B.シンプソン
私に丈夫なからだ、健康なからだを造って与えてくださった神さま
あなたのご計画のままに、私のからだをお用いください
私の内に住まわれるあなたの思いのままに、
どうか今日、私の手や足、
私の耳や目
私の声
すべてをお使いください。
アーメン
昨日は、家族の全員でほぼ1日、夕方の6時まで断食をしました。
夫は金魚や亀にまで断食させました。
家族みんな、誰もおなかはすきませんでした。(夫は、金魚も亀もエサを欲しがらなかったと言うのです)
私は、毎朝作る4個の日本式お弁当と1個のアメリカ式お弁当を作る仕事がなかったので、何もすることがなく、朝っぱらから前庭の草取りや、枯れた葉っぱや花を取る作業をしました。
そして、ずっと祈っていました。
祈りながら、私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているという使徒の中のことばを思いました。
はなの虫歯は乳歯だったので、すでに私のおなかの中にいた頃に、神さまによってデザインされ、準備されたものでした。
すっかり治療を終えたその歯を見るたびに、その朝のこと、そしてこのことばを思い出そうと思います。
奥歯なので、はなはしばらく、その歯を使って食べ、体を成長させてゆきます。
大人の歯に生え変わるまで・・・。
私もそれまでには、もっともっと主の近くに生きる者、いいえ、主の中に生きる者、いいえ、主の中に生き続ける者にになっていたいと思います。
 
 





Tuesday, May 28, 2013

お祈りをありがとうございました

みなさまの熱いお祈り、心より感謝申し上げます。
祈りに支えられ、おかげさまではなの治療は無事に終わりました。
先ほど(午後6時)、やっと目が覚めて、本日初めての食べ物、バニラアイスクリームを3口ほど食べました。
まだ歩くことも喋ることもできないけど、でも、食べることができたので、きっと大丈夫と思います。
まぶたをいつも13倍の時間でゆっくりと開き、おいしそうにアイスクリームを食べ、そして、また今度は8倍の時間で閉じて、再び、眠りに落ちてゆきました。
ああ、アメリカ・・・・。
事を荒たてず、泣く子には、例え、ちっぽけな歯の治療でも全身麻酔をしてしまう国、アメリカ。
でも、みなさまのとりなしのおかげで、はなと私はもうひとつ新しい境地へと運ばれた気がしております。
そう、ああアメリカ・・・・。されどアメリカ・・・。
ハレルヤ!

お祈りのお願い

お祈りのお願いです。
今日の午後の1時にはなが生まれて初めての歯の治療を受けます。
3度目の挑戦です。
過去、2度とも、泣いて口を開かずに歯医者さんから帰されてしまいました。
それで、今日はとうとう麻酔で治療を受けます。
心がとてもざわざわして落ち着くことができません。
・はなに主にある平安が与えられように。
・このことが主の御手の外で行われることが決してないように。
・全ての悪からはなが遠ざけられ、はなが決して苦しむことがないように。
・もし万が一、これが間違った判断であるなら、これが御心でないなら、治療が中止になるように。
・8時間食べられないことにはなが耐えられるように。
・願わくは側に付き添う夫にはなの忍耐とはなへの守りを通して、主のご栄光が現われるように。
・私にも平安が与えられるように。
どうかそのようにお祈りください。
どうぞよろしくお願いいたします。
1時に目を閉じて、みなさんと心を合わせます。アーメン

聖められた生涯~からだの聖め・ささげられたからだ

こういうわけで、
あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、
ただ神の栄光を現すためにしなさい。
Ⅰコリント10:31
わずかでも、からだが私たちの手の中にあるなら、霊とたましいが神にささげられることはありません。
からだをささげることは、あらゆる器官と肢体を含む私たちの肉体のすべてを神の所有物として聖別することを意味します。
すなわち、私たちの肉体のすべてを神の特別の配慮の対象として、また神の特別のみこころと奉仕を行う器として聖別するのです。
私たちの手は、世の仕事であろうと、他の人に仕える働きであろうと、神の栄光のために働くことを目的として神にささげられます。
ささげられたからだとは、私たちの舌が主の指示のままに語り、主の栄光のために語ることを意味します。
聖別された耳は、神が私たちに聞くことを望んでおられるものに対してはきわめて敏感であるものの、それ以外の声に対しては死んでいます。
聖別された目は、他の人がきづかずに見すごした多くの機会を見つけます。
また他の人が見落としたものの中に多くの美と意義を見出します。
聖別された足は、いつでも義務の道を歩きやすいものにします。
聖別された声は、新しい力をもって歌い、また話します。
A.B.シンプソン
わたしのいのちを取り
それを主よ、あなたご自身にささげさせてください
わたしの手を取り
それをあなたの愛の鼓動のままに動かしてください
アーメン
心もからだも神さまにささげるとどうなるのかっというと、きっとすごいことが起きるのだと思う。
A.B.シンプソンが教えるようには到底ささげきれていない私に、こんなにまで、よくしてくださる神さまだから、きっとそれはそれはすごいことが起きるのだと思う。
体験したことのない素晴らしいことが待っているのだと思う。
知らないけど、でもそう信じることができる。
先週、ある人からもらったEメールに日曜学校への奉仕へと導かれるよう祈っていると書かれていて、そして、日曜日は別なある人からまるでとても唐突に、同じことを言われました。
私の体、手や足や声は本当は何のためにこんなに丈夫かと、はじめてじっくりと考えています。


Monday, May 27, 2013

親戚付き合い


今日はゆりかさんとはなと3人でおでかけ。
サンタモニカのピアをのんびりふらふらとお散歩しできました。








 
私たち3人の関係って、この頃ちょっと不思議。
はなと彼女はまるで姪と叔母。
なんだか親戚です。
良いことも悪いことも全部報告。
良いことは喜ばれ、悪いことは祈られ、そして、またねと軽く別れてまたすぐに一緒。

聖められた生涯~からだの聖め・舌

また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。
むしろ、死者の中から生かされた者として、
あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。
ローマ6:13
人のからだは、宇宙の中の小宇宙-不思議に満ちた小さな世界、神の知恵と力の不朽の業績-と呼ばれています。
創造の記録は私たちに、人のからだの重要性と尊厳を教えています。
物質宇宙のすべてを造られた神は、人体を形造る前に、三位一体による厳かな会議を召集されました。
神は最も荘厳な審議の末に「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう」と宣言されたのです。
三位一体の神の無限の知恵はことごとく、人の創造に集結されたのです。
人のからだは、創造において究極のクライマックスとなり、さらに受肉された神ご自身の永遠のかたちとなるように意図されたのです。
聖められたからだは、肉体の健康を知る時のように、舌の様子によって判断される。
その舌はあらゆる種類の偽り、あいまいな表現、ごまかし、うそから聖別されています。
それは愚かさと軽々しいことを口にすることから解放された舌です。
益にならない愚かな会話を捨て、すべてのことにおいて、神のみこころを伝達する器として神の前で語ることを求めます。
人を悪しざまにいうことを捨てます。
また偽りとわかっていることを口にしません。
聖められた舌はまた、一切の不必要な会話から聖別されています。
それは沈黙という黄金の習慣を学んでおり、沈黙と神の交わりの習慣のうちにこそ、最高の祝福があることを見出します。
A.B.シンプソン
私の体をデザインしてくださった造り主であられる神さま、
私の心を愛とやさしさで満たしてください
人々を傷つける思いを抱かず、あなたの心と私の心がひとつになれますように
アーメン
 

