Wednesday, August 28, 2013

原始人の痛みと癒し②

月曜日と火曜日の間の夜の前半、私はかつてない凄まじい痛みの中で「痛みは引き受けるとして、この痛みの中での判断力は、主よどうかあなたが私に与えてください」っと祈りました。
でも後半、たぶん2時ぐらいから明け方、わけがわからないほど痛くなって、「一応、痛みは引き受けてみたけど、もしかして担いきれないかもしれません。間違えて死んでしまったらごめんなさい。でも、もし、この痛みから解放されるなら何でもします。」とそう祈りました。
そして、ある一つの私の中の苦い思い、見当違いな被害者意識を示され、ああそれを解決しよう、と思い、翌日、痛みの波の合間の休息に神さまとの約束を実行すべく、電話をかけて、ある壊れそうだった関係を修復しました。
神は私を赦し、私は彼女を赦し、彼女も私を赦してくれた。
彼女はずっと私を赦し続けてくれていた。
忘れられないのは、彼女の言葉。
『この電話は、是非とも、必要だった。なければ、なにげなく、続けていた大人のふりの関係も、きっとどこかで嘘がばれていた。』
彼女はとことん主に愛されている人と思った。
そして、私は、こんな痛みがないと気づかない鈍い、頭の悪い、不信仰者と、主に扱われたっとは思わない。
私もまた、神に、別な、愛され方をしていると思う。
たぶん。
いえ、きっと。


Tuesday, August 27, 2013

原始人の痛みと癒し

日曜日の夕方ぐらいから、どういうわけだか左の胸の下あたりがじい~んと痛くて、月曜日は幼稚園で、絵本を顔の横に開くだけで、左腕がぶるぶると震えるほどに痛かった。
月曜日の夜は、痛くて痛くて寝返りもできず、息をするのも痛くて、眠ることもできず、神さまに助けてって祈りながら朝を迎えた。
夫がいろいろと心配をしてくれたけど、触られると死んじゃいそうなほど痛かったので、ただ、放っておいて言って、ひとりで苦しんだ。
火曜日、ついに立ち上がれず、欠勤。
サッカーが趣味のコ・ワーカーとサーフィンが趣味のコ・ワーカーの二人の骨折経験の症状とまったく同じだったから、場所的にあばら骨の骨折だと思って、がが~んと落ち込んで、でもがんばってトーレンスのクリニックにアポイントメントを作って、自力でクルマに乗って行ってきました。
そしたら、単なる筋肉の痙攣と硬直と言われ、ぐりぐりほぐされ、レントゲンはおろか、薬ももらわず、帰ってきた。
左の胸の下とその真後ろの背中を一つの手、えっとつまりたぶん親指と中指でぐっと掴まれた瞬間、あまりの痛さにああ死ぬかもって思ったけど、意外と生きていて、そして、腕が少し動くようになった。
それをぐいぐいと続けてやられて、でもやっぱりもう死ぬかもって思ったけど、それでも私は生きていて腕が上がるのようになったのです。
その後、背中というか、わき腹っていうか、胸の下というかそのあたりを、ごりごりとほぐされ、息もつけないほどの痛みから、すっと解放されました。
ああ、本当によかった。
そして私はこの痛みの中でひとつの悔い改めに導かれ、痛みの波の合間をぬって素早く電話もかけ、そしてひとつの人間関係を完全に修復するいたりました。(っていうかあまりの痛みになんでもするから助けて神さまって祈って、思い浮かんだのが、それだった)
痛いと、それがどこのどんな痛みであれ、まず、そこ、(未解決の罪)を考えてみる原始人の私は、神さまの作戦にまんまとひっかり、癒されたのであります。ハレルヤ!



Sunday, August 25, 2013

愛する父と母へ

どんな週末をおすごですか?
私は、とりわけ、何をしたというわけでもないのに、すごい達成感のような、充実感のような、そんな気持ちに包まれています。
さっき父と母とスカイプでおしゃべりをしました。
チャペルノア教会の広田牧師が私とメグちゃんの写真とアメリカ旅行のお土産話をたずさえて訪ねてこられ、そして祈ってくださったそうです。
父も母もとてもうれしそうだった。
私は、彼らにただの一度も自分の口で福音を伝えたことがありません。
数冊の聖書を贈り、祈り、そして、日々の出来事をここに書いてきました。
毎日、書きました。
良い日も、悪い日も、何もない日さえ書きました。
主が共におられない日はなかったから。
いいことを書き、悪いことも書き、そして、それに神がどう対処されたかを書きました。
主が関心を持たれないことは何ひとつなかったから。
『おはようスポルジョン』を読んで、もし誰かが神の愛にふれられ、その魂が神のものになるなら、まず、父と母に、彼らの上にそれをなしてくださいと、今日祈ります。
主の大きさや広さや深さや、その無限のイメージは、私がどんなにがんばっても文章にならないけど、でも、小さな私の小さな1日の小さな出来事の上にくださる神の助けや、憐みや、恵みは書けると思って、毎日書いてきました。
主語はいつも『私』そして目的格はいつも『神』。
それ以外のことは何一つ書いたことがなかったけど、でもいろんなことを言われた。
それ以外のことについて書くほどの余裕なんてどこにもないのに、「私について書いた」とも言われた。
それでも、書き続けた。
主が書けと私を励ましたから、だから書いてきた。
あきらめなくて良かった。
本当に良かった。
『おはようスポルジョン』がもし本だったら、最初ページにはこう書きたい。
「お父さん、お母さん、このブログを愛するお二人に捧げます。」


