Tuesday, December 31, 2013

大晦日②

どんな大晦日をおすごしですか?
私は、まず、冬休みの朝のうれしい習慣、熱いお風呂。
そして、お洗濯、アイロンがけ、賢人をビーチに送って、お買い物。
いったんうちに戻って、子どもたちにハムと玉子をのせたサラダのランチを食べさせ、洗濯物をたたんで、クリスマスツリーとオーナメント、絵本や楽譜のお片づけ。
掃除機をかけて、亀ちゃんの水槽を洗って、ディナーの準備。
そして、点検に出したクルマのピックアップ。
さっきもどってきて、子どもたちと共に、蟹&年越し蕎麦を食べたところです。
夫は今夜も仕事。
本当にごくろうさまです。
さて、どんな1年でしたか?
私はふりかえってみると、信仰生活においては試練の1年、忍耐の1年。
仕事においては挫折の1年、挑戦の1年。
でも12月31日の今日、よくがんばった、えらかった、もうだういじょうぶと思えるからとても幸せです。
試練も忍耐も挫折も挑戦も、この漢字達をぱっと見たら、そして並ばせちゃったらとても大変そうだし、ぜんぜん楽しくなんかなさそうだけど、でも私はいつも幸せだったし、いろんなことがそれでも楽しかった。
一番うれしかったことは、長野からのお客さんを日本語学校に迎えて、一緒にお料理したこと、喜んでもらえたこと。
一番楽しかったことは、アフターキンダークラスの子どもたちと一緒に大きな絵本を作ったこと、心を合わせて発表できたこと。
一番悲しかったこと、苦しかったことは、もう忘れちゃった。(ほんとは覚えてるけど、でも今夜はやめとく)
でもね、一番一番感謝していることは、静かで、ゆっくりとした日々を私と一緒にすごしてくれた家族を、神さまに守ってもらえたこと。
私の波乱万丈な外でのあれこれをいつも黙って静かに何も聞かずに受けとめてくれた夫、寄り添ってくれた子どもたち、私の大切な家族。
そしてそんな日々を、家族もろともまるごと守ってくださった神さまの愛、はい、それがやはり一番の感謝で喜びでハピネスです。アーメン

大晦日

神は季節と時を変え、王を廃し、王を立て、
知者には知恵を、理性ある者には知識を授けられる。
神は、深くて測りしれないことも、隠されていることもあらわにし、
暗黒にあるものを知り、ご自身に光を宿す。
ダニエル2:21,22
おはよう。
ダニエルを読んで、2013年を神さまに感謝しました。
365日、毎日私に命を与え、養い、守り、導き、
愛してくださった主に、赦してくださった主に。
そう、今日は大晦日。

Monday, December 30, 2013

読書します③

どんな冬休みをお過ごしですか?
私は、たくさんの本に囲まれて、平行して同時進行に複数の本を読みあさっています。
夫は、「今日も遅いから」と言い残して出かけました。
賢人はマイクとマイクのお友だちとお昼ごはんを食べに行ってまだ帰ってきません。
はなはテレビを観ています。
外は寒いかな?
一度も出ていないのでわかりません。
モーセの物語を読みました。
モーセにはとてもしっかり者のお姉さんがいました。
とてもしっかり者です。
命を守るため母によって河に隠された弟・赤ちゃんモーセが王女に拾われた時、乳母を見つけてきますといって実母を差し出したほどにしっかり者です。
そして彼女はそのしっかり者のゆえに、勇気ある気性のゆえに、そのたぐいまれなる行動力のゆえ、そして熱い篤い信仰のゆえに、私に素晴らしいドラマを見せてくれました。
その秘密を今日は、じっくり読みました。
私には姉はいません。
いるのはお兄ちゃんと何人かの友だちだけです。
でも、昔夢みた姉は、たしかそんな人だったかもしれません。

読書します②

わたしがきよい水をあなたの上に振りかけるそのとき、
あなたがたはすべての汚れからきよめられる。
わたしはすべての偶像の汚れからあなたをきよめ、
あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。
エゼキエル36:25,26
今朝無事にエゼキエルを読み終えました。
クリスマスの季節だったから、あっちこっちで子どもたちを喜ばせてくれた愛すべきサンタクロースさんたちをはじめ、この世界に入り込んで大きな市民権を得てしまった数々の偶像についてあらためて考えつつ、読み進めました。
富、名声、権力、セックス、そして世間さま。
でも、エレミア、哀歌、そしてエゼキエルと読んで、今一番心に深く思うことは、父なる神と、御子イエス・キリストと、聖霊という三位一体の神の存在。
うまく表現する自信はないけどがんばって書いてみると、私は父なる神と、御子イエス・キリストと、聖霊によって、みっつの方向からみっつの方法で、ひとつの愛をもらって生きてこれたのだなっと思うのです。
今までは造られたことと、救われたことと、導かれていることが、ごちゃら~とひとつもまるいボールのようになっていました。
私は今の幼稚園にくる前、3年ほどキリスト教の幼稚園で働きました。
そして昨年の夏は日本の長野にまで行ってバイブル・キャンプで聖書を教えるという仕事をしてみました。
そして、その両方の仕事を振り返って時々思っていたことは、「この複雑かつ込み入った歴史と系図とふたつ存在する契約を幼い子たちに『だからキリストはあなたを愛している』という結論へと毎回導くのは、すごく難しいことだな」って。
でも、今は「そっか、そうだったんだ」って思える。
それはひらたく言うとこういうこと。
私たちは造られた~主イエス・キリストに愛されるために。
私たちは贖われた~主イエス・キリストが私たちを愛したから。
私たちは導かれている~愛する主イエス・キリストに会いにゆくために。
私の中には日の目をみたことのない、小さい子どもむけのオリジナルの年間、月間の教会学校用のレッスンプランがあります。
これをぜんぶ破棄してはじめから組み立て直さなければって今思う。
今ならこれを3年分ぐらい作れそうな気がするのです。
もしかしたら一生日の目はみないかもしれないけど、でもちゃんと作らなくちゃって思うのです。
 

