Tuesday, December 17, 2013

C.S.ルイスのこわい話③

幸いなことに、私たちには自分のうちの傲慢の危険性をテストする方法があります。
信仰生活を続けているうちに自分をよい人間であるかのように思いこみ、とりわけ他の誰かに比べてずっとよい人間であるかのように感じるようになったとしたら、それは神でなく、悪魔が私たちに働きかけているということでしょう。
自分のまえに神が臨在しているという確かな証拠は、自分のことをまったく忘れてしまうか、自分をごくちっぽけな、汚らわしいものであると感ずるかどうかです。
二つの姿勢のうち、自分をまったく忘れてしまう方がいいと思います。
キリスト教の精髄Ⅲより C.S.ルイス
礼拝的行為、例えば、朝のひとりの時間や、深い祈りのとき、教会の礼拝のなかで、私は自分をちっぽけで汚れた者と思います。
でも、みこころ行なおうと必死になっている時、私はまったく自分を、そして周囲の人々の心をも忘れてしまっています。
それは、幼稚園での時間。
大切にしたいと覚えていることはただただ目の前にいる子どものことだけ。
これはいったいどうしたものだろうと、立ち止まって考えてみます。
それは、たぶん、全く暴走しているか、全くみむねの内かのどちらか。
そして、きっと暴走なのだと気づいてしまった。
私が見えていないもの、いえ、見ていないものは、そんな私を荒れ馬のように避けることが、何よりの証拠。
そして家での私は、全くわがままな支配者。
私とは、なんと、のっぴきならない、あやうい存在なのでしょう・・・。