Thursday, May 30, 2013

聖められた生涯~神の守り

だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。
なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。
その人は神から生まれたのであって、罪のうちを歩むことができないのです。
Ⅰヨハネ3:9
船が錨を上げ、純白の帆を張って、微風に旗をなびかせながら、期待に満ちて出航します。
やがて人生における現実的なテストが私たちの理論を実地に試すでしょう。
私たちは全く聖なる者とされました。
では私たちは、どのようにして責められるところのないように守られるのでしょうか。
この守りはキリストの贖いのうちになされています。
キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。
キリストの死が、私たちの完全にして最終的な救いを買い取りました。
ただし、私たちには、キリストに全く明け渡すことと、そののち、故意に自分自身を彼の御手から取り戻し、彼の恵みと真実を放棄しないという条件が必要になってきます。
それはキリストのとりなしによって継続されます。
ご自分によって神に近づく人々を、完全に永遠に救うことがおできになります。
私たちは、悪から全く聖別され、神にささげられていますが、絶えず悪と接触します。
私たちは絶えず、キリストの血を新しく適用する必要があるのです。
私たちを満たす彼の聖いいのちは、あらゆる悪を駆遂し、絶えず私たちの全存在を新しくします。
私たちとあらゆる誘惑の間に、イエスが臨在され、用心深い識別力、拒絶、勝利をもって私たちの敵に立ち向かってくださるのです。
A.B.シンプソン
主がわたしたちを祝福し、
わたしたちを守られますように。
主が御顔をわたしたちに照らし、
わたしたちを恵まれますように。
主が御顔をわたしたちに向け、
わたしたちに平安を与えられますように。
イエス・キリストの御名によってお祈りします。
アーメン
 
最近、ようやく、何が本当の幸せなのかということがほんの少し、わかりかけてきた気がしています。
それは、心で感じていることと、頭で考えていることと、体でやっていることがひとつの時。
どんな状況であっても、それが私に安らぎと安心をもたらすのです。
昨日の夕方、暗くなる直前にお庭のブランコのロープに近所のはなの仲良しの女の子の髪の毛がからみついてしまいました。
彼女は吊り上げられる寸前だったようで、とても痛がって大きな声で泣き叫んでいました。
だから、はなに髪の毛用のハサミを取りに行かせ、彼女の髪を切ろうとしましたが、彼女はママに聞いてと泣きながら言います。
それで今度ははなにママを呼んでこさせました。
裸足で飛んできた彼女は「911よ!」とほとんどパニック状態で、電話を要求しました。
彼女には娘の髪を切るという選択しは絶対にないようでした。
私は何かが違うと思って、天を見上げました。
ただ、落ち着いて考えよう、そうできるように祈ろうと天を見上げたのです。
それは大きな大きな樹齢90年近い木です。
木を見つめながら、木につながっているブランコに女の子がつながってしまったことが、本当にかわいそうと思いました。
だからブランコの綱を彼女の髪の毛に一番近いところで切ることにしました。
そのことにどんな意味があるのかわからないけど、でもとりあえず、そうすれば女の子と木は離れ、彼女をを座らせてあげられると思ったのです。
ファイアデパートメントと女の子のママが話している間に左手で彼女を抱いたまま、右の手で小さな小さな髪の毛を切るはさみでキコキコキコキコ。
切りながら、みるみる心が静かになてゆきました
綱が切れたら、切り離されたブランコのついた方の綱がゆっくりと女の子の髪の毛の中で回転を始め、すっかりほどけました。
はなはその間、腕でブランコを支えながらずっと親友の手をにぎりしめ、「だいじょうぶ。ママたちがあなたを助けてあげるから。だから、泣かないで。」とくり返し言っていました。
女の子のママは、一本の髪の毛も失うことなく、すっかり綱から解かれた女の子を見て、「ああ、だいじょうぶです、ありがとう」と電話を切りました。
そして「ブランコを買い戻すわ、だって、ふたりはこれが大好きだもの、遊べなくなるのはかわいそう」っと言ってくれました。
*右側のちっちゃなスライドショーに4年ぐらい前のブランコが写っていました。今はもうないブランコ・・・。