神のしごと、私のしごと

結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。
神を恐れよ。神の命令を守れ。
これが人間にとってすべてである。
神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、
すべてのわざをさばかれるからだ。
伝道者の書12:13、14
アーメン。
そう、私が心を配らなくてはいけないことは、目の前にたくさんある。
私には、私の仕事がある。
愛する同労者の新しい仕事のじゃまをしている場合じゃなかった。
夢を見ながら怒っている場合でもなかった。
私には、私の、主が定めてくださった道がある。
アーメン。
 
 
 
 

Saturday, August 24, 2013

夢をみた、夢から覚めた、そして考えた

冷蔵庫を買ったり、Petcoにアダプターを探している犬を見に行ったりして、慣れないことをいろいろして、疲れてカウチにどさっと横になって、TVジャパンをつけた。
すっかりアンチ・NHK(その理由を知りたい人はここクリックね)な私はテレビを見るのがとてもひさしぶり。
へえ~、おもしろそうな番組をやっていると思って、眺めながらいつの間にか眠ってしまった。
眠る前は、湖の魚の産卵やその成長のことをやっていたのに、いつの間にかDNAの配列の話をしていて、そして、起きたら、幼稚園の園庭作りのドキュメンタリーをやっていた。
そして、そのDNAの話の間に眠って夢をみた。
日本の実家の居間で昼寝をしている夢だった。
季節は夏、母がキッチンで苦瓜を炒めていた。
私は、夢の中で寝ながら「今は眠いから寝ちゃうけど、DNAで人の将来が読めるとか、大脳生理学で人の気持ちが分析できるとかって、神のお造りになった命ってそんな単純じゃないからね」ってNHKに喧嘩を売っていた。
母に、「科学を追求すればするほど、人は神を知るの。敬虔な科学者たちはみんな創造主の存在を認めているんだから。だから神の存在を否定するような中途半端な仮説に惑わされないでね」って起きたら言わなくちゃって夢の中で思っていた。
起きていても、夢をみていても、なんだかいつも一生懸命な私。
はなが、大きな声で「ママー!」って言いながらお庭の水遊びから帰ってきて、目が覚めてなんの脈略もなく思った。
ああ、がんばろう。
夢をみる隙もないほどに現実をしっかり生きよう。
難しいことをあれこれ考える隙もないほどに、生身の子どもたちに仕えよう。

新しい冷蔵庫

やった~!
とうとう買っちゃた!
冷蔵庫!
欲しかったの、冷蔵庫!
ついに冷えにくくなって、もう、限界っと思って、ささっと買ってきちゃった。
だって、あったんんだもの、私が欲しかった理想の冷蔵庫くんが。
Best Buyの一番奥の一番はじっこに。
ああ、写真をとってくればよかったね。
そしたらここにたら~んと写真を載せられたのに。
それは、どこの家でも見たことのない、私の理想の冷蔵庫。
奥行きは今の3分の2、幅もたぶん今の3分の2、高さはちょこっと低め。
そう、ちっちゃいのだ!
そこがポイントだった。
光沢のないつるっとした表面でなんだか昭和っぽい野暮ったさがうちの小さなキッチンにぴったり!
ああ、待てない。
共働きの家なのでデリバリは来週の週末です!
うっ、うれしすぎる。
泣いちゃいそう・・・。

7年目のチャレンジ②

今朝、目が覚めた瞬間、なんだか気分が重くて、何かがきっと間違っているっていう感じが部屋の空気に充満していて、ベッドの中で、少しの間、そのことについて考えました。
たぶん、それはこういうこと。
死からみた命のような月からみた地球
とても近いところでお互いに影響を与え合うことのできるクリスチャンの友だちがいます。
私は彼女の中の聖霊さまに、ある特別な畏れの気持ちがあって、自分の中の感情や考えはさておき、彼女はどう考えるだろうと思うところがあります。
それには理由があります。
彼女には言葉の賜物があって、地上の3カ国の言葉プラス、天国の言葉さえも話し、そしてその地上の言葉でミニストリーをしながら、異言で祈ることを、私に見せてくれました。
確かに彼女は、とても鋭くてとても核心の真ん中なことを時々私に教えてくれるのです。
でも、職場での彼女はまるで別人のように、ひかえめです。
あまりにもこの世界に従順に自分を抑えているように見えてしまうのです。
その彼女の聖霊さまに向けて私は、本当にこれでいいのですか?と思うのです。
それさえわかれば、私も自由に聖霊の風をとらえて新しい学年を飛び立ちたいと思うのです。


