Tuesday, May 28, 2013

聖められた生涯~からだの聖め・ささげられたからだ

こういうわけで、
あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、
ただ神の栄光を現すためにしなさい。
Ⅰコリント10:31
わずかでも、からだが私たちの手の中にあるなら、霊とたましいが神にささげられることはありません。
からだをささげることは、あらゆる器官と肢体を含む私たちの肉体のすべてを神の所有物として聖別することを意味します。
すなわち、私たちの肉体のすべてを神の特別の配慮の対象として、また神の特別のみこころと奉仕を行う器として聖別するのです。
私たちの手は、世の仕事であろうと、他の人に仕える働きであろうと、神の栄光のために働くことを目的として神にささげられます。
ささげられたからだとは、私たちの舌が主の指示のままに語り、主の栄光のために語ることを意味します。
聖別された耳は、神が私たちに聞くことを望んでおられるものに対してはきわめて敏感であるものの、それ以外の声に対しては死んでいます。
聖別された目は、他の人がきづかずに見すごした多くの機会を見つけます。
また他の人が見落としたものの中に多くの美と意義を見出します。
聖別された足は、いつでも義務の道を歩きやすいものにします。
聖別された声は、新しい力をもって歌い、また話します。
A.B.シンプソン
わたしのいのちを取り
それを主よ、あなたご自身にささげさせてください
わたしの手を取り
それをあなたの愛の鼓動のままに動かしてください
アーメン
心もからだも神さまにささげるとどうなるのかっというと、きっとすごいことが起きるのだと思う。
A.B.シンプソンが教えるようには到底ささげきれていない私に、こんなにまで、よくしてくださる神さまだから、きっとそれはそれはすごいことが起きるのだと思う。
体験したことのない素晴らしいことが待っているのだと思う。
知らないけど、でもそう信じることができる。
先週、ある人からもらったEメールに日曜学校への奉仕へと導かれるよう祈っていると書かれていて、そして、日曜日は別なある人からまるでとても唐突に、同じことを言われました。
私の体、手や足や声は本当は何のためにこんなに丈夫かと、はじめてじっくりと考えています。