Sunday, December 22, 2013

クリスマス・みえないおくりものが見えた日

新しい心と新しい霊を得よ。
イスラエルの家よ。
なぜ、あなたがたは死のうとするのか。
わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。
神である主の御告げ。
だから、悔い改めて、生きよ。
エゼキエル書18:31、32
わかっても、わからなくても、どんどんどんどん読み進め、エゼキエルです。
ネガティブな結果の連続の中で、でも「神を知れ、そして生きよ」のメッセージが暗号のように埋め込まれているように思えてなりません。
エルサレムの罪とその結果は壮絶なものがあります。
彼らが今日にいたるまで、どんな罪を犯そうとも、偶像にだけは、とことん敏感な理由はここにあるのかなって思いました。
私はあんまり苦しまずに、神を知りたいと思う。
とりきれない責任を負わされる前に、生きるということをさっと選ぶことのできる、単純な、でも純粋な信仰がほしいと思う。
イエス・キリストは、神さまなのに、人として生まれてこられました。
それは、神さまのまんまだと、愛しても、愛しても、どんなに愛してくださっても、私たちに本当の愛を見せることができなかったから。
神さまは人として人から生まれて、おなかがすいたり、寒かったりする人間として、十字架にかかることで、みえない愛というおくりものを見せてくれました。
それが私の信仰。
私がほしいのは毎日そのことを思い出せる心。