Friday, August 23, 2013

7年目のチャレンジ

おつかれさま。どんな1週間でしたか?
私は、私を鍛えてくださる神さまのレッスン・プランに思いをはせておりました。
それは、仕事への行き帰りの通勤に使うクルマの問題でもなく、通勤にかかる時間の問題でもなく、私の運転技術、および、クルマの管理能力にでもなく、ただただ、仕事そのものの中にあるようです。
クルマとその周辺にどんな雑で甘く、アホな判断があったとして、神さまは私を守ってくださった。
そこを通して私を鍛えな直そうというレッスンは、今回ないらしい・・・。
それはもっぱら、家の外の仕事に集中している。
次々にいろいろふってくる。
私は今年11年生の母親です。
11年生の母親といっても、アメリカで教育を受けたわけではないので、11年生がどれほど大切で、大変な年なのか実感としてわかりません。
だからこそ、こんなにたくさんの仕事を引き受けられるのだろうけど、それでも、漠然と、ああ、神さまは、賢人から手を引けとおっしゃっているのだということぐらいはわかります。
賢人の側で彼の将来にごちゃごちゃ言えない最後の状況が今日、ばっちり整いました。(コントラクトを読んだわけではないし、サインもまだだし、なにかしらのどんでん返しの可能性はあるけどね)
いつも、そう。
賢人の事で、必死になろうとすると、きまって、やるべきことが、目の前にどか~んと、あるいは限なくぽろぽろ降ってくる。
2歳で仕事に復帰した。
一言も話さなかった賢人が話しはじめた。最初の言葉は、あた:さかな。
9歳ではながきた。
賢人はある難しかった人間関係を克服してイエス・キリストを自分の主と告白し、証を書いて、洗礼を受けた。
賢人は今16歳。
何が待っているかわからないけどゆだねよう。神の御手にゆだねよう。
っていうか、他に選択肢ないし。
でも、心の奥のどこかで、別な何か、賢人に干渉しつつ、適当にできる何かがふってこないかとまだ空を見上げているのよね。
不信仰な自分が悲しいわ・・・。

子どもの国

あっというまに金曜日です。
瞬きをするごとに状況は変り、息をするごとに、その状況への反応や、気持ちの変化に対処することを求められている毎日です。(これタイヤのはなしね)
この世界はきっと、私が生まれたその日からずっとそうなのだろうけど、この年になってようやくそんな世界の流れに気づいた私。(これ一般的大人社会ね)
だから天然なんて言われちゃうのよね。きっと。
でも、そんな中にあって、幼稚園と言う空間は、世界で起きてる出来事や、それぞれのお家の中での出来事や問題、大人の事情から守られた・・・・そう地上の天国。
つくりものや、みせかけじゃない、本物の子どもの国。
だから、私は毎朝、早起きして、お弁当を作って、わくわくとでかけることができるのです。

Wednesday, August 21, 2013

うっ、すんません、私こそがそのアホです

今にも破れそうなタイヤを着けたクルマを運転したことはありますか?
私は、3日間運転しました。
月曜日、クルマが妙に上下に揺れます。
どこどこどこどこどこ。
「今日はやけに、揺れるわね~、ギヤのシフトのチェンジが早すぎる?それとも遅すぎる?どうでもいいけど、腰にひびくんですけど・・・・。」アクセルをぐい~んと踏み込みます。
火曜日、それに変なノイズが加わりました。
からからからからから。
「せっかく、今、いいところなのに、聞こえなかったでしょ、まったく・・・。」ステレオのボリュームをぐい~んとあげます。
水曜日、いよいよ変、運転席の真後ろあたりで、ゆっくり回転する扇風機に鉛筆を差し込んだみたいな音と共に、車体が上下に激しく揺れまくります。
ガタガタガタガタガタ。
「これって、すごい問題かも・・・。」ってステレオを消して、やっと初めてそのことを祈りました。(気づくの遅いっちゅ~の)
祈りはきかれ、無事に幼稚園に着きました。
去年エンジンを取り替えたばかりだし、春にオーバーホールしてもらったし、なんで?って思いながらAAAに電話をしたら、職場から、トーレンスのいつもお世話になっている修理屋さんまで牽引に260ドルかかるって言われて、仕方ない、がんばって、自力で帰ろうって思って、ひょっとタイヤをみたら・・・・。
があああああああ~ん。
裂けてるし。
即行スペアタイヤに代えて(コ・ワーカーが大切な自分の休憩時間をそっくり私にくれて、やってくれました)幼稚園の隣のモールのタイヤ屋さんに持って行きました。
フリーウェイで普通に見かけるタイヤの破片、あの屑を見るたびに、時速70マイルでタイヤが破裂するとどんな大惨事になってしまうのだろう、ああ、神さま、そんなアホなクルマのアホな事故に巻き込まれることから、このクルマと私を守ってくださいって祈っていたのです。
ずっとずっと、この3年ほど。
黒いタイヤ屑を見かけるたびごとに。
私?当事者?もしかして?まじで?
うっ、すんませんです、みなさま。
すんませんです、神さま。

 

Monday, August 19, 2013

Exclamationな幼稚園の1日

これなあ~んだ!
ヨーヨー!
 これなあ~んだ!
 スーパーボール!
すくって!つって!食べて!(あ、これカキ氷ね、手作りヘルシーシロップの)
幼稚園の楽しい夏の1日!
 


いってきます!