 

Sunday, December 29, 2013

読書します

さてと・・・・。
やっとたくさんの読みたい本に囲まれて、幸せの(この世のね)極みな私です。
冬休みも残り3日、そして本は積まれた。
お料理の本、お菓子作りの本、自己啓発の本、エッセイ集、児童書、絵本。
熱いお風呂と時間をかけてじっくり作る本当に食べたかったもの、そして私を私の知らない世界に一瞬で運んでくれる読み物があれば、それが私のこの世の天国。
1年間をがんばった自分へのごくろうさまのご褒美です。
読むことは、私にとって生きることと同じ。
楽しくて、うれしくて、希望に満ちていて、喜ぶにあふれていて、そして、前を向いて現実を踏みしめながら生きたい力が湧いてくる。
ではでは、そんな夢を世界にちょこっと旅してきます。





大庭の喜び

知れ。主こそ神。
主が私たちを造られた。
私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。
感謝しつつ、主の門に、
賛美しつつ、その大庭に、入れ。
主に感謝し、御名をほめたたえよ。
詩篇100:3,4
 
どんな日曜日でしたか?
私は、私の魂は、とても感じやすく、傷つきやすく、壊れやすく、それでいて、教えを受けやすく、励まされやすく、癒されやすい魂のようで、そんな単純な魂を私に授けてくださった神さまに心からの感謝をささげた日曜日でした。
そんなことを感謝したのは、たぶん生まれてはじめてです。
私のやっかいは、この体でも心でも脳でも霊でもなく、ただ一重にこのもろい魂にあるので、まさかそんなことを感謝するなどとは、思ってもみずに礼拝堂に入り、すっかり感謝に満ちて礼拝堂を後にしました。
人の道とは、本当にままならないものよねって、抹茶スムージーをずるずるすすりつつ、はなを相手に熱弁をふるい、最後に、「あんたもそろそろ真剣に人生を考えた方がいいよ、もうすぐ8歳なんだからね」と母親らしくしめくくってみました。 

Saturday, December 28, 2013

アーメン!

今日は夫がはなの相手をしながら、賢人の送り迎えをして、お昼ごはんも夕ごはんも作ってくれたので、私はちょっぴり微熱があったのをいいことに、1日中ずっと好きなことだけをしてすごしました。
夫がずっと録画してくれていた『リーガル・ハイ』を今日、カウチと一体となっていっきに見まくりました。
こみかどけんすけって誰かに似ている、似ている、似ている。
誰だっけ、誰だっけ、誰だっけ。
!。・・・CSルイスだ。
「本当の敵は敵のような顔をしていない」なんていかにも天才児童文学作家C.S.ルイスの書きそうな台詞でしょ。
最終回のラスト・シーンで、本当のwinwin、クリスチャンの私的には本当の愛を知らない独善的勘違い男を、こみかどけんすけが叫び倒す場面では、台詞にじっくり聞き入り、身を起こして心からアーメンと言った。
それは確かこんな台詞。
『あなたの問題はこうだ。
あなたは自分が正しいと思っているが、それこそがあなたの間違いだ。
あなたは、人を見下し独善的で醜く、いい男ぶっているけれど本当はうすら笑いが気持ち悪くてスーツの趣味が最悪な、漢字もろくに書けずに英語もサッカーも実はそれほど上手じゃない、でたらめなことわざを作り出し、winwinなんて言いながら本当は自分ひとりがWINERになりたい、あまくてぼんくらなたまたまうまくいっただけの天然でたいくつなくそやろーなのだ。ばーか。』と。
そして最後の最後の彼の素晴らしいトドメの一言に打ちぬかれ、アーメンと立ち上がっていた私はもう一度、今度は心の中でアーメンと言いながら、ふたたびカウチにへたった。
『あなたがあなたの理想を現実にする方法があるとするなら、ただ一つ、自分の愚かさを認めて、人の醜さをも愛することだ』
こういうことを日曜日の朝の教会の礼拝で、講壇から、知的な言葉で、愛をこめて、穏やかに話す牧師を私は知っている・・・。

