Sunday, August 18, 2013

イザヤ一章②

あなたがたは、わたしに会いに出て来るが、
だれが、わたしの庭を踏みつけよ、と
あなたがたに求めたか。
イザヤ1:12
超早朝のたったひとりの礼拝、デボーションの中で、神さまは私に、私たったひとりにむけて、こう語られました。
神さまは、私の祈りも、私のささげものも、実は、全くうれしくないのだと。
神さまは、私の手は血にまみれていると、そう示してくださいました。
でもなぜか、そうつきつけられても「こんなつらいことは他にない」と、そう思って落ち込んだりもしなかった。
ただ、静かに、「赦してください神さま。洗います。きよめます。悔い改めます。だからどうか赦してください」って率直にそう思いました。
礼拝とは、真心の礼拝とは、一体何だろうと考えています。
私は自分が、マナに感謝することを忘れて、「肉が食べたい」と言い始めた、イスラエルの人々のようだったと思いました。
命の淵で、日々、命を求めての祈りを奉げ、その命の恵みに感謝を奉げていた日々をすっかりと忘れて、偉そうに何かを選ぼうとさえしていたことを、神さまに教えられたのです。
それでも、毎日マナをふらせ続けてくださった神さま、明日から、また、あなたの恵みである、仕事に戻ります。
どうか、私に感謝の心を与えてください。
穏やかでやさしさに満ちた家族との毎日に、私の賜物を用いていただくことにできる日々の仕事に、そして小さな愛の共同体である毎週の教会での礼拝を感謝し続ける心を、どうぞ神さま、私にお与えください。アーメン