私に御顔を向け、私をあわれんでください。
私はただひとりで、悩んでいます。
私の心の苦しみが大きくなりました。
どうか、苦悩のうちから私を引き出してください。
私の、悩みと労苦を見て、
私のすべての罪を赦してください。
私のたましいを守り、私を救い出してください。
私が恥をみないようにしてください。
私はあなたに身を避けています。
誠実と正しさが私を保ちますように。
神よ、イスラエル(私)を、
そのすべての苦しみから贖い出してくだささい。
詩篇25:16~18、20~22
アーメン
この祈りを祈る前と祈った後では、別人のように、今はとても平和で幸せな気持ちです。
同じ朝なのにね。とても不思議。
さあ、新しい朝。
新しい1日。
新しい一週間、
新しい学年の始まりです。
神さまが用意してくださっている小道を、神さまに従って、また、てくてくと歩きはじめます。
ではでは、主の大路で会いましょう。


Sunday, August 18, 2013

イザヤ一章・補足

今朝、『イザヤ一章』そして、さっき『イザヤ一章②』を書きあげて、今の正直な気持ちをなかなか上手に書けたかもって、ホクホクしていたら、父がスカイプで呼んでくれたので、ちょこっとおしゃべりました。
聖書の世界を私の視点でしか、知らない父と母に、この二つのお手紙はあまりにも、過激だったかしらっとちょっと心配になったので、補足です。
遊女や人殺しや盗人の仲間という言葉をこの世界で使われている言葉の意味として、とらえないでね。
聖書では、気のすすまない取引をすることで相手のご機嫌をとることも、心の中で人を呪うことも、また恵みを独り占めすることも全て、それらとなんら変りのない同じ罪人と教えているのです。
暑い、暑いと言うわりに父も母もとっても元気そうでした。
父は、コンピューターを使って、日々あれこれ新しいことに挑戦しているようですし、母は、地域の盆踊り大会に参加して、一仕事終えたような充実感の中にいるようでした。
犬のりくは相変わらず、はあ、はあと散歩のたびに、リードをひっぱりまくるそうです。
りくちゃん・・・、あんたってば。

イザヤ一章②

あなたがたは、わたしに会いに出て来るが、
だれが、わたしの庭を踏みつけよ、と
あなたがたに求めたか。
イザヤ1:12
超早朝のたったひとりの礼拝、デボーションの中で、神さまは私に、私たったひとりにむけて、こう語られました。
神さまは、私の祈りも、私のささげものも、実は、全くうれしくないのだと。
神さまは、私の手は血にまみれていると、そう示してくださいました。
でもなぜか、そうつきつけられても「こんなつらいことは他にない」と、そう思って落ち込んだりもしなかった。
ただ、静かに、「赦してください神さま。洗います。きよめます。悔い改めます。だからどうか赦してください」って率直にそう思いました。
礼拝とは、真心の礼拝とは、一体何だろうと考えています。
私は自分が、マナに感謝することを忘れて、「肉が食べたい」と言い始めた、イスラエルの人々のようだったと思いました。
命の淵で、日々、命を求めての祈りを奉げ、その命の恵みに感謝を奉げていた日々をすっかりと忘れて、偉そうに何かを選ぼうとさえしていたことを、神さまに教えられたのです。
それでも、毎日マナをふらせ続けてくださった神さま、明日から、また、あなたの恵みである、仕事に戻ります。
どうか、私に感謝の心を与えてください。
穏やかでやさしさに満ちた家族との毎日に、私の賜物を用いていただくことにできる日々の仕事に、そして小さな愛の共同体である毎週の教会での礼拝を感謝し続ける心を、どうぞ神さま、私にお与えください。アーメン
 

イザヤ一章

洗え。身をきよめよ。
わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。
イザヤ1:16
☆今朝は、イザヤの一章を読んで、そして私のこの小さな家のために祈りました。
天と地をお造りになられた全ての神に、全ての支配者に、この小さな家もまた支配してくださいと祈りました。
この家が神の光と命で満ちあふれる様子を思い描きながら祈りました。
この家に不和や、不安や、怒りや、疑いや、心配や、嫌悪などが、入るすき間が全くないように、神の愛で満たしていただけるようにと祈りました。
それから、ダビデをまねして、小さな小さな声で「私は正しい心で、自分の家の中を歩みます。私の目の前に卑しいことを置きません。」と言ってみました。
☆イザヤの一章を初めて読んだような気がします。
気がするだけじゃなくて、本当に初めてかもしれません。
イザヤ一章の全体が、今日はじめて一つの章として、まとまって心の真ん中に届きました。
びっくりして何度も読んでみました。
するとそれは、私の中に同時に存在する、悪と偽善と高慢と神の愛についての、警告であることに気づきました。
私は、私の、時々遊女で、時々人殺しで、時々反逆者で、時々盗人の仲間で、そして時々、クリスチャンである、分裂症状がどれほど、神と自分を悲しませていたのかについて、はじめて考えてみています。



Saturday, August 17, 2013

胃袋男

 
楽しかった夏休みももうおしまい。        今日は、家族みんながおうちにいたので、なんだか、ちょっと特別にすごしたくなって、お庭でご飯を食べました。
焼肉!
「あちち、うはは、あわわ、うま。」と、ほとんど全ての高価な本日の目玉的お肉を平らげた賢人。
さすが賢人。やる時はやる。
年寄り(!?)、女、子どもは、「賢人すごいね~」とただただ彼の食べっぷりを褒め称えつつ、彼が食べなかった、チキンと、キャベツと、ナスと、ピーマンと、とうもろこしと、きぬさやと、おにぎりを仲良く分け合いました。
後ではなとこっそり、
「賢人って胃袋だったんだね。胃袋が歩いたり、しゃべったり、スケボーしたり、ピアノ弾いたりしてたんだね。そのわりにピアノ上手だよね。」
と陰口をたたいて、ちょっと恨みを晴らした。
ほら、食べ物の恨みは恐ろしいって言うでしょ。
それを予防したのよ。
親子で、ひそひそ。
ハレルヤ!
 