散乱テーブル幸せテーブル

夕べ、夜中近くにへろへろとサン・ディエゴから帰ってきたら、賢人に「おかえりなさいどうだったあしたうみにつれていってくれる」ってぜんぶひらがなの句読点なし、アクセントなし、ポーズなし、疑問文なのにクエスチョンマークすらなくにいっきに言われ、思わず、「はい」って言っちゃったけど、朝、夫が寝ていたので、代行を頼んだら、快く引き受けてくれました。
それで、私はもうお昼近くというのに、パジャマのまま、だらだらいつまでも、好きなことをしています。
ぽかぽかと日当たりのよい窓辺のダイニング・テーブルの上は、コーヒーカップや水ボトル、みかん皮や小さなふりかけの袋、nutellaのジャーや食べかけのパンなどが散乱していて、それはそれで、ちょっと幸せな風景です。(仕事に出かける前や、仕事から帰ってきた時にこのテーブルを見たならたぶん、気分は幸せの対極だったと思うけどね。)
でもとっても残念なことに、新しい読み物が何もありません。
さてと、このテーブルの上をちゃっちゃと片づけて、本の買出しに行ってきましょうかねえ~。




ずっとともだち2013~シーワールド編②

おはよう。
今日は、土曜日なのね・・・、仕事も子どもたちの学校も習い事も全部お休みだから、曜日の感覚なし状態の毎日だったわ。
昨日は1日かけてとても良く遊びました。
9歳もはなして子どもを生んで、まるでひとりっこを2回育てているような私とさなえちゃん。
私たちには同時進行の親とは違う、長くて、ゆっくりな子育ての感覚があるので、その流れのうねりやスピードがいつ会っても同じなのが私はとてもうれしい。
さなえちゃんのもうひとりの女の子のまなかちゃんも賢人もあと1年半でハイスクールを卒業します。
そしたら、彼女たち、さなえちゃんたちには引っ越しの計画があります。
私は、そんな日がくることをずっと忘れたふりをしていたけれど、でも、昨日ちょっと思い出してしんみりしてしまいました。

Friday, December 27, 2013

ずっとともだち2013~シーワールド編

行ってきました シーワールド
カレンダーにしるしをつけて、ずっと楽しみにしていたこの冬の目玉
 半年ぶりのプレイデートだけど、
毎日遊んでいたみたになじむのに時間がかからないのは、毎度のこと
 まずはクリスマスツリーの前で記念撮影
 カメラを向けるとさっとポーズをとる、こましゃくれたもうすぐ8歳の人たち
生まれてはじめてみる大きな海の生き物たち
はなが一番好きだったのはこのジョゴンくん
クリスマスキャロルで舞うシャチたちのショー、すごい迫力でした
かりんちゃんが、人一倍大きな拍手をおくっていた

私の場所・私の幸せ

まことに、神である主はこう仰せられる。
見よ。わたしは自分でわたしの羊を探し出し、これの世話をする。
エゼキエル34:11
これは一体どういう意味だろうと思いながら、34章をじっくり読んで、じっくり読んでもあんまりよくわからず、でもなんだかわかった気のする神さまのあわれみに感謝しました。
そして、もう一度、父なる神と、キリストイエスと、聖霊が私の人生にそれぞれの方法で関わってくださっているという、漠然とした事実について考えてみました。
おいしいコーヒーを作って、聖書を開き、しばらく読んで、ラップトップを開きます。
この朝の静かなひとときに何をするかが、私の今日にとって、とても大切なことなのだけど、それは私の人生にとっては、もっと大切なことだなって思う。
うちの中の一番あたたかい場所に、聖書とコーヒーとラップトップを持ってきて、座ったとき、泣きたいほど、切なく、こう思った。
この小さな家が好き。
この新しい朝に、こうしてひとりで、この家の一番よい場所で、好きなことができる私は世界で一番幸せな「祈る人」だって。
祈る人、つまり祈っている最中ってみんなきっとそう思うのよね。きっと。
木の下で祈る人も、ビーチで祈る人も、書斎で祈る人も、ベッドの脇で祈る人も、みんな。
 
 
 


Thursday, December 26, 2013

手のひらの幸せ

ゆりかさんのおうちで、静かな午後のひとときをすごしてきました。
ゆっくりと低い声で、あわてず、あせらず、何も気にせず、何も心配せず、のんびりとおしゃべり。
いつも冬休みなると春のことを考え、春休みになると夏のことを考えていたのに、私は変わったなって思う。
冬休みだけど、春のことは考えません。
冬だから、冬を楽しむことだけを考えています。
これは、きっとスー・オーガスティンの影響ね。
幸せを待ち望むほど、今が不幸なわけじゃないのに、いつもいつも将来を楽しみにしていました。
でも、今すぐ、幸せになる決心をしたら、あまり先のことを考えなっちゃった。
私は大人だから、それはとてもフィジカルにラクチンです。
子どもは、いつもいつも先のことを楽しみにしているけど、それってけっこうなエネルギーの支出なのね。
次はどこに行こう、何をしよう、どこを変えよう、どんなふうに変えよう、エトセトラ。
でも、今日はそうは考えなかった。
今、幸せになろう、今日を楽しもう、この手のひらにのせてもらった幸せに集中しようって。