舌による失敗によって私は日本語学校を去りました。
ある時、ある瞬間にたががはずれて、思いの全てをある一言に集約して叫んでいました。
そこにいたほとんど全ての人が聞かなかったふりをしようとしました。
それが御国を第一としない、ノンクリスチャングループの暗黙の判断、やさしさのようでした。
でも、絶対に聞き逃さない人がいたのです。
それは、私自身でした。
私は自分の吐いた暴言に誰よりも強く影響を受けてしまい、仕事を続けることができなくなりました。
舌は火であり、不義の世界ということをこの身を持って見てきました。
そこで学んだ一番大切なことは、言葉に現したときに酷いものは心に抱かないということ。
私はその思いを何日も、何週間も、何ヶ月もずっと、心の中に住まわせ続けて、ああもう、だめっという限界を越えていたのでした。
 
 
 

Sunday, May 26, 2013

光の話と平和な昼ごはん

連休の真ん中の日曜日、いかがおすごしですか?
神山先生のメッセージと証、心にまっすぐに届きました。
早朝の暗い中無燈火自転車で穴に落ちたとか、バイクで高速道路で転倒したとか、畑からすいかを泥棒して食べたとか、教会を訪れて聖書を貸してくださいって言ってみたとか、驚くような、でもなんだか身に覚えのあるようなそんな証の連射に、笑い泣きしてしまいました。
やんちゃで一途で無鉄砲な男の子の光体験は、私の光体験とは全く違って新鮮そのものだけど、ママは自分の息子にはそんな冒険をせずになんとか光を体験してほしいと願うばかりです。
まあ、でもそれこそ不信仰というものよね。
礼拝の後は例によってはなとお買い物兼ランチ。
今日はレドンドビーチブルバードのマルカイでラーメンとチャーハンと餃子のセットを分け合って食べました。
チャーハンがめずらしい高菜ライスでびっくり。
ここはどこ?久留米かい?とはなにつっこむけど、ぜんぜんうけずボケてももらえず、私は高菜チャーハンをひとり占め。
7歳の女の子とふたりでごはんを食べたことはありますか?
これは、ちょっと微妙です。
どんなに小さくても二人分はどうやっても食べられないけど、どんなに大きくてもひとり分を分けるとなんだかもの足りない。
お互いにちょっぴり遠慮して、「どうぞ」「ううん、ママこそどうぞ」なんて、けんせい。
でも今日の高菜チャーハンは全部ママがもらい、その代わりに餃子ははなが担当。
ラーメンは半分つづでかなり平和、超満足でした。

聖められた生涯~魂の聖め・理解力、美的感覚、愛情

私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。
ただ、この一事に励んでいます。
すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向って進み、
キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、
目標を目ざして一心に走っているのです。
ピリピ3:13,14
愛する方よ、私たちの高慢な知性をひれ伏させ、私たちの知恵をイエスの足もとに横たえようではありませんか。
そして自己意識と自己充足のなくなった頭に、聖霊の火のバプテスマを受け入れようではありませんか。
私たちすべてにとってのホーリネスの道は、モリヤの山から始まります。
イサクをささげた祭壇、私らちの心を供え物としてささげたところから始まるのです。
しかもこの同じ栄光に輝く山の上に、すなわち私たちの心が初めてすべてのものを神にささげた地に、荘厳な神殿が建てられるのです。
神はいまもなお、供え物をささげる祭壇の跡にご自分の宮を建てることを喜ばれます。
この時、神は私たちの愛情をもぎ取ることは決してなさいません。
しかし、神は私たちの愛の対象となる、私たちの心のいのちを抜き取る、そして栄養分を不必要に吸収するだけで実を結ばない枝を切り取られるのです。
自分の心をなんらかの対象に結びつける前に、まず初めに神の思いとみこころを学び取り、自分自身を不必要に傷つくことから救う人は幸いです。
あなたの心と愛を、あらゆる禁じられた愛、聖別されていない友情、自己中心な愛情か分離することを望んでいるでしょうか。
主はあらゆる人間関係のうちに、ご自分の御霊を吹き入れてくださるので、私たちは自分自身を入り組んだ多くの境遇および関係に適応させることができるのです。
私たちは聖別された感情をもって、私たちの情緒面でのあらゆる部分をたどる時に、聖くて聖別された用途を持たない愛情ないし情熱は一つもないことを見出すようになるでしょう。
私たちの怒りは純粋になり、神のための聖なる熱心となるでしょう。
競争心はしっとから完全に解放され、他の人のすぐれた資質を真似るようにと私たちを促すことでしょう。
私たちの所有欲は完全に規制されて、貪欲よりもはるかに上まで引き上げられ、最高の賜物だけを熱心に求めるようになるでしょう。
私たちの野心は完全に天的なものになるため、それは他の人々への刺激となり、最も高尚な業績および永続する報いへと私たちを導くでしょう。
A.B.シンプソン
精錬する火よ、私の心をいきめぐり
私のたましいを明るくしてください
あなたのいのちをもって私を満たし
私のすべての部分を聖めてください
私の喜びと悲しみ、望みと恐れの鼓動の一つ一つが、
キリストの心の動きとなりますように
アーメン

A.B.シンプソンの教えはすごすぎて、ついていけないって思いますか?
私は、彼の書いた文章を読むたびにそう思います。
でも、理解しようとがんばるとその日のどこかで必ず「それもそうね」と思えるから不思議です。
今日のところは、とてもドキドキしました。
特に私にとって必要な学びであったと思うのです。
私には、誰かを何かを理解したい欲望がいつもまとわりついています。
でも、本当はその全てが神さまに喜ばれる私の仕事ではないのかもしれないと考えてみました。
そして、美しいもの、素敵な音楽、感動的な映像、きれいな画像、かわいい絵画、素朴な言葉が大好きで、そこに潜んでいる本当の意味を汲み取る前にじゃんじゃん自分の内側に取り込んでしまいます。
でも、本当は、その全てが聖くて、天的(こんな言葉ははじめて聞いたけど)とは限らないと、ざくっと釘をさされた気がします。
そうなのです。
なんだか、ざわざわと気持ちが落ち着かなくってそれで、読むのを途中でやめる本や、聴くのをやめる音楽ってきっとそういうことなのだと思います。