雲の向こう

焼けた地は沢となり、
潤いのない地は水のわく所となり、
ジャッカルの伏したねぐらは、
葦やハスピスの茂みとなる。
そこに大路があり、
その道は聖なる道と呼ばれる。
イザヤ35:7,8
今朝はその主の大路を、愛する家族のみんなで安心して歩めるようにと、祈りました。
祈りながら、あるひとつの思いを与えられました。
身を避けるべきことから離れることと、愛することは矛盾しないかもと思い至ったのです。
過去の出来事にこだわりをもたないという、ただそれだけでも、いいんじゃないかなって。
自分を与えようとして上手にできず、傷つくことをくり返したら、もう、それはあきらめてもいいのかもしれないなって。
イザヤの35章の最後はこう結ばれています。
「主に贖われた者たちは帰ってくる。
彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただく。
楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きは逃げ去る。」
私たちの道は必ずその大路につながっているから。
きっとまた逢えるから。


Friday, August 16, 2013

祈りの友

昨年の夏のミッション・トリップで知り合いにあって、以来、祈り合う関係を続けてきたトレーシーとランチのデート。
夏休み最後の日にふさわしい、とてもとても素敵な1日でした。
イースターのお休み以来なの5ヶ月ぶり。
そして、それは本当に限界でした。
お互いに。
会うなり、涙が出そうになって、私たちは、お互いにとって相手がどんな存在なのか、今日あらためて知りました。
私は、自分のこと、超個人的な霊的な生活について話しました。
教会で何の奉仕もできずにいることも含めて。
それから、賢人とはなが、しっかりと教会に植えられ、神の家族の一員として安心して成長してゆけるよう祈ってほしいとお願いしました。
私のひどい英語は、彼女の前に、一度も聞き返されることなく、彼女の涙をたたえた目の中にぐんぐん吸い込まれていきました。



夏の終わりの祈り

あなたがたが神のみこころを行なって、
約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。
へブル10:36
 
主よ、どうぞ私の全ての歩みをお導きください。
私の前にあなたの道をまっすぐにしてください。
私が日々、あなたに近づき、あなたと親密な関係のうちに歩んでいくにつれ、どうかあなたが私の行くべき場所へ連れて行ってくださいますように。
主よ、私の心をあなたの心とひとつにしてください。
どうか私が、あなたの、「これが道だ、これに歩め」という御声を聞くことができますように。
私は、私が自分の道を定めるようには造られていません。
あなただけが、私の行くべき道をご存じです。
あなたが私のために用意してくださっているあらゆる恵みの中で生き、あなたからそうなるように造られた完全な私になることができますように。
アーメン

Thursday, August 15, 2013

夏の終わりに

毎日、毎日、一生懸命に全力で遊んだ夏休みも明日でおしまい。
明日は最終日にふさわしく、愛するトレシーとダウンタウンのイタリアン・レストランでのんびりと大人ランチ!
週末は子どもたちとゆっくりとすごして、いよいよ本格的に始まる、新しい学年に備えます。
この夏休みは、こまごまとした予定をぎっちりと詰め込んだお休みだったけど、そうしたのには、あるわけがありました。
なるべく、ぼんやりしたくなかった。
ぼんやり立ち止まると、遠い将来のことを考えて備えたくなる気がしたのです。
幼稚園で働く体力がなくなったらどうしよう、新しく身につけるべきスキルはなんだろう。
賢人とはながこの家を出て、それぞれにそれぞれの道に歩み始めたら誰の世話を焼こう、ホームレスの人の中に入ってゆきたいけど、どこが入り口でどんな奉仕があるのだろう。
でも、『今を生きよ』のかすかな御声に従いたくて、考える時間を一生懸命になくして楽しみました。
おかげで、すっごく楽しかったけど、頭の中はすっかりからっぽです。
なんでも入る感じです。
なんでもできそうな気もしています。
どんな1年が待っているのかな。
ただひとつわかっていること、アフター・キンダーで日本語を教える仕事をします。


1日世界旅行

ここど~こだ
砂漠?
ジャングル?
日本?
中国?
ハンティントン・ライブラリーを散策してきました 
夏のハンティントン・ライブラリーは初めて
すっごく暑かったけど、でも夏には今しかない夏の景色がありました
ふたりして創造主を崇めっぱなしの散策でした
 