あたたい冬の日~母と娘と友だちと

今朝もあついお風呂から1日をはじめました。
母からの私の子どもたちへのクリスマスプレゼントの隙間に、お風呂にいれる入浴剤とか、温かい肌着やタイツがつめこまれていて、母の私へ思いに心もからだもぽかぽかです。
温まったからだに温かい肌着と部屋着をつけて、カウチで猫のようにまるまるはなを抱いてブランケットにくるまり、ちびまるこちゃんをみました。
せっかく早起きをしたのに、今日は波が小さいのだそうです。
ビーチでは大きな波を感謝してきたけれど、今朝はカウチで小さい波を感謝しました。
さっき、ゆりかさんに電話をかけたら、「今『おはようスポルジョン』をみていたのよ、蟹、おいしくてよかったね」ってくすくす笑っていました。
親友がブロガーって、時々、たいへんそうだったけど、でも彼女はすっかり慣れたようです。
後ではなと彼女に会いにいくことになりました。
明日は、かりん&さなえちゃん親子とシーワールド、楽しい楽しい冬休みです。


蟹の命2

蟹さんのお命ちょうだいしました
 生き物を生きたまま調理するって、礼拝的行為だなと思った
おなべがあまりにも大きくて蟹が小さく見えるけど
にくのつまったおいしい蟹でした
誰が教えたわけでもないのに、だまってもくもくと上手に蟹を食べるはな


エゼキエルなクリスマス

わたしがあなたのそばを通りかかったとき、
あなたが自分の血の中でもがいているのを見て、
「生きよ。」と言い、血にそまっているあなたに、くり返して、「生きよ。」と言った。
エゼキエル書16:6
クリスマスにエゼキエルって、ウェディングドレスでハイキングっていうか、映画館で読書っていうか、ちょっとちぐはぐな感じがするけど、でもなぜかやめられず、もくもくと読み進みます。
暗く悲しい、エゼキエルなのに、「生きよ、生きよ」と励まされていたのは、それが神さまの悲しみにこめられた願いであるからだと思えました。
16章まできてやっと気持ちが落ち着いて聖書を閉じました。
どんな、クリスマスをおすごしですか?
私は、漠然と、本当にまだまだ漠然とだけど、父なる神と、キリスト・イエスと、そして聖霊のそれぞれの私への関わりの違いについて考えています。
それから学期の終わりから続いている祈りのトピック、自分の傲慢と赦しのチャレンジ。
そんなことを祈りのたびに考えながら、お風呂でゆっくりしたり、はなと一緒に塗り絵をしたり、テレビを見たり、蟹を食べたり。
そうそう、クリスマス・ディナーの水炊きなべは大成功、大盛況でした。
今から、その様子を記事にするね。
では、またあとで。
今日もよい日でありますように。


Wednesday, December 25, 2013

クリスマス・モーニング2013

まだみんなベッドの中、静かなクリスマス・モーニング
はな起床!
はじまりました! 一年に一度の夢にまでみた朝
 ママからはなへは聖書 記念すべき最初の一冊はなんとエナメルピンク
 おじいちゃんとおばあちゃんからはキラキラ光るかわいいおくつに手作りポシェット
バックパックに文房具、それから絵本も いっぱいいっぱい
 はなからママへの手作りカード
 でた ムンクの狂喜 サンタさんからはほしかったブーツ
うれし~!ママの新しいのとおそろいだよ!
(どき)
 まだまだあります あけてあけてあけまくる
歌う日本人の女の子は近所のお友だちから
 ふうろうコレクターのはなへおばあちゃんがみつけて送ってくれたかわいいふくろうS
 賢人も起きてきました
冬のサーフィンではくブーツとスェーター スケボーのクルマのところ
そして、賢人からも家族のひとりひとりにプレゼントがありました
神さま、すばらしいクリスマスの朝を、プレゼントを、子どもたちの笑顔をありがとう


クリスマスおめでとう

クリスマスおめでとう
いと高き所に、栄光が、神にあるように
地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように
 

Tuesday, December 24, 2013

蟹の命

どんなクリスマス・イブをおすごしでしょうか?
私は、朝からドタドタ、バタバタと所用を片付けまくり、夕方ようやくお買い物に走り、蟹、ゲットしました。いぇい!
生きた蟹さんをふたりを、かさかさごそごそさせながら、どきどきとおうちに戻り、無事、冷凍庫に入ってもらいましたが、この先、どうしたものやらっと思いつつも、イブ礼拝へ。
そして先ほど、キャンドル・ライトの中での厳粛かつ霊的ムードむんむんな礼拝から戻ってきたところで、いきなり、超現実問題に引き戻された私。
マーケットの水槽という生き地獄から、冷凍庫という南極遭難状態の蟹さん約2名はたぶん、もう逝ってしまったことでしょう・・・。
ここまで書いて、夫に事情を話しに行ってきました。
彼はさっそくてきぱきとスチームの準備を整え、冷凍庫から南極遭難状態の蟹さん約2名を取り出すと、なんて生きていた。
お名前つけて飼っちゃう?ってとっさに提案しそうになったほどに元気です。
一人ははさみをちょきちょきさせているし、もうひとりはなんとうちのキッチンのシンクで泳ごうとさえしている。
ああ、生きるって、食べるって、なんと大きな犠牲のうえの大事業なのでしょう・・・。
つづく