Saturday, May 25, 2013

プロフェッションとレーズンパン

疲れていたのかな、気づかないうちに・・・。
今日は本を読みながら、何度も眠りに落ちてしまいました。
メガネをかけたまま。
ベッドの横の目覚まし時計を確かめて、「あれ、12時15分?起きなきゃ、起きて何かはなに食べさせなきゃと思ってがんばって起きたらなんと3時でした。
でもはなは、金曜日に私が幼稚園でもらってきた差し入れのレーズンパンを、オーブントースターで温めてバターを塗ってミルクと共に食べながら、楽しくひとりで庭のテーブルで何やら創作しておりました。
読んでいたのは日野原重明の『あるがままを行く』という本。
その中にはっとする文章を見つけたのでシェアさせてください。
プロフェッションについて。
1、目標のあり方、すなわち自己の利益より人類社会への奉仕を主眼とすること
2、技術、長期間にわたる厳しい訓練を必要とすること
3、生命の威厳とケアを考えて行動すること
4、科学、哲学、宗教、倫理などと触れ合う職業
このどれかひとつでも適用できれば、その仕事はやりがいのあるものになるはずと日野原重明は言います。
幼稚園での仕事はほとんど全部を満たしていると思った。
そうそう、金曜日に幼稚園で差し入れにパンをもらって帰ったのです。
食パン、ミルクパン、そしてレーズンパン。
小さい頃、レーズンパンをトーストしてバターを塗って食べるのが大好きで、でもずっとずっと長い間、そのことを忘れて生きていました。
今朝、はなにそうやって食べさせて彼女が大喜びをしたので、思い出したのです。
DNAってこんな一見どうでもよさそうな情報も母から娘に伝達しているのね。




おうちでのんびり

さて、連休だね。
何をするの?
私は、今日は家でのんびりしようと思います。
片づけて、お掃除して、お洗濯して、それから庭をそうじします。
家中がきれいになったら、母の日のプレゼントに賢人がiTunesのギフトカードをくれたので、それで素敵な音楽のお買い物。
気が向けば、ラグと本を抱えて近所の公園に出かけるかもしれません。
はなを遊ばせながら木陰で読書です。
冷蔵庫の中もきれいに片づけたいので、今日はお買い物はなし。
どこにも行かなくても、何もしなくても、いろんなことがある私。
いろんなことを感じて、いろんなことを考える私だから、また、今週もたくさん書くと思います。
どうぞ読んでね。
そうそう、『あははとうししのはっぴーふらいでー』に私が撮ったビデオも貼り付けました。
よかったら、「まったく親ばかね」なんて言いながら開いてください。

すっかり元気になりました

おはよう。
1週間で一番大好きな土曜日の静かな朝のひとときです。
といっても最近は、別に朝じゃなくても、週末は大体いつでもなんでも好きななことができるのだけどね。
夫は、相変わらずマイペースで仕事だし、賢人は友だちとでかけちゃうし、はなもひとりでいろんなことができるようになったし、そして、何よりもも私は休みだし・・・。
ちょっと前になるけど、先週末のことを書くね。
先週、土曜日にLAダウンタウンのチャイナタウンに行ったことはすでに書いたけど、その時に訪ねたおもちゃ屋さんでアジア各地のいろんな古典的なおもちゃが売っていました。
その中にけんだまをみつけたので「あっ!けんだま!買わなきゃ!賢人が欲しがっていたんだ!」って思って、そしてその次の瞬間、「ああ、もしかしたらもうほしくなくなってるかも。」って思ってやめました。
けんだまは日本語学校の賢人のクラスのブームだったのです。
数少ないけんだまを順番に借りて帰っては、勉強やゲームの手を休めてせっせと練習していたのでした。
それから日曜日の朝のサーフィンに賢人をSeal Beachまで私が送って行きました。
賢人とはなをシビックの後部座席に座らせて週末の朝、405フリーウェイのカープールレーンを走るのは、日本語学校を辞めて以来はじめてでした。
そして、気づいたのです。
どこにも、なんの痛みもない!
私は、元気だ。
私は、回復した。
私は、もう大丈夫って。
月曜日、朝の通勤のクルマの中で、そのことを神さまに感謝しました。
神さま、ありがとう、私はおかげさまですっかり元気になりましたと。

Friday, May 24, 2013

その後の亀さん

おつかれさま~。
どんな1週間でしたか?
私は今週もたくさんの祝福が数え切れないほどです。
日曜日の賢人のピアノといい水曜日のはなのダンスといい、子どもたちにこんなにまで素晴らしい経験を与えてくださった神さまに、心からのありがとうを100回言いたい!それでも足りない!
それなのに、彼らの夏も、そして新しい学年も、今年以上に祝福してねって、今から祈る、欲張りな私です。

そして、幼稚園では今日はひさしぶりに週に一度のミーティングに出させてもらって、いろいろ勉強になりました。
何がってくわしくは書けないけれど、子育てがどんどん難しい時代になっているのだなって思う。
すごく簡単なことが難しくなって、昔は誰でもできた親行がどんどん専門職と化している時代に突入。
ビジネスのことはよくわからないけど、どんなに人がわがままになって子どもを欲しくないと思い、子どもが減ったところで、幼稚園という場所の需要は絶対に減ることがないと思う。
そんな気がする。
亀はおかげさまでとても元気です。
まだ名前もなく、亀さん1、亀さん2なんて呼ばれているけど、家族にも慣れてきて、えさを欲しがって水面で口をぱくぱくさせるようになりました。
かわいいよお~。たまりません。
安かったし、怪しいおもちゃ屋さんで買ったから、すぐ死んだらどうしようって心配だったけどきっともう大丈夫と思う。
買う直前に交差点の人ごみの中で立ち止まって目を閉じて祈ったんです。はなと。
だから、これも神さまのおかげ。





あははとうししのはっぴーふらいでー

おはよう!
今朝、ぱちっと目が覚めた瞬間、”Happy Friday!"って天から聞こえた気がして、ぱたぱたぱたと起きました。
夕べ、『おはようスポルジョン』のとっても楽しいフィードバックのメールをくすくす笑いながら読んで、お返事を書きました。
クリスチャンの書くメールってどんなメールもそこに愛があってあったかい気持ちになるのね・・・。
それからはなのダンスのビデオを一生懸命YouTubeにアップロードしたら、私より先にどなたかが、もっと上手に撮ったものをアップロードしていてびっくり。
しかも、はながちゃんと見えたので、勝手にいただいちゃいました。
あはは。
昨日、そのビデオを『おはようスポルジョン』にもアップロードしたので、ぜひ、見てみてください。
『おはようスポルジョン』はたくさんの人に読んでいただいているので、そのビデオの投稿者はきっとヒット数に驚くことでしょう。
うしし。
では、今日も良い日をね~!本当にいつもあたたかな励ましをありがと~!、お祈りしていまあ~す!
http://www.youtube.com/watch?v=NWcKgfCb9oc&feature=youtu.be
これ、私のビデオ

