Monday, December 30, 2013

読書します②

わたしがきよい水をあなたの上に振りかけるそのとき、
あなたがたはすべての汚れからきよめられる。
わたしはすべての偶像の汚れからあなたをきよめ、
あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。
エゼキエル36:25,26
今朝無事にエゼキエルを読み終えました。
クリスマスの季節だったから、あっちこっちで子どもたちを喜ばせてくれた愛すべきサンタクロースさんたちをはじめ、この世界に入り込んで大きな市民権を得てしまった数々の偶像についてあらためて考えつつ、読み進めました。
富、名声、権力、セックス、そして世間さま。
でも、エレミア、哀歌、そしてエゼキエルと読んで、今一番心に深く思うことは、父なる神と、御子イエス・キリストと、聖霊という三位一体の神の存在。
うまく表現する自信はないけどがんばって書いてみると、私は父なる神と、御子イエス・キリストと、聖霊によって、みっつの方向からみっつの方法で、ひとつの愛をもらって生きてこれたのだなっと思うのです。
今までは造られたことと、救われたことと、導かれていることが、ごちゃら~とひとつもまるいボールのようになっていました。
私は今の幼稚園にくる前、3年ほどキリスト教の幼稚園で働きました。
そして昨年の夏は日本の長野にまで行ってバイブル・キャンプで聖書を教えるという仕事をしてみました。
そして、その両方の仕事を振り返って時々思っていたことは、「この複雑かつ込み入った歴史と系図とふたつ存在する契約を幼い子たちに『だからキリストはあなたを愛している』という結論へと毎回導くのは、すごく難しいことだな」って。
でも、今は「そっか、そうだったんだ」って思える。
それはひらたく言うとこういうこと。
私たちは造られた~主イエス・キリストに愛されるために。
私たちは贖われた~主イエス・キリストが私たちを愛したから。
私たちは導かれている~愛する主イエス・キリストに会いにゆくために。
私の中には日の目をみたことのない、小さい子どもむけのオリジナルの年間、月間の教会学校用のレッスンプランがあります。
これをぜんぶ破棄してはじめから組み立て直さなければって今思う。
今ならこれを3年分ぐらい作れそうな気がするのです。
もしかしたら一生日の目はみないかもしれないけど、でもちゃんと作らなくちゃって思うのです。