私の冬休み黄金計画

おはよう!
やった~、ふゆやすみ。
何しよう、まず今日は(も)、賢人のサーフィン&お買い物。
そうそう、週末、とっても素敵なおなべを買ったのです。
色も形も、頭の中でこういうの、って思っていたデザインそのものだったので、一瞬、お値段を見て、うって思ったけど、その思いは鼻息と共にもいちど一瞬で吹き飛ばしてさっさと買いました。
なんでもはいりそうな大きなおなべです。
今日はチャイニーズマーケットに、そこにいれる蟹&牡蠣を探しに行きます。
それからロースト・チキンの材料。
夜は、イブ礼拝。
明日は朝からお料理。
よりすぐりのクリスマス音楽を流してキッチンにこもります。
クリスマスの翌日は、本を探しに行きたい。
リトル・トーキョーのクリスチャン・ブックストアと紀伊国屋、日本語古本屋などなど。
そうそう、シーワールドにも行くんだわ!
そこまで終わったら読書です。
フリーザーにすぐに食べられるものをいろいろ凍らせて、パジャマでだらだら1日中、時々はなとディズー・チャンネル見ながらお茶を飲んだりしながら、できたら2日ぐらい連続で。
うっ、楽しみすぎて、どきどきします。

夕べ、記事の最後に全世界が私の味方と信じたいって書いたけど、でも、今朝起きて、そうに決まっているって思いました。
なぜだかわからないけど、神さまは、こんな私だけど、いつも守ってくれたから、だから、私がどんなであろうと、そうに違いないって思うのです。






Monday, December 23, 2013

幸せな迷子

今日で、今年の仕事は終わり。
明日から9日間の冬休みです。
今日は、仕事の後、前の幼稚園のコ・ワーカーのはなちゃんと久しぶりにスター・バックスで小一時間ほど、おしゃべりをしました。
今、はなちゃんのことを考えながら、はなちゃんと会いたい時に、会えるのは、とっても幸せなことだなっと思います。
はなちゃんは、いつも、いつも、本当にいつも私の味方で、私の側に立って私の話を聞いてくれる私の数少ないお友だちの一人です。
そんな人は、母をおいて、この世界にたぶん5本の指ほどしかいません。
でも、私のために祈ってくれている両親がいて、私を愛してくれる夫がいて、私を頼ってくれるふたりの子どもたちがいて、そして、私を必要としてくれている職場があって、そして、いつもいつも味方でいてくれる友だちが5人いれば、それは、大変な幸せ者なのかもしれないね。
今夜はとても、そんな気持ちにはなれないけどさ・・・。
追記:でも実は奇跡っぽい1日でもありました。
職場の忘年会で、行ったことのない南の街に行くのに、GPSが動かなかったのに、それに気づかず、車を出そうとしたその時、道案内をしてくれる人が現れ、無事に目的地に到着。
帰りは、なんとあまりにも低速でふらふらと道を探す私は不審者に間違われて、パトカーに止められてしまいました。
顔にフラッシュ・ライトを照らされて迷子?ときかれフリーウェイの入り口を丁寧に教えてもらえた・・・。
もしかしたら本当は全世界が私の味方かもしれない。
そう信じて今夜は眠ります。
おやすみなさい。
明日は、きっとよい日でありますように。

Sunday, December 22, 2013

神の瞳

とってもとっても衝撃的な日曜日の午後でした。
神さまが、神さまの御手が、ぐわっと私の人生に介入してくださろうと身を乗り出し、神さまの大きなお姿のゆえにあたり一面、彼の影で薄暗くなりました・・・。
どうなるのだろう。
でも、きっとだいじょうぶ。
いいえ、ぜったいにだいじょうぶ。
全てが、もう、かっちりと神さまのプランゆえに、人間の思い、人の個人の思いなどでは到底動かしがたく、御心のままに周りはじめている気します。

クリスマス・みえないおくりものが見えた日

新しい心と新しい霊を得よ。
イスラエルの家よ。
なぜ、あなたがたは死のうとするのか。
わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。
神である主の御告げ。
だから、悔い改めて、生きよ。
エゼキエル書18:31、32
わかっても、わからなくても、どんどんどんどん読み進め、エゼキエルです。
ネガティブな結果の連続の中で、でも「神を知れ、そして生きよ」のメッセージが暗号のように埋め込まれているように思えてなりません。
エルサレムの罪とその結果は壮絶なものがあります。
彼らが今日にいたるまで、どんな罪を犯そうとも、偶像にだけは、とことん敏感な理由はここにあるのかなって思いました。
私はあんまり苦しまずに、神を知りたいと思う。
とりきれない責任を負わされる前に、生きるということをさっと選ぶことのできる、単純な、でも純粋な信仰がほしいと思う。
イエス・キリストは、神さまなのに、人として生まれてこられました。
それは、神さまのまんまだと、愛しても、愛しても、どんなに愛してくださっても、私たちに本当の愛を見せることができなかったから。
神さまは人として人から生まれて、おなかがすいたり、寒かったりする人間として、十字架にかかることで、みえない愛というおくりものを見せてくれました。
それが私の信仰。
私がほしいのは毎日そのことを思い出せる心。
 
 


Saturday, December 21, 2013

Too Beautiful 2

小さな頃から自転車が大好きで、10代になって、免許が取れる年になったら、エンジンのついたバイクに乗って、足でくるくるこがずにどこにでも行けるようになったことがすっごくうれしかった。
Kawasaki のきりっと素敵な赤いバイクでした。
お部屋に日本列島の地図を貼り、走った道を赤いマーカーで塗りました。
全部赤くしようと思ったのに、方向音痴の私は西の半分ばかりがぐるぐると真っ赤になり、一番東の赤い町は鈴鹿市だっけ。
何度も転んで、一杯怪我をして、今でも左の膝は熱くても冷たくても打っても刺してもなんにも感じないけど、ただそれだけのことで、なんの支障もなく今日まで大切な思い出の膝小僧です。
はなもきっと、これから一杯いろんな経験をするのだろうなって思うとちょっとこわい。
母もさぞかしこわかったろうなって、今朝、生まれてはじめて思いました。