Thursday, May 23, 2013

The Land of many Colors 2

http://www.youtube.com/watch?v=NWcKgfCb9oc&feature=youtu.be

The Land of Many Colors

South Shores Magnet Visual and Performing Arts School
The Land of Many Colors
昨日の、仕事を遅刻して、はなの今学年最後の大きなショーを見に行きました。
1時間ほどの、それはそれは素晴らしい大掛かり舞台に心から感動しました。
ショーの後、クルマを運転しながら、神さまに心からの感謝の祈りをささげました。
それしかできなかった。
はなは、この学校に主に導かれてやってきた。
そして、昨年と今年は、まるで別人のような評価をされた。
彼女は変ったのか。
そうじゃない。
彼女は彼女の成長を遂げただけだと思う。
彼女は相変わらす、主のデザインされた、ユニークな芸術家、踊らずにはいられないダンサー、歌わずにはいられないシンガー、造らずにはいられないアーティストのままなのだ。
神さまが、私の祈りに答えて、彼女の本当の居場所、彼女の成長を温かく見守ってくれる環境へと、連れて行ってくださり、そして、大いなる祝福の1年をくださった。
世界にはたくさんのたくさんの色がある。
はなはそれを選ぶ自由をこの学校で与えられ、蝶のように、はなからはなへと飛び回って、本当に幸せそうだった。



聖められた生涯~たましいの聖め・理解力の分離

私は二心の者どもを憎みます。
しかし、あなたのみおしえを愛します。
あなたは私の隠れ場、私の盾。
私は、あなたのみことばを愛します。
詩篇119:113、114
霊とからだから区別されているたましいとは、いったいどのようなものでしょうか。
理解力、美的感覚、愛情、激情、生理的感覚-
私たちは、聖くない世界が私たちの存在のあらゆるところから入って、私たちの注意を引くことを許容します。
その結果は、必然的に堕落と悲惨にほかなりません。
まぶたを閉じ、神ご自身のひとみのように、悪を見ることから守られる必要があります。
私たちは、周囲の悪にきづき、それに目をとめることを拒否することができるのです。
心の面での聖化にあたって第一になすべきことは、私たちの心をあらゆる悪から分離するということです。
悪を徹底的に無視し、それを触れ合うことを断じて拒否するのです。
私たちはまた、聖められていない対象と同様に、さまざまな聖くない思いからも分離される必要があります。
外界に触れなくても、あるいは人や物を見なくても、私たちのたましいのうちには、幾千もの内面的な活動が湧き上がってくるのです。
これらの多くは悪い思いであり、しかもその大多数は必要のないものなのです。
これらのものを私たちは抑制しなければなりません。
思考力の手綱を引き締め、その結果として、私たちの判断力によって否定される思いを拒絶することができます。
想像や思いは、私たちが静まって神の声とそのみこころを待ち望むことを身につけるまでは抑制しておかなければなりません。
そうすれば、私たちは不必要な疲れから自分自身を救い、いつでも神と触れ合う範囲内にとどまって、数多くの誘惑の原因から離れることができます。
私たちはこれらの活動を信用しないで、御霊の導きと主のみこころに依存することによって、聖くない記憶や想像を阻止することを学ぶべきです。
そして私たち自身を神に向け、神の完全な指示を仰ぎ、神に完全に所有していただくことを身につけなければなりません。
A.B.シンプソン
どのようにして私は自分の道を
きよく保てるでしょうか。
あなたのことばに従ってそれを守ることです。
私は心を尽くしてあなたを尋ね求めます。
どうか私が、あなたの仰せから
迷い出ないようにしてください。
アーメン
神さまに属するもの、そうでないもの、天国に属するもの、地上に属するものの違いを知る感覚を私は持っていると思う。
今週、毎晩開いて読んでいた本は、地上に属するものだった。
だから、長く読み続けることができなくなって3日もかかってまだ読み終えられなかったのだと思う。
もう、読むのはやめよう。
心理学者が書いた良心に関する本で、おおむね正しいと思えるし、人間関係でも、子どもの行動を理解するうえでもとても役に立ちそうな、私の知らないことがいろいろ書かれた本だけど、私にとって、正しいか間違っているかよりも重量なことがある。
今はある。
ここは天国じゃないから、だから、本当にそれだけがとても重要なのだ。
 


Wednesday, May 22, 2013

聖められた生涯~霊の聖め・満たされた霊

血肉のからだは神の国を相続できません。
朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
Ⅰコリント15:50
私たちはまず、神ご自身の御霊によって、神のかたちに似るように新しく造られる必要があります。
さらに、神の御手によって、直接、私たちの心に天来の封印を、神の似姿を刻印されなければなりません。
私たちいは罪から離れ、聖くなることを選びます。
すると神は、私たちが差し伸ばした手に、ご自分の一点のしみもない義を満たしてくださるのです。
私たちの信仰は、神の御霊に満たされ、神を信じる信仰が与えられた結果にほかなりません。
私たちはまず、信頼することを選びます。
そうすると神は、私たちの信仰を固く維持し、それを有効にしてくださるのです。
私たちの愛は、私たちの側の単なる目的にすぎません。
力としての愛は、神のものです。
私たちが愛すること選ぶ時、神は私たちのうちにご自身を注ぎ、ご自身の御霊と愛そのものである性質を私たちに分け与えてくださるからです。
私たちがいかにもがいていてみても、神に対するほんものの愛、その愛の鼓動の一つすら造りだすことはできません。
神はご自分の完全な愛を、神を唯一の愛の対象とすることを選ぶ人の心に吹き込まれるのです。
A.B.シンプソン
眠った者の初穂であられたイエスさま、
私の自分勝手な愛を、今朝、あなたにささげます。
どうか受けてください。
そして満たしてください。
今日こそ、愛せますように。
あなたがお造りになったこの新しい日、
初穂であられるイエスさまのお名前によってお祈りします
アーメン
 
私は、イエス・キリストを信じない、あるいはどんな神も信じていな人には霊がないものとばっかり思っていました。
だから、聖霊を受けることは、ないがあるにになるだけのことで、さほど難しくないことではないって。
でもどうやらA.B.シンプソンはそうは考えていないよう・・・。
私は霊は二つしかないとずっと信じています。
良い霊と悪い霊。
聖霊と、そうじゃない霊。
A.B.シンプソンは、生まれながらの人、たましいを主体とした人に、霊を分離せよ、霊を満たされよと教えていることになるでしょ。
これは本当に聞き捨てならない奥の深い話と思い、今朝は一生懸命にコリントを読みました。

 

Tuesday, May 21, 2013

LIVE SIMPLY

朝ねぼうしちゃった
でもちいさく、おいのりさせてね。
 
心静かに生きられますように
聖霊に耳を傾け
愛することができますように
素朴なもの
美しいもの
鳥のこえ
風の音
大好きな人
そうでない人
あなたがくだたる新しい1日を
ただ愛するために
生きることができますように
聖霊とともに
アーメン

