Saturday, May 4, 2013

悪断25~キリストと信者のとりなし

まことに、まことに、あなたがたに告げます。
あなたがたが父に求めることは何でも、
父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。
ヨハネ16:23

「私たちは自力ではクリスチャン生活をまともにやってゆくことはできない。キリストのからだから離れてひとりで失敗や成功を経験するようには神は計画なさらなかった。私たちは励ましととりなしのゆえに、また親しい交わりからくる力のゆえに神の民を必要としている。」
「私たちの罪は決して個人的な問題ではない。〝私だけが傷つくのだ〟と言うことはできない。」
「私たちの挫折には神とキリストのサタンが関係している。」 
「地上での隠れた罪は天国では公のスキャンダルである。」
「私たちはサタンと対決して勝てるだろうか。死を経験して、無事その向こう側に到達できるだろうか。キリストはそれをなさった。主にあって私たちにもできる。」
「主は父なる神の右に座して、私たちのためにとりなしていてくださる。」
「どうしても勝てないように思えるあの罪のことを、もう一度考えてみよう。その戦いの結果は神にとって非常に重大である。それはキリストとサタンの争いであって、あなたが賞品だからである。」
「キリストだけが私たちのためにとりなしておられるのではない。この報いの大きい働きに、すべての信者が参加するようにと主は招いておられる。」
「神の子どもから離れて健全なクリスチャン生活を送ることはできない。」
「どんなときにも、自分だけで神に従っていると考えるべきではない。私たちには神に贖われた民も必要なのだから。」
アーウィン・ラッツァー
私の大祭司さま、
私がクリスチャンになったのは、誰かがそれを願ったからなのですか?
誰かの懸命な祈りによるのですか?
だったら、もう一度、その奇跡を私の人生に起こしてください。
私に私のためにとりなしてくれるクリスチャンの友だちをください。
アーメン
クリスチャンの親に育てられた人、クリスチャンの夫を持つ妻のここ一番の底力というか、大抵は大丈夫的な安定感はここからきているのではないかと考えてみる。
私は、今こそ私の大祭司であり、人類のとりなしのためにやってきたイエスさまにそれを求めよう。

求めなさい。
そうすれば受けるのです。
それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。
ヨハネ16:24
Day3:昨日は、夫が用意してくれた手巻き寿司のディナーでした。夫と賢人が大すきなのでまぐろとえび。はなと私はきゅうりとたまごと納豆。暑かったねって話ながら楽しく食べて、賢人が後片付けをしてくれました。私は、熱いお茶を飲みながらはなと絵本を読みました。食べ続けたい気持ちは起きませんでした。そして、今朝、このデボーションを終えてはっと思ったのです。日本語学校を辞めた挫折とからっぽ感から癒されたくて、神の赦しを確信したくて、このデボーションをはじめました。やがて、ビールをやめなきゃという気持ちに導かれ、決心をしました。その直後の、微熱と共にやってきた「あれ?なんだけ?」という不思議な感覚、「ただでくれるっていってもいらないよ、そんなもの」って感じだった。そして、それは今も続いている。そして、昨日、『はらぺこまきちゃん』を書いたら、急に、食べ続けたい気持ちが消えていたのです。これはもしや、このシェアリングがキー?というのが私の仮説です。外から中が丸見えになっちゃた牢屋には実は鍵はおろか、扉すらなかったのではと思いいたったわけです。どきどきどき。