Too Beautiful

はなは自転車が大好きって昨日書いたでしょ。
それは、彼女が唯一私から受け継いだ私たちのたったひとつの共通点。
顔もちっとも似ていないし、髪の毛も彼女はソーメン、私は焼きそば。
テンポも性格も体質も体型も全く似なかった私とはなの共通点は、バイク好き、2輪上手。
私は、この頃よく思うのです。
乗せる人がいなかったら、バイクで通勤できるのにって。
そしたらたぶん片道40分ねなんて。
渋滞の中を2輪の人がひょろひょろとクルマをかわして進むのを見て、危ないな~ふらふらして、日本の2輪免許試験は坂道で小さな8の字を描かされたけどね、なんて羨ましいやっかみをこめて、心の中でつっこみむ私。
はなは、今朝、すっごく早起きして、カウチに寝転んで、うっとりクリスマスツリーの横においた、ブランニュー・バイクを眺めていました。
私がそんな彼女に「おはよう」と言ったときに彼女の言葉、「ママ、はな、バイクを見るのをストップできないの、だって、Too beautiful なんだもの。」
「そうね、とてもきれいね、それに肯定的使う形容詞にはtooじゃなくてmuch よ」だななんて言えないほど、彼女の気持ちがわかった。
だって紫色の自転車はツリーの横で本当にキラキラと美しく輝いていたのです。
Too Beautifulに。

本日の反省点

いくつかのお買い物と用事を済ませて約束の12時に迎えに行ったら、まだ、彼は海の中。
もお、忙しいのにって思いながらも、私もおりて、砂浜に座って、カメラを向けてみました。
少しは上手に撮れるようになったでしょうか?
今日の反省点は、サーファーが向う方向から待ちかまえるようにカメラをむけるということ。
正面から撮っていると、終わりの方は背中になっちゃうということに気づきました。
日々、いろんな新しいことを知る中年女であります。

クリスマスの準備

おはよう!
クリスマスの準備は整いましたか?
私は、やっとこれから始めるところです。
プレゼントのお買いもの、ラッピング、ディナーの材料の買出し。
今年は水炊きなべってことで決定です。
チャイニーズ・マーケットで蟹を買うことにしました。
朝、茹でて、昼間は冷蔵庫に入れておいて、夜ディナーのテーブルに出してなべでちょっとあっためてポン酢で食べます。
チキンは山菜おこわをおなかに詰めて、オーブンで焼いて、大人がゆっくり蟹を食べられるように、子どもたちの目くらませに、一応焼きます。
一応ね。
うちの子たちは海老が大好きだけど、なべに海老入れるとなにもかも海老風味になっちゃうので、今回は入れないことにしたのです。
だから何か、蟹から目をそらせるものが必要ってわけ。
そうそう、おなべも新調します。
20年使っている土鍋も、ふたが壊れ、賢人がたくさん食べるので、サイズもぜんぜん間に合わず、そのわりにしまうのに場所をとるので、厚手のホーローか、鉄製のダッチオーブンで、いろいろ他のお料理にも使えそうなのを、買うことにしました。
では、では、楽しい週末になりますように。
クルマの運転、くれぐれも気をつけてね。
この時期、他州からの来ているへたくそドライバーや、普段あんまり外に出てこないわがままドライバーが、ふしぎな運転行動をしている気がします。

Friday, December 20, 2013

神さまのプレゼント

はながアフター・スクールプログラムのクリスマス・パーティですごいクリスマス・プレゼントをゲットしてきちゃった。
それは、なんと自転車。
はなは、自転車がだいすき。
三輪車も、スクーターも、補助輪の自転車も経験せずに、3歳からくるくると普通の自転車に乗っています。
私も夫も乗り方を教えていないのに・・・・。
そんな彼女は、実は一度も自分の自転車を買ってもらったことがありません。
1台めは、ストリートに捨てていたのを私が犬おさんぽ中に拾ってきました。
2台めは、賢人のおさがりで彼の一台め。
そしてそれも小さくなってきたので、そろそろ新しいのが必要だったのに、全く気づかずにいました。
すごいわ、神さまのきめこまやかなはなへ配慮。
これをシビックの後部座席に斜めにつっこむのとっても苦労していて、はっと、気づいてお祈り。
自転車を感謝して、おくりものを辞退しなくていいように、どうかこのクルマに収めてくださいと。
そしたら、すっと入りました。
ピアノのレッスンに10分遅れちゃったけど、でも一生懸命に練習したクリスマス・キャロルを聴いてもらい、先生へのプレゼントも渡すことができました。
そして、もうひとつの写真は、愛の紙きり師の作ってくれたミニ・アルバム。
子と親の、それぞれのコメントのページにいくつかの楽しい矛盾があっておもしろい。
子は、「やさしくなってね」って私に言い、親は「やししくてありがとう」などなど。
これも神さまからのやさしいメーッセージと反省も込めて真摯に喜んで受けとめます。