Monday, May 20, 2013

大いなる恵み

おつかれさま。
今日は祈ったとうり、とても良い日でした。
朝クルマの中でずっとずっとずう~とお祈りしていました。
ずっとです。
こんなことはクリスチャンになりたてのあのフレッシュマン、1年目以来のことです。
そして、仕事にもたくさんの祝福がありました。
子どもたちにかけるべき言葉も、やるべきことも、やらなでいるべきことも、すべて聖霊さまが私に教えてくれました・・・。
これが1年365日、毎日続けばいいなって思う。
本当に。
*新しいおうちに引越した亀も金魚もとても元気です。
亀のおうちにもぶくぶくをつけて、なんだか、小さな私たちの家の中がぶくぶくぶくぶく水の音がにぎやかだけど、私はこのホワイト・ノイズが大好きなので、すぐに慣れました。
夫も賢人もはなもぶくぶくが二重奏になっていることすら、気づいていません。
よかった・・・。
*遠くのそして近くの、古いそして新しい、若いそして先輩のクリスチャンの友だちとメールでいろんなやりとりがとっても楽しい今日この頃。
励ましのメールや、お祈りのリクエスト、証、いろんな、短いけれど、愛や友情や思いやりの気持ちのキャッチ・ボールが途切れません。
これも、日本語学校を辞めた副産物、あじゃなくて大いなる恵み。
ハレルヤ。

聖められた生涯~霊の聖め・分離された霊

平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。
主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、
あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られてますように。
あなたがたを召された方は真実ですから、
きっとそのことをしてくださいます。
Ⅰテサロニケ5:24
私たちのうちにあり、神を認識するところ、それが霊である。
霊は、率直に、しかも直ちに神の臨在を意識し、神との交わりを確保することができます。
善悪の違いを見分けるところ、それが霊である。
正しいことを愛し、義との調和のうちに物事を考え、識別し、かつ選びとります。
選択し、意図し、決意することによって、私たちの行為と従順を事実上、決めるところ、それが霊である。
神に信頼するところ、神を愛するところ、神をあがめるところ、神を喜ぶところ、それが霊である。
神によって生まれた霊は、神の性質によって、自我と罪ある心から分離される必要があります。
私たちいは、霊を神のものでないあらゆるものから-罪からだけではなく、この世、自我、そして生まれながらの古い生活から-分離しておく必要があります。
私たちの意図と動機は、神の栄光を目的としない一切のものから聖別されているべきです。
私たちの楽しみの源は聖められ、霊は、主の喜びと調和しないすべての喜びから切り離されているべきです。
A.B.シンプソン
私にあなたの霊を与えてくださった、天の神さま、
今日、私は自分に関する思い込みを手放す努力をしてみます。
私はこの体に仮住まいをしている霊的な存在であることを今朝、思い起こしてみました。
私はあなたの安らぎを求めます。
故郷を離れたこの地に住む間の私の生きる目的は、ただあなたの安らぎ。
今日1日、そう思いながら生きることができますように。
アーメン
今日は1日、ずっと聖霊さまのことを意識し続ける実験をしてみよう。
心のどこかに痛みを感じたら、それは誰かを責めているからかもしれない。
何かをすることがとても難しかったら、それは神さまから離れて自分勝手にがんばっているからかもしれない。
優しくなれない自分をみつけたら、それは、道に迷ってしまっているのかもしれない。
そんなふうに考えてみよう。
私の中の霊を感じながら1日をすごしてみよう。
 


 


Sunday, May 19, 2013

てんこもりの日曜日

なが~い1日が、今ようやく終わりそうです。
やれやれ、いろんなことがありました。
まず、早朝に賢人をビーチまで送って戻ってはなと二人で礼拝へ。
ミセス・あらいの証は本当に感動的でした。
心が洗われるってこういうことねって思いました。
洗われてリフレッシュした心で仲良しのお友だちと少しだけおしゃべりをして、ミセス・あらいがシェアしてださった出エジプト記15:26を大切に胸に抱いて教会を後にしました。
はなを夫に託し、賢人を向えにビーチへ。
そして、その帰りに、ああ、つかまっちゃった・・・楽しそうなマーケット。
ちょこっとよったPETCOの裏からなんとも楽しそうな音楽と、お肉の焼けるいいにおい。
海から上がってはらぺこの賢人にここの屋台の食べ物を買ってあげて座るところもみつけてあげて、彼が食べている間にさささっと歩いて買っちゃた。
流木と貝殻の十字架。
でもその後が大変。
ロング・ビーチで渋滞にはまり、1分かけて10メートル進む状態。
賢人が祈ってくれて、古いバカなGPSを無視して、道をはずれ、なんとか命からがら橋まで帰ってきて無事、サン・ペドロに着きました。
とりあえず、金魚と亀を安全で快適な水槽に引越しさせ、家族みんなで大慌て支度して出かけ、でも遅刻です。
何に?
はい、賢人のピアノの発表会JMACのリサイタル。
でも、本人の演奏には間に合った、ぎりぎりセーフで。
今日の賢人は良かった。
本当に。
自分で選んだ曲。
先生とふたりで造った音楽。
ママの干渉一切なし。
だから、すっごくよかった。
夫もとても喜んでいた。
賢人、ピアノ上手になったね、じゃなくって、賢人、ピアノ好きになったんだねって。
さすがだね~おとうさん!

 

Saturday, May 18, 2013

20年!


亀が2匹と金魚が1匹。
子どもがひとり、大人がふたり。
子どもでもなく、大人でもないのが約1名。
家族はどんどん増えていきます。
私たちを乗せた小さな小船は川をくねくねと下っております。
毎年、毎月、毎週、毎日、毎朝、毎晩一緒にいる私たち夫婦。
来年3月で結婚20周年ということを今朝、気づきました。
すごいね~。


小さな緑亀

今日は夫がお休み、プラス、約束もなかったようなのでめずらしく3人でおでかけしました。
私ははなと小さな緑亀を探す予定でいたので、そのプロジェクトの仲間に夫を入れてあげました。
この表現がなんとも憎たらしいでしょ、クリスチャンなのにね。
でも運転してくれる人がいるって楽だわ~、GPSもいらないし、勝手にいろんなこと喋れるし。