Wednesday, August 14, 2013

夏の大人時間・2013

いろんなことがあって、・・・内側でね・・・すっかり自信をなくしていたのだけど、でも、今日とってもいいことがあって、今はご近所を2,3周走ってこれそうなほど元気な私です。
げんきんでしょ。
昔から、落ち込みや悲しい状態が長いこと続かないのです。
ちっちゃい頃、「鳴いたカラスがもう、わろた~」とよくからかわれました。
まあ、それが私の良いところ。
さて、はなの学校が始まりました。
仕事がある日はドライブ・ウェイのドライブ・スルーでドロップ・オフだけど、2日目の今日は、少しは悲喜こもごもな混乱も収まっていることと思い、先生のお顔を見がてら、クルマを駐車して、クラス・ルームまではなを送って行きました。
先生は、「はなのママね。よろしく。」ってすぐに手を出してくれて、私たちはあまり顔が似ていないのに、どうしてわかったのかなってちょっと不思議。
私は職業柄、こんな時、ちょっと離れて全体を見てしまうのにも関わらず、しかも、私はよくメキシカンや、フィリピーノの間違えられるのにも関わらず。
そしたら、彼女、幾分かの混血日系人らしくて、私が、ペコりとお辞儀をすると、彼女もお辞儀で返してくれました。
発音の難しい私の苗字も正確に呼んでくれたのが、とっても新鮮。
彼女の背中を、じっと見すえて、「どうかこの人を、この人の技と業と個人的な営みも含めた全てを祝福してください。それゆえにこの人が運営するこのクラスの全てにあなたの大いなる御業が伴いますように。」と祈りました。

それから、数週間も前から約束して、楽しみにいていたおでかけ、カルバー・シティに古い友を訪ねました。
賢人の日本語幼稚園の最初の担任の先生であり、(ここクリック)、私の大切な恩師の一人です。
彼女が作り上げた素敵なお庭で、奇抜でユニーク、それでいて美味なるオリジナル料理をいただきながら、近況報告をし合いました。
私は、彼女の良いニュースに踊らんばかりに喜びたかったけど、この頃、感情を隠せるようにと祈っているので、静かにテーブルの下のガッツポーズでしみじみと喜びました。
ひとつの魂が、神に守られ、導かれてつつあることを確信しています。
ハレルヤ!



Monday, August 12, 2013

みょうが:愛

どんな1日でしたか?
私は、神さまがすぐ横にいてくださっているようなそんな、なんだか夢のような1日でした。
私は感情的になったり高揚したりする時に、いつも自分を抑えるの苦労します。
泣いたり、笑ったりが我慢できずに、誰が見ても私の内側で起きていることが見えてしまうのです。
それで、いつもとても恥ずかしい思いをするけど、今日は、そんな自分さえ忘れて、臨在に憩いました。

土曜日に、この家にクリスチャンの友達が2人来て、一緒にご飯を作って、私の家族と彼女たちの6人で楽しく食事をしました。
私はこの家を『神と人に愛される家』にしてくださいと祈り続けてきたけど、その日、はじめて、「ああこの家は神と人に愛されている。神さまは私の願いに答えてくださっている。」と思いました。
夫は辰口さんの作ったみょうがを大切に刻んで、いろんな料理に少しづつ使って大切に食べています。
夫が食べているのは、みょうがじゃなくて『愛』と私は思うのです・・・。

旅立ち②

11年生、1日め。                         今朝は、一緒にお祈りして、特別な朝食、パンとフルーツとサラダを食べさせて送りだしました。
祈りながら、涙があふれて、感情が抑えられなくなりそうになったけど、でも最後までしっかりと祈らなくてはと、がんばりました。
11年生になれたことを心から感謝しました。
そして、この11年生の祝福を祈りました。
神が賢人に用意してくださっている道をまよわずに、しっかりと歩むことができますようにと。
神がくださる全ての良いものに、大胆に「はい、ください」と言い、そしてそれ以外のことには、きっぱりと「いいえ、いりません」言えますようにと。
そして、その道を全ての災いから遠ざけておいてくださいと。
彼の周りで何がおきたとしても、それが決して、彼の道、彼の身にふりかかることがありませんようにと、そう祈りました。
私には、もう賢人と賢人をとりまく世界のことが、よくわかりません。
彼が何を考え、何を目標に歩いているのかも、よくわかりません。
私には、もう彼への影響力はなく、彼はただ、自分のやりたりことの中から、私を悲しませないことを選らぶことで、親の私を尊重するだけです。
でも、あの子は神に愛されているから、神を信じているから、神をおそれているから、だから、大丈夫。
大学には行かないなんて言っているけど、その気持ちは、どうにも受け入れ難いものだけど、でも、私は、神さまに信頼して、先頭に立って、彼のために、賢人のために祈る者とさせてもらおうと思う。
神の前に、賢人の前に、神と賢人の間に、立ちはだかって、精一杯のとりなしを祈る者となろう。

旅立ち

おはよう。
今日から賢人、そして明日からはなの学校が始まります。
親業とは、つくづくせつない仕事だなと思う。
港から見る海は広くて、大きくて、わからないことがたくさん。
でも、クリスチャンの親でよかった。
私たちは、祈ることで、彼らの人生にずっとずっと関わってゆける。
祈るという仕事を通して彼らの人生を、すっとすっと支え続けることができる。