Believe

おはよう。
夕べ、くぃ~と、いっきにビールを一缶飲んで、泣きながら書いた自分の文章を今朝読んで、「いんじゃん」って思った。
まあ、そんな日もある。
そんな時もある。
でも今日は新しい日。
傲慢という名の爆弾は私の中で大きくなり、小さくなり、なくなり、また生まれ、怒って、泣いて、眠って、また笑う。

昨日、ある父兄が作ってくれた素敵な手作りのミニアルバムを今朝、開いてみて、そして、「よっしゃ」と思う。
彼女は2年前にも学年の終わりにすごいアルバムを作ってくれた。
自称「紙博士・鋏おんな」。
私的には、愛の紙きり師、愛の鋏名人。
愛されてばかりはいられない!


Thursday, December 19, 2013

つかれちゃった

10時をすぎました。
いつもだったら、ベッドの中で本を読みながら必死に眠気をこらえている時間だけど、ちょっとだけでも書きたいなっと思って、ラップトップを開きました。
とってもエモーショナルな1日で、何度も泣きそうになりました。
怒って泣きそうになり、悲しくて泣きそうになり、うれしくて泣きそうになり・・・。
とっても気持ちの忙しい1日でした。
でも、一度も泣かずにすみました。
最後に、クリスチャンのコ・ワーカーが「私たちはシスターだから」と言ってくれて「ああ、もうだめ、今度こそホントに泣いちゃう」って思ったので、さっと立ち上がって「さよなら」って言いながら一度も振り向かずに帰ってきました。
私は、一度ちゃんと爆発した方がよいのかもしれないと思う。
無意味な痛み、理不尽な無視、抱えきれない容量の原因を自分の外に探すことは、果たして本当に反聖書的なのだろうかという疑問を、ついに声を出して聞いてみる時がきている気がしているのです。
あはは、そして、書きながら、悲しみの涙がぽろぽろこぼれてきました。
今日は、まじ、つかれちゃった・・・。

Wednesday, December 18, 2013

C.S.ルイスのグッド・ニュース

アスランは一同のほうに向き直って言いました。「学期は終わった。休暇が始まったのだ。夢は終わり、朝がきたのだよ。」
じつか彼らにとっては本当のお話は始まったばかりなのです。
ナルニア国での彼らのすべての冒険も、言ってみれば、本当の物語の表紙と扉にすぎなかったのです。
そしてまさにここから、大いなる物語の第一章が始まろうとしているのです。
その物語は地上の誰も読んだことがないものです。
それはいつまでも終わることなく、永遠に続くでしょう。
その物語は一章、二章と進むにつれて、ますますすばらしい、輝かしいものとなるでしょう。
ナルニア物語~さいごの戦いより C.S.ルイス
だから、私はどんなに厳しい、毒に満ちた文章を読まされてもC.S.ルイスがだいすき。
私は、この人生は幼稚園、プリ・スクールのようと思う。
間違えても、失敗しても、だいじょうぶ。
とにかく、一生懸命に取り組んでみること。
信じてみること、やってみること、愛してみること。
本当のはじまりは、きっとその向こうがわにあるのだから。
(これ、いっとくけどC.S.ルイスの文章じゃないよ。いいこというね~なんばまき、ってこれが傲慢ね。すんません・・・。)

C.S.ルイスのこわい話④

悪徳の中でも最もゆゆしい、この傲慢が私たちの信仰生活の中心にまで忍び込むことがあるのは、恐ろしい限りです。
しかし、その理由は理解できます。
他の、それほど悪質でない悪徳は、私たちの動物的な性質を通じて働くのですが、傲慢は、直接地獄からきます。
それは純粋に霊的な悪徳です。
したがってはるかに陰湿で、はなはだしく危険なのです。
同じ理由で、傲慢はしばしば単純な悪徳を抑えるのに利用されることがあります。
多くの人が臆病や情欲や短気を、自分の人間としての尊厳を傷つけると考えることで、つまり自尊心によって、克服してきました。
悪魔はそれを見てほくそ笑むでしょう。
悪魔はあなたがどんなに貞潔な、勇敢な、自制心に富んだ人間になろうとも、あなたのうちに自尊心という独裁者の支配を確立することさえできれば満足でしょう。
つまり、人間のうちに癌を植えつけることを許してもらえさえすれば、手足のしもやけが治っても、悪魔は意に介しません。
傲慢は、言うならば霊的な癌です。
それは愛や満足、いえ、良識の可能性さえ、蝕んでしまいます。
キリスト教の精髄Ⅲより C.S.ルイス
一番、避けたいことは、もちろん霊的な癌だけど・・・。
でも私の手足はしもやけも一杯ある気がする。
目の欲、新しいブーツがほしい。今度は紐のない、ざくっとはける温かそうなのが。
舌の欲、感謝祭でのターキーがついこの間までフリーザーにあってあきあきだから、クリスマスはチキンじゃなくて、蟹が食べたい。なべにいれてポン酢で、牡蠣もいっしょに。やまほど。
体の欲、久しぶりに溶けるほどに眠り続けたい。願わくはひとりで、実家の2階の自分の部屋で。
と肉の欲も尽きないのに、霊的な癌も抱えるキケンであわれな私・・・。
かみさま、たすけて。