そうそう、今日の目的は緑亀、それも小さいのが欲しかったのです。
それは、ここだけの話、PETCOなどのペットショップでは見つけられないのです。
どうも、サイズに規定があるらしい・・・。
でも、パートナーの先生が小さいのを幼稚園に連れてきたから、さあ大変。
私の欲しい気持ちが一気にレッド・ゾーンにまで高まって、もう誰にもおさえられない。
彼に聞くと、「うちの奥さんが買ってきたからどこの店かは、わかんないですね~、LAダウンタウンとだけしか。」
でも、偶然にもはなが今週お友だちの家で小さな緑亀に遭遇し、かしこいことに、彼女はちゃんとどこで買ったのか質問してきたのです。
あんたはえらい!
すすすばらしい!ぶらぼおおおお!
「ママ、チャイナよ、アメリカのチャイナの街。」
ああ、わかった、もう大丈夫。
ママはきっときっと探すわ。
ということで行ってきました。
LAダウンタウンのチャイナ・タウン。
3人の地元ネィティブくさいおじさんに、聞き歩きながら、見つけた!さすがチャイナ・タウンなんでもあるんだね・・・。
そして、日本語図書館に寄って返りました。
はなはせっかく日本語図書館まできて英語の本を一生懸命選んでいました。
しかも、借りた6冊、全部蝿の本。
今日はディナーはチャイニーズのToGoで~す。




外で遊ぶ+野菜を一杯食べる

おはよう!たあ~ぷり眠って、気分爽快。
幸せな土曜日の朝を迎えました。
どんな1週間でしたか?
私は内側の霊においても、体においても、また、仕事においても、私生活においてもとても健康的な1週間でした。
幼稚園では外での活動が多く、子どもたちと初夏の日ざしの中でお水や氷をさわったり、ゴムとびやけんけん相撲でおおいに盛り上がりました。
家では、今週はたくさん野菜の料理をしました。
マーボー茄子やカリフラワーの酢漬け、キャベツの梅肉あえなどなど。
夏が近づくと野菜がむしょうに食べたくなるのです。
昨日、A.B.シンプソンが千円札の人に似ているって書いたけど、本当かな~と思って、調べたら、昔の千円札でした。
来年の3月で在米20年を迎える私の日本人としての常識はかなりずれているようです。
それにしてもA.B.シンプソンってすごいね。
この新しいデボーションが楽しくて毎朝、ぱちっと目が覚めるのだもの。(今日は覚めなかったけど)
外で日にあたるから心地よく疲れてさっさと眠っちゃうからでもあるんだけどね。
では、よい週末を。






Friday, May 17, 2013

聖められた人生~全く聖なる者に・満たす

神は、罪を知らない方を、
私たちの代わりに罪とされました。
それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。
Ⅱコリント5:21
真の献身をしたのち、私たちが持っている空虚は、主によって実体のあるものに変えられなければなりません。
私たちの聖さは、主のいのちが分け与えられた結果であり、私たちのうちにある私たちの平安は主の平安そのものでなければなりません。
私たちは主のもとに、ただからっぽの手、偽りのない手だけを差し出します。
すると主がその手を満たしてくださいます。
絶えずゆだね、絶えず受けるというのが、聖別された心にとっての真の態度となるのです。
悪から完全に分離され、神に献身することによって始まった聖化は、キリストの満ちあふれるさまにまで進み、キリストにあって満ち満ちたたけにまで成長していきます。
そしてついには、私たちの全存在と全生活が神ご自身によって満たされます。
このようにして私たちは受けるための管となり、神の恵みと栄光を反映する媒体となります。
A.B.シンプソン
いのちの君であるあなたは私の泉です
そのあなたを絶えず私のものとさせてください
私の心のうちに湧き出て
永遠に達するまで湧き上がってください
アーメン
本のカバーの折り返しのところにA.B.シンプソンのポートレートが印刷さてれいます。
千円札の人にちょっぴり似ています。
彼のような証を聞いたことがなかったので、この写真をしげしげとながめてみました。
100年前ならどこにでもいそうな、蝶ネクタイとひげのおじさんです。
でも、私の平安が内なる聖霊の平安というくだりだけは、「ああそうなのだったのか・・・」となまなましく読み取ることができました。
今週、確か、月曜日のことでした。
帰りのクルマの中である小さな葛藤が生まれ、そして、イエスさまを選んだ直後に体と心の緊張がみるみるほぐれ、そしてじわ~とうれしい気持ちが心に満ちたのです。
クルマのグローブボックスに、はなの緊急用のチップスが入っていてそれを食べようかどうしようかと思った時です。
私は以前はそんな時、思ったがはやいか、手をのばして袋をやぶってチップスをつまんで口と運ぶのがはやいか、区別がつかないほどに素早く行動に出る本能の人でした。(欲望と行動があまりにも素早く直結しているので大人じゃないみたいだけど、子どもの行動を理解するうえでは役立つのだけどね・・・)
でも!、『悪習慣を断ち切る法』で学んだみことばをカードにして、スピードメーターの前に置いているので、それで、「おっといけない、きたきた、これは敵の誘惑だ。えっとえっとどうするんだっけ、そうそう、これはチャンス、イエスさまを選らぶチャンスだった。これでこの世界、今この瞬間においてはこのチップスを選べば私のうちに神を愛する愛はないことの証明になるんだった・・・・」と脂汗にまみれて葛藤すること5分。
これは長かった。本当に長く感じました。
そして、ついに神さまを選ぶことができたのです。
食べたい気持ちはただの仕事を終えた安堵であって、本当の空腹感がじゃなかった。
あの時の、平安を私は生涯わすれません。(大げさじゃなくまじめに)
 


Thursday, May 16, 2013

聖められた生涯~全く聖なるものに・ささげる

あなたがたのからだを、神に受け入れられる、
聖い、生きた供え物としてささげなさい。
それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
ローマ12:1
単に、あるものから分離するだけではなく、他のものに向って分離する。
神が私たちを買い取ってくださったということは、全く真実なことです。
しかし、神は無限なる謙遜のゆえに私たちに明け渡しを強いられず、私たちからの自発的なささげものだけを受け取られるのです。
献身とは、主のものちなるために、愛に押し出されるようにして、自発的に心を明け渡すこと、あるいはみずから進んで心をささへることを意味します。
このような自己放棄が安心してできるという、全き確信が必要となります。
私たちは断崖の上から落ちるのでもなく、自分自身を恐ろしい裁判官にゆだねるのでもありません。
御父の腕の中に身を投げて、無限の相続へと踏み出して行くのです。
献身とは、陶器師の手にすべてを明け渡した粘土のようだと言えます。
陶器師はそれを器から栄光へと形造り、陶器師の必要に粘土が応じられるようにします。
A.B.シンプソン
私の貧しい心を取り
この心があなた以外のすべてのものに対し
永遠に閉じるようにしてください
私の胸に封印をして
この胸があなたの愛の制約を
永遠に秘めておくようにしてください
アーメン
私が、生まれながらのおこりんぼであることは、とても確かなことです。
私が、私のルールでこの世界を見ようとするのは、それは、私が生まれながらにこの世界のルールの中に、『自我に従え』という反対勢力の中の教えの中に漬けこまれてきたからなのだと思う。
罪人であることと、罪の中に生きることは文法的にちょっと違うということについて考えてみました。
罪人だけど、救われたことが誰の目にもはっきりとわかる元罪人になりたい。
ずたずたに引き裂かれた何の意味も持たない、古い契約書を思い浮かべています。