Sunday, August 11, 2013

静かな日曜日に聞こえた声

静かな日曜日の午後でした。
はなは夫と夏祭りに楽しくおでかけした後、今、近所のお友達と遊んでいます。
賢人は、まだ教会から帰ってきません。
仲良しのエリックもえりかちゃんもつぐるくんもいないのになにやってんだろ~、って先週も思ったけど、帰省中の大きな大学生のマフューやダニーに遊んでもらってご機嫌で帰ってきたので、もう何にも心配していません。
そんなわけで、今日は誰ももいない家でひとりでもくもくと家事に励んでいました。
誰にも気兼ねなく、大きな音で掃除機をかけながら、教会で成長してきた賢人と、今、そんな将来のかけがえないのない友達作りの基盤を固めているはなのことを思っていた時です。
『よし』というイメージの御心を感じました。
大人にとって、ひとりのクリスチャンにとって、毎週教会に通い続けることは、時にチャレンジだったけど、私の動機づけはいつも、賢人とはなだったから、そのことに、神さまが答えてくださったのではないかと思いました。
『よし』っていうか、『わかっているよ』っていうか、『それでいい』っていうかそんな御声のイメージです。

復活・主を崇める隊

1年ぶりにハイキングにでかけました。
Ocean Trail Reserve
絶対、この先、何もないでしょう、と思ってあきらめてUターンしそうな行き止りの茂みに、ひっそりと迎えてくれた入り口を入って、発見したトレイル・コース。
ほんの10数台が止められるだけの小さなパーキングにクルマを止めて、お祈りして、歩きました。
サギやカモメ、ペリカン、さまざまな種類の鳥たち、そしてタイド・プールに潜む小さな海の生き物たちに出会えた楽しい冒険でした。
きれいな海と空の蒼のグラデーションに、隊員たちは口々にいろんなことを言ってみるけど、神さまがお造りになった、繊細な芸術作品の前に私たちの言葉はまるで役に立ちません。
本日のメンバーは、前の幼稚園のコ・ワーカー、はなちゃんとゆりかさん、そしてはなと私。
山肌のコースを空やら海やら、花やら、実やら、カマキリの卵やらを、忙しく観察しつつ、歩き、無事海岸に到着。
海岸に打ち上げられているさまざまな珍しいものたちに目を奪われて、しばし、無口に歩きつづけます。
波が運んでいきた小石が層のように積み重なり、おいてきぼり小石アートが完成。
大きな波がやってきて、神さまがみんなを、もう一度海に運んでくれたらいいねって、思いながら写真を撮りました。
そしたら、石なのに、コロコロ動けていいでしょ。
石なのに、魚や蟹や海草と遊べていいでしょ。

Saturday, August 10, 2013

ずっと友達~2013・レゴランドⅡ

行ってきました
レゴランド・パートⅡ
乗り物乗って、プールで遊んで、また乗り物乗って
さなえちゃんは、
3人ぐらいまとめて生んでまとめて育てたかったって言うけど、
私はそうは思わない
1999年に子どもと一緒にレゴ・ランドに初めてきて、
2013年に別な子連れてまた来てるって、これすごい
すごい幸せ
レゴ・ランドに来られることじゃなくて、
そんな長いこと、子どもと遊べることが幸せ
 
 

Friday, August 9, 2013

『クリスチャンホームの建設』~子どもの訓練②

父たちよ。
あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。
かえって、主の教育と訓練によって育てなさい。
エペソ6:4
愛とは、あなたがする何かではありません。
それは、あなたのうちにある何かなのです。
あなたの愛は、恒常的なものであるべきで、子どもの行為によって左右されるものであってはならないのです。
愛の努力に満ちたふんい気の中に生きている子ともは、多くの技術的な失敗をきり抜けることができます。
親であることは、技巧の問題であるというより、感情の問題、楽しみの問題、献身の問題であるのです。
昨日、ビーチで二組の親子が1歳半ぐらいの子どもと一緒に楽しそうに遊んでいるのを見かけました。
1歳半の子とビーチで遊ぶのは、16歳と7歳の子をビーチに連れてくるのはわけが違う、まるで別世界なおお騒ぎでした。
親であることは、感情の問題、楽しみの問題、献身の問題とは全くアーメンだと、昨日の彼女たちの様子を思い出しながら思います。
私とさなえちゃんにもそんな時期がありました。
あんなエネルギーは今の私たちにはたぶんありません。
でも今年、私とさなえちゃんは往復4時間をかけ、ホッパーの2日券でレゴランドを制覇します。
このエネルギーはあるのです。


Thursday, August 8, 2013

酸素の節約

今日、何気なく聞いていたインターネットのメッセージで、聖日―安息日―を守るべき理由についての話があって、スイスのお医者さんの研究の報告に、ものすごくはっとさせられるものがありました。
人間の呼吸について。
使う量と取り込む量にはあきらかな差があって、週日の夜の間の睡眠時間では取り込みが間に合わず、週に一度は仕事を休んでマイナス分を補う必要があるという話でした。
そうなのです。
私は金曜日、忙しい時には木曜日の午後ぐらいから軽いめまいが始まって、座った状態から立ち上がる時に、つい慎重になってしまうので、週の後半は仕事の波に乗れずに、イライラするのだけど、その謎が解けた気がしています。
んで、今、この夏休み、取り入れた酸素の節約方法について研究しています。
とりあえず、ねころんで読書という方法。