Tuesday, December 17, 2013

C.S.ルイスのこわい話③

幸いなことに、私たちには自分のうちの傲慢の危険性をテストする方法があります。
信仰生活を続けているうちに自分をよい人間であるかのように思いこみ、とりわけ他の誰かに比べてずっとよい人間であるかのように感じるようになったとしたら、それは神でなく、悪魔が私たちに働きかけているということでしょう。
自分のまえに神が臨在しているという確かな証拠は、自分のことをまったく忘れてしまうか、自分をごくちっぽけな、汚らわしいものであると感ずるかどうかです。
二つの姿勢のうち、自分をまったく忘れてしまう方がいいと思います。
キリスト教の精髄Ⅲより C.S.ルイス
礼拝的行為、例えば、朝のひとりの時間や、深い祈りのとき、教会の礼拝のなかで、私は自分をちっぽけで汚れた者と思います。
でも、みこころ行なおうと必死になっている時、私はまったく自分を、そして周囲の人々の心をも忘れてしまっています。
それは、幼稚園での時間。
大切にしたいと覚えていることはただただ目の前にいる子どものことだけ。
これはいったいどうしたものだろうと、立ち止まって考えてみます。
それは、たぶん、全く暴走しているか、全くみむねの内かのどちらか。
そして、きっと暴走なのだと気づいてしまった。
私が見えていないもの、いえ、見ていないものは、そんな私を荒れ馬のように避けることが、何よりの証拠。
そして家での私は、全くわがままな支配者。
私とは、なんと、のっぴきならない、あやうい存在なのでしょう・・・。

C.S.ルイスのこわい話②

『傲慢な人間は、つねにものを、人を見下します。
いうまでもないことですが、何かを下目に見るという姿勢を取るかぎり、自分の上にあるものに気づくことはないでしょう。
というわけで、一つの恐ろしい疑問が起こるのです。
誰が見ても傲慢な人々が、神を信じているとい自称し、自分でも信心ぶかいと思いこんでいることがあります。
これはどういうことでしょう?
それは、彼らが自分の頭でこしらえあげた神を拝んでいるということでしょうか。
彼らは建前としては、自分かこの(想像上の)神の前では虫けらにひとしいとい言いますが、そう言いながらもじつは、神が自分を嘉し、人にはるかにすぐれた者であることを認めておられると考えているのです。
つまり、彼らは形ばかりの、しかも自分だけが思い描いているにすぎぬ、いささか謙遜な思いを神にささげ、その一方、そのように謙遜な自分を他人に比較して、ずしりと重い自負心をそこから引き出しているのです。
キリストが「私について説教し、私の名において悪鬼を追い出した者を、私が世の終わりに〈私はあなたを知らない〉と言うことがあるだろう」と言われたのは、まさにこういう人人のことでしょう。
誰でも、いつなんどき、こうした危険な落とし穴に陥らないとも限らないのです。
C.S.ルイス キリスト教の精髄Ⅲより
人にとって、クリスチャンにとって、これ以上におそろしい事実を私は他に知りません。
世界の終わりにあってキリストに「私はあなたを知らない」と言われるぐらいなら、無礼も無視も干渉も恩着せも威張られることも、全部どうぞ、言った方が得と思う。
このことを忘れないためには、一体どうすればよいのだろう。
〝誰でも、いつなんどき〟とC.S.ルイスは言います。
私にはわかりません。
とにかく自覚のある傲慢な思いや考えや態度や言葉を、そうと気づいた端から、せっせ、せっせと悔い改めるほかなさそうです。
犯すスピードに悔い改めるスピードが追いつくようにと祈りながら。
天国に行くって、実は、けっこうたいへんだ・・・。

Monday, December 16, 2013

C.S.ルイスのこわい話

『本質的、究極的な悪徳は傲慢です。
不貞、怒り、貪欲、、飲酒その他にしても、傲慢に比べれば蚊が刺した程度の害しかおよぼしません。
悪魔が悪魔となってのも、傲慢を通じてでした。
傲慢はまた他のもろもろの悪徳に導きます。
それは完全に神に逆らう心の状態です。
自分がどれくらい傲慢かを知る最も簡単な方法は、こう自問してみることです。
「他の人が私に無礼な素振りをしたり、私の存在を無視したり、私のことを干渉したり、恩着せがましい態度を取ったとき、これみよがしに威張るとき、私はどの程度嫌悪を覚えるか?」
つまり、個々人の傲慢は、つねに他人のそれとせりあっているのです。
似た者同士だからこそ、気が合わないというわけです。
ここではっきり頭に入れておいてほしいのは、傲慢が本質的に競合的だということ、それも本質的にそうなのだということです。
傲慢の本質は他人との比較です。
他に抜きんでるということです。
傲慢が他の悪徳と違って本質的に競合的だと言ったのは、そういう意味です。』
C.S.ルイス キリスト教の精髄Ⅲより
私は無礼にされることや、無視されることや、干渉されることや、恩に着せられることや、それから威張られるのも、大きらい。
だからこの文章をはじめて読んだ時、本当にこわかった。
それはそれは、震え上がるほどに。
読むたびにこわい。
とっても。
今も本を開いて書き写していて、とってもこわかった。