Wednesday, May 15, 2013

聖められた生涯~全く聖なる者に・分離Ⅱ

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。
古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
Ⅱコリント5:17
 
私たちはまた自分自身を、古い性質の状態の化身であるこの世と悪の君が支配している世界から分離するのです。
そして、主がこの世のものでなかったように、私たち自身もこの世のものでないことを認めます。
聖霊は私たちを、悪からだけでなく、この世のものからのいっそう深い分離へと導いてくださいます。
神はさらにあならを導き、あなたにとって、罪であるとは言えないものでも、神のいのちとみこころにそぐわないものであることが、あなたにわかるようにしてくださいます。
その時、あなたは自分自身を分離し、その悪を神に明け渡すべきです。
そうすれば、神はご自身から離れているすべてのものを死に渡し、私たちの全存在を復活の新しいいのちへと引き上げてくださいます。
喜んで神に権限を与えるまでは、私たちの悪に対して神はご自分の手を下すことはなさいません。
いにしへの日のヨアブの軍勢のように、神はあなたの町の前に野営し、シェバが死ななければ町は滅びるとのメッセージをあなたのもとに届けられます。
その時、あなた自身の手でシェバを引き渡さなければならないのです。
あなたの罪深い心と、あなたの心がこの上なく慕っている偶像を主に譲歩しなさい。
「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。Ⅱコリント5:21」
A.B.シンプソン
聖なる神さま、
私の人生から、全ての偶像を取り除いてください。
そうしたら、あなたのことがもっとわかるようになれますか?
見えない神さま、あなたのことがはっきりと見えるようになるために、
私の人生を、もっともっと、もっともっとシンプルなものにしてください。
アーメン

おうちの中を石鹸とベーキングソーダとビネガーとできれいにし始めた頃、シンクの下にどっさりと不要な洗剤、無駄な洗剤、有害な洗剤があることに気づきました。
高いお金を払って、せっせと地球をいじめていたのだなと、心のすみずみまで実感しました。
私は、知らないうちにたくさんの不用品、無意味なもの、有害物質を頭の中に取り込み、そしてそれを心に伝え、感じることを許してしまっているかもしれないと思う。
 
 




Tuesday, May 14, 2013

聖められた生涯~全く聖なるものに・分離

愛する者たち。
私たちはこのような約束を与えられているのでから、
いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめて、
神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。
Ⅱコリント7:1
聖めるとは、分離することを意味する
神がなさった最初のことは、分離するということでした
光と暗闇を設け、天と地の間に空間ないし淵を設定したのです。
神は暗闇を消滅させたのではなく、それを光から分離されたのです。
聖化とは私たちは自発的に悪から分離することを意味しています。
聖化とは悪を消滅させることではありません。
私たちが悪を脱ぎ捨てて、そこから分離することによって、私たちと悪の間に越えることのできない深い淵を設けることなのです。
私たちは過去の罪からだけでなく、罪を原則とした生活からも自分自身を分離しなければならないのです。
これは、私たちの聖くない状態を改善し、徐々に向上させていく、というのではありません。
ありとあらゆる悪の現われを、それが内から出たものであろうと、外からのものであろうと、拒絶するのです。
私たちの全存在をもって「否「と言うことにより、否定と抵抗の姿勢をとるのです。
ただ明確な意志の行為によって、私たち自身を悪から分離させ、その悪を神に引き渡し、それを徹底して放棄すればよいのです。
そうすれば、神はいつでも私たちの委任に答えて、ご自分の大能の力を添えてくださいます。
しかも、キリストは底なしの墓のように深い淵と、新しいエルサレムの土台のように高い壁を、私たちと私たちは捨てた悪との間に設けてくださいます。
A.B.シンプソン
平和の神さま、
今日も、たくさんの選択に迫られることでしょう。
生きるかぎり、それは果てしなく続くでしょう。
でも、いつでも、いいえ、今日こそ、
徹底的にあなたの側に立つことができますように。
大きな一歩であったとしても、小さなずれであったとしても、
どうかあなたの光の中からはみだして、
平気でいることがありませんように。
聖霊さま、どうか私に間違いを教えてください。
アーメン

昨日の朝からA.B.シンプソンという人が書いた『聖められた生涯』という本を開いて、デボーションを始めました。
ずしっと中身の濃い本なので、小さな項目に分けて、分けて、そしてもう一度分けてもたくさんの新しい発見があります。
コンパクトに毎日、まとめられないかもしれないけど、それでもでシェアしたくて、とにかく始めてみることにしました。
どうぞ、もう一度、一緒に歩いてください。

 

 


Sunday, May 12, 2013

母と私とはな~母の日に

Happy Mothers Day!
どんな1日でしたか?
今日は礼拝の後、はなとFairfaxのマーケットに行ってきました。
行きのクルマの中ではなに「生まれてきてくれてありがとう」と言いました。
はなは素直に「うん」と言ってくれました。
私たちはこんな会話がとてもスムーズでらくちんです。
いろいろ聞かずにだいたいわかりあえます。

(おいしそうなケーキのお店の前で、ハンサムな男の子たちがいろいろ、会話しながら、ケーキを吟味。
こういうところにくると、必ずすごいハンサムで健康な男の子の子のカップルと、すごいハンサムなゲイのカップルがいてこの子たちは、健康系でした。
こういうところにくると、必ずマリファナの匂いがして、無邪気に「なんの匂い?」ってきかれるけど、今日は大丈夫でした。)
「はなも、いつかきっとママになってね。はなが大変と思うときは、ママがはなのベイビーのお世話をしてあげるから心配しないで。」と言うと、もう一度、素直に「うん!」と答えてくれました。
(前歯がないので口を撮らないとどんな顔かなって思って実験。
うんなかなかいける。
でも、はなは写真の真ん中にこようと一所懸命だった。)
はなと楽しく歩きまわりりながら、母のことを考えていました。むかし、母と私は、よくこうやって、いろんなマーケットを歩き回ったものです。
賢人も生まれる前。私がアメリカにきて間もない頃。

母もアメリカのアーティストが作った古い雑貨が大好きで、ふたりであちこちせっせと見て歩いたものです。
思えば、小さな頃、『大草原の小さな家』とか『赤毛のアン』とかを一緒に見ていたあの頃から私のこの趣味は始まっていたのかもしれません。
(こういうところで生の演奏を聞くととても良く聞こえ、でもCDを買って帰るとがっかりすることってよくある。
音が増えていてなんだかうるさくなっていて、ええ~って思うけど、この人たちのはCDもシンプルでとてもよかった。)