ビーチで出エジプト記

午前中、ず~とビーチの風に吹かれてすごしました。
とってもいい気持ちです。
パラソル立てて、ラグを敷いて、でも日陰は涼しすぎて、おそるおそる日向に足を出して、横になって、ずっと読書。
バカな私は肝心の本を持ってきていなくて、仕方なく、唯一クルマにのせてあった本、(厳密にはもう一冊、トーマス・ガイド。トーマス・ガイドと私って、うちの亀さんと分度器ぐらい関係ない感じするでしょ。)数ヶ月前にブック・オフで1ドルで買った新共同訳のバイリンガル聖書を読みふけりました。
出エジプト記。
ビーチで読むなら、出エジプト記でしょう、どう考えても。
賢人が10年ぐらい前に使っていたブギ・ボードを持って行ったけど、やっぱりこわくて遊べなかった。
賢人もそうだったけど、これは海に一緒に入って楽しくやってみせないと、子どもは信用してくれないのです。
よっしゃ、こうなったら次回は私も水着だ。
今日のはなは、砂遊び用の大きなシャベルで、大きな穴堀りプロジェクトに熱中しておりました。
みて、この日焼け具合。まっくろです・・・。

夏休み・読書日記~C.S.ルイスに打たれて

おはよう。
今日は、ちゃんといつもの時間に起きました。
昨日は、なんだかぼお~っとしていて、あっというまに夕方になって、あわててご飯を食べて、あわててお風呂にはいって、あわてて寝ました。
一日中、C.S.ルイスの『キリスト教の精髄』や『悪魔の手紙』、その他、日本語に訳されていない教科書のような本を含む合計28の書物を、ひとつの一貫した流れの中で抜粋して並べた本を読んでいました。
『影の国に別れを告げて』
すごいよ~。
すごい文章がぎっちりと収められていて、へろへろ、喘ぎながら読んでいます。
C.S.ルイスの文章の中に感じる独特の毒は、まるでインフルエンザの予防注射のワクチンのような毒と思う。
ためにしにここに、ちょこっと紹介します。
クリスチャンは肉体の罪を最大の罪と見なしていると考えている人がいるとしたら、それは大変な誤解です。
最も悪しき快楽は、純粋に精神的な快楽です。
すなわち、自分をよしとし、他の人間を非難していい気持ちになったり、威張ったり、恩に着せたり、他人の楽しみを邪魔したり、他人を中傷したり、権力をふるい、憎しみをくすぶらせることに喜びを感じたりというった場合です。
悪魔的自己の方が動物的自己よりいっそう悪質ですから、教会の礼拝に規則正しく出席している冷ややかな、独善的な気取り屋が、売春婦より地獄に近いということになるのです。
C.S.ルイス
ねっ、すごいでしょ。




Wednesday, August 7, 2013

最後までのこるひと

シュノーケルみたいな不思議なかわいい生き物
信じられないことに起きたら、10時でした・・・。
そんな時間まで、一度も、ちらりとも目が覚めずにぐっすり眠り続けていました。
今日もいいお天気です。
そんないいお天気の朝、朝寝坊をした挙句、パジャマのままで、とりあえず、書かなきゃと思って書いています。
レゴは好きですか?うちの子、賢人は大好きでした。
今でも、耳の奥にある音があって、それはレゴのはいった箱をかきまぜる音です。
昨日は、そんな小さかった賢人と夫と3人でよく来たレゴランドに久しぶりに行って、すごく懐かしかった。
いろんなことを思い出しました。
それは、おそらく、全ての大きくなった男の子の親、母親たちが知っている、ある種の痛みだと思う。
びしょびしょにぬれたシャツをぬいで乾かすさなえちゃん
でも、それと同時に、女同士、友達っていいなって、思って帰ってきた。
私とさなえちゃんはお互いの独身時代も妊娠期間も知らず、出会った時から親だったけど、子どもが大きくなっても、子どもが自分で勝手に自分の人生を生きはじめても、こうして、こんなところに来て、一杯しゃべって、一杯笑っていそうな気がしました。
ううん、そうしたいって思った。
レゴランドの中にできた水族館で魚を見ながら、そう思った。






ずっと友達~2013・レゴランド

 

 
『ずっと友達』シリーズ第五弾!
初めて読む方、
親ばか丸出しですんごい、申し訳ないけど、
ぜひとも、ここから読んでください
ずっと友達③
ずっと友達④

他にももっと書いた気がするけど、
見つけられたのはこの4つでした
 
 
 
 行ってきましたレゴランド。
9年ぶり。
かりんのお姉ちゃんも16歳で賢人と同じ年だから、
似たようなもんです。
なつかし~、賢人と10回は来たと思う。
わらっちゃた、今朝のかりんの第一声、
「おはよう、はなちゃん!おおきくなったね!」
ひさしぶりの人に言われるそのまんまでしょ、それ。







いろ~んなこと、一杯体験して、
いろ~んなこと一杯しゃべって、
いろ~んなこと一杯感じたけど、
くわしいことは明日ゆっくり書きます。
とにかく、すっごい遊んで、すっごい楽しかった。
私がこんなに必死に遊ぶのは、
さなえちゃん親子に会ったときだけ。
年に1回か2回。
んで、会うとすっごい元気になって
テンションもすごいことになっちゃうの、
だって、もうほらもうすぐ夜中の1時。
でもぜんっ、ぜん元気なんですけど。