Sunday, August 4, 2013

楽観的ということの代償

書きたくて、書きたくて、いてもたってもいられず、大急ぎで帰ってきました。
何をどこからどう書けばいいかわからないほど、今日の礼拝メッセージがどかんと衝撃的に、それでいて静かにじわっとうれしくて・・・。
例えば、「病からイエスさまによって奇跡的に癒された人の恵みよりも、病気をしない僕へのイエスの恵みはもっと大きいと」と言ってくれた牧師に私ははじめて会いました。
これは私の超個人的な感覚で、ご本人は嫌かもしれないけど、朴牧師のセンスに私は自分と共通のものを感じます。
今朝、スー・オーガスティンとジョエル・オスティーンの本について書きました。
私がもし、現実に私の周囲にいるクリスチャンたちと大きく違う点があるとしたら、それはまさにここだろうなっと思いながら、そしてこんなことを書けば、私の人生は、さらにめんどうなことになるかもしれないのになって思いながら、それでも、書きました。
朴先生が安全なら、私も安全だと思う。
ずっと秘密にしていたけど、私は心の底にいつも「正義はいつも私の味方」という確信があって、でも絶対そんなことは口にしないし、態度にも現われないように注意しているのに、時々それが人にバレてびっくりされます。
でも、今朝朴先生のメッセージを聞きながらそんなことはもうどうでもいいやって思った。
楽観的ということに、もしなんらかの支払うべき代償があるとするなら、それは神さまに直接お支払いするので、心配ご無用。