母は、もう飛行機の長旅が大変になって遊びにきてくれなくなりました。
最後に来てくれたのは、はなが生まれた7年も前です。
去年はミッション・トリップで帰れなかったから、今年はって思うけど、どうかな・・・。
帰りのクルマではなに、「はな大きくなったら、ママをレストランに連れて行ってね。」と言ってみました。
はなは「うん。ママがすごくおばあちゃんになってもそうしてあげる。」と言ってくれました。
いえぃ!あじゃなくてハレルヤ!
(10歳の女の子が自分の描いた絵を売っていた。プラスティックの板を焼いて作ったネックレスはとてもよくできていて、はなと二人で、このアイディアはなかなかいいね、なんて言いながら、作り方をじっとよく見て帰ってきた。)

私のイエスさまたいけん

わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。
わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、
わたし自身を彼に現わします。
ヨハネ14:21
 
この世界でイエス・キリストに会うことは、地上で天国を味わうことと、スポルジョンは言う。
アーメンと思う。
私はときどきしか会ったことがない。
でも、全部よく覚えている。
すっごく昔、賢人が9歳の時、ある教会の出口で人の波に押されるように、外に出ようとした時に、誰かが私の腕にさわって、私がふりかえると、それはイエスさまだった。
スーツを着てネクタイをしめて、その日、その教会で、メッセージを語ったばかりの牧師のかっこうをしていた。
彼の目はとても悲しそうで、彼は人の波と一緒に去る私の後ろ姿をじっと見つめていた。
どこの教会にも行っていなくて、時々、そこに行っては、どこで子どもを生もうかと考えていた。
おなかの中には、はながいた。
その日以来、その教会には行っていない。
 


Saturday, May 11, 2013

The Last Bookstore


本好きはおやゆずり
っと、おもいきや、やっぱりおでかけしてきました。
土曜日だものね~。
Busy Beeのおいしいホットサンドを外で遊ぶ子どもたちに食べさせて、私もおなか一杯食べて、ああ、幸せ・・・、このまま『クマのプー』でも読みながらお昼寝ねって思ったら、近所のお友だちのママがお迎えにきて急にバイバイに。

まず、この本のキャッシャーに狂喜


















本のトンネル
はなが、「んじゃママと出かけてあげる。」って言うので、古本屋さんに行ってきました。
それはそれはとお~っても大きな古本屋さん。
その名も、The Last Booksore。

本の窓
なんでもありのすっごい本屋だった。
私は日本語絵本コレクション2000冊以上の幼稚園で働いていて、そこで働きたい動機がその絵本だったほどの本好き。
本の何が好きって、まずにおい。
文字のにおい。(うそで~す)
そして形。
長四角。(これもうそで~す)
それから、お話しがそばにあるって思うだけでわくわくする。
レシピでも写真集でも知らない世界がそこにあると思うとうれしくなる。
本が大好きな親子は、店の中を時間を忘れていつまでもいつまでもうろうろ。
ここはおよそ考えられる限り、本の可能性を100パーセント以上に発揮している本屋さんといってよいと思う。
でも、あまりにも雑然と、っていうかごちゃごちゃと無造作に本がそこいら中にあるので、はなが間違って何気なく、怖い写真の本を手にして開いたらどうしようとちょっと、どきどきしたけど、でも大丈夫。
そんな本はなかった。
あったかもしれないけど、神さまは守ってくださった。


ピンクの歓声を聞きながら


朝、まだ何にもしていないのに、熱いお湯につかったら、急に全てがスロー・ダウン。
土曜日だし、まっいっか。
はなは近所のお友だちとお庭で水遊び。
水風船と、水でっぽうで、ピンクの歓声をあげながら、ずっと遊び続けています。
一緒に遊びたいけど、でもそんなに暑くないのよね。
今日・・・。じっさい。
賢人は小学校時代のお友だちと映画。
Iron Man 3。
一緒に行きたいって言ったけど、言い終わらないうちに「だめ!」とはっきり、きっぱり断られました。
「遠くに座るから」って言おうと思ったのに、聞いてもらえなかった。
一緒に食べてくれる人もいなくて、ごはんらしいごはんを作る気になれないので近所のサンドイッチ屋さんで買ってきてすませます。
ここはいつも込んでいるけど、今日はクルマをとめるところがみつからないほどで、へんなところにとめて並んでいたら、途中でサングラスのコワイ顔のおまわりさんが入ってきてどっきり。
でも彼らもここのサンドイッチを買いにきたお客でした。
午後は、本を読みながらお昼寝でもしよう。
まあ、いいわ。
今日はそんなわけで、どこにも行かず、誰にも会わず、おうちでのんびりです。

だから書く

おはよう。土曜日です。どんな1週間でしたか?
私は、心がいろいろ感じた1週間でした。
いろいろな心にふれた1週間でもありました。
神さまが、ふれるようにとたくさんの心を私に近づけてくださいました。
だから、ずっと誰かのことを考えて、そしてお祈りしていました。
私が働く職場、幼稚園というところはあまり地上っぽくなく、かといって天国でもなく、とても不思議に純粋で、大切なことだけに集中していられる空間なので、大人の社会で大人の問題に取り組む大切な人を励ます心は、奥の方から出してこないとすっと出てこないかんじでもどかしかった。
書いていることを、読んでくれる人が増え続けて、心がおいつかないと思うこともありました。
言葉に心を合わせるのではなくて、心を表す言葉を探すことに心を集中させなくちゃと思いながら書き続けています。
私は自分がもっと上手に絵を描けたらなっとか、上手にピアノが弾けたらなっとよく思います。
ここは、もっとこうなのにって思うところは、色だったり、音だったりするのです。
でも、私の絵がもっと上手で、ピアノももっと上手だったら、こうして書くことはなかったから、だからそれでいいのだけどね。ちょっと言ってみたかっただけ。そんなふうに。


Friday, May 10, 2013

頭の真ん中③

最近ようやく白いシャツを着るようになった
 
 
 
金曜日。
仕事を終えたその足で、はなをアフタースクールのプログラムに迎えに行って、学校にもどりました。
オープン・ハウスです。
 
春休みのボランティァで一緒に作ったお茶碗
  
 
私の頭の真ん中を大切に守ってくれた最初の人は父と母だった。
だから、私はそこに大きな自信を得て、おおいばりで、自分を生きることができたのだと思う。
はなをキンダーから1年生になる時に転校させたのは、私と夫ではなの頭の真ん中を守ろうと思ったからだった。
おかげで、はなはあきれるほどに、健やかに自分とママとダディと先生とお友だちと学校と教会が大好きな人に育っている。
子どもたちの頭の真ん中を育てる親になりたい。
せんせいになりたい。
 
 

頭の真ん中②


育てられた家族の中でも、自分が作った家族の中でも、行く先々、特に今いる幼稚園で、私は、頭の真ん中のおんなじ何かをずっと変えなくてもだいじょうぶなこと、変えずに生きてこられたことをとても幸せと思う。
これを『ガンコ』というのかな。
でも幸いそう言われたことは一度もない。
夕べ、『星の王子さま』を読み終えて、そのことを心から感謝しました。(でも毎日、誰かが私を天然っていうよ。昨日は2回もいわれた。私はそういわれるのが大きらいなのに・・・。)