Wednesday, March 31, 2021

天国からの歓迎の口づけの前に・・・


あの方が私に口づけしてくださったらよいのに。
あなたの愛はぶどう酒よりも快く、
あなたの香油のかおりはかぐわしく、
あなたの名は注がれる香油のよう。
雅歌 1:2

「和解の口づけを、私たちは回心の際に経験する。
それは蜜蜂の巣にしたたる蜜のように甘い。
また豊な恵みのゆえに、主が私たちの身と働きとを、受け入れたれたことを知る口づけはなお暖かく私たちの額に残っている。
私たちは、日ごとに受ける霊の交わりの口づけを、日々反復せられんことを熱望する。
そしてそれは魂を地上から取り去る歓迎の口づけに変わり、最後には天国の喜びを満たす完成の口づけとなる。
信仰は私たちの歩みであるが、交わりは休息である。
信仰は道中であり、イエスとの交わりは旅人がかわきをいやす泉である。」
心に染みる、今朝のスポルジョンのメッセージです。
この頃、どんなに早く起きても、朝のデボーションを一旦中断しなくてはならなっています。(それもあって、起きる時間が適当になってしまっているのだけど、でも、ゴミ出しだけは、明るくなる前に済ませたいので、デットラインは夜明けね)
6時に起きる父の朝の身支度を手伝うようになりました。
今朝、その身支度の中で、父が、「もうあまり時間がないから、色々話しておきたいことがある」と言うので、チャンス!と思って、お兄ちゃんの遺骨について思い切って聞いてみました。
母の部屋に写真と一緒に黒い袋につつまれた箱があって、十字架のしるしがあるので、きっとそれがそうなのだろうけど、いつまでも、母のお部屋に置いておいても良いものだろうかと思っていたのです。
お墓があるから、廣田先生に手伝ってもらって、そこに入れよう、とのことでした。
お墓の中には、父の故郷の土だけが入っているそうです。
私はそれがどこにあるのか知りません。
ここからすぐ近くのようです。
今日、さっそく行ってみようと思います。
私もそうだけど、父も朝、起きた直後が一番、霊も気力も冴えているようで、大切なことを少しづつ会話するには、うってつけの時間となっています。

不思議なチューリップ畑・今が満開

一体、誰が、何の目的で、
なんて、野暮は言いません
でも
すごい!
あの不思議なチューリップ畑、今、まさに満開です
公園でも花壇でもなんでもない、ただの農道の脇
桜の木の下の傾斜に菜の花に囲まれるように植えられたチューリップ
意外性も手伝って、そのビューは圧巻です

もうすぐ4ヶ月


3月最後の日、いよいよ本当に、本当の春がやってくる、そんな気分です。
思えば日本とは、冬も、春も、そこかしこにいちいち風情がありまくるきれいな国です。
これからやってくる、初夏も、盛夏も、夏の終わりも、秋も、秋の終わりも、全てが、いちいち美しいことでしょう。
ここでの、私のつとめが、どこまで続くのかはわかりません。
それは、主だけがご存知・・・。
何の計画も立てることのできない、今の私。
でもとことんお付き合いするつもり。
日本のめぐりめくる美しい季節のひとつ、ひとつと。

でも、きっと、私が知らないだけで、アメリカにも、ヨーロッパにも、アジアににも、その他のいたるところに、そこにしかない四季の美しさっというものがあるんだろうな〜と思います。
これから先、そんな所のひとつでも、夫と一緒に見に行けたらと思うのです。
仕事中心だった私を、大きく変えてくれたこのパンデミックと父の病気、そして家族を離れて単身での日本滞在、もうすぐ4ヶ月になります・・・。

Tuesday, March 30, 2021

今後の活動について


しかし、彼は私たちのそむきの罪のために刺し通され、
私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
彼への打ち傷によって、私たちはいやされた。
イザヤ 53:5

「主にある友よ、イエスがあなたの前に苦悶という愛の鏡を立てられる時、あなたは涙なしにイエスを直視することができるだろうか。
純潔な百合よりも美しい主が、御自身の鮮血のためにばらよりも紅くなられたのである。
一室に閉じこもり泣いていたい。
朝に、主の血潮流された御姿が心に深く銘記されるように祈り、夕べには主との交わりのために帰って来たって、私たちの罪が主を苦しめまつったことを思って嘆きたい。」
今朝のスポルジョンのメッセージです。

夕べ、父の着替えを手伝っている時に、父が、もっと、明晰に考えて話ができる時に、きちんといろんなことを伝えておけばよかった、今となっては、それがもうできない、というようなことを、一言一言、息継ぎをしながら言うので、「だいじょうぶ、だいたい、わかってるから」と言いました。
本当はなんの話か、よくわかりませんでした。
「聞きたい、聞きたい、少しづつ、話して」と言えば良かったです。
父は、父が自分で感じているほどには混乱してはおらず、実は、いつもかなり明晰なのです。
だから、これからは、父が話をしたくなった時に、ふっと、横を見た時に、私がいられれば良いなと思いました。
私の、こちらでの生活が全て、主によって整えられたということは、次のステップは、そういう時間を大切にするということなのかもしれません。

朝のお散歩と簡単な家事と簡単な食事づくり、二、三日に一度のお買い物、気晴らしの英語のお勉強、2週間おきの図書館と、1週間に一度の山へのお水汲み、たまの懐かしい場所へのドライブ。
そんな中に、静かに、父のかたわらに座って、ぼんやりとすごす時間があっても良いな、と思いました。
いえ、きっとそれこそが、これからの私がするべきメインの活動なのでしょう。 

舞い散る桜の下を歩きながら考えたこと


今朝は、朝のお散歩の中で、キリストの地上のからだである、教会への感謝を祈りはじめたら、ずっと感謝がとまらなくなり、結局、家に着くまで、ひたすら、「神さま、私に、・・・をありがとうございます」と箇条書きのように祈り続けました。
そして、私がつながる大分の教会とローリングヒルズの教会とそこに集う神の家族のために心をこめてお祈りしました。

スタートが遅かったので、なんとなく、まとまりのない1日となってしまったけれど、感謝で痺れていたのでちょうど良かったのかもしれません。
でも、明日からは目覚ましをセットしようと思います。
4時から5時の間に起きたいです。
そして、メインの活動を設定して、メリハリをつけないと、だら〜んの間延びした日々に慣れてしまっては、後が大変だから。

ここでの生活に必要なことは、全て、神さまに与えていただき、満たされました。
これからは、もらう側からあたえることのできる側へと、少しづつ、移行してゆきたいです。
どうやって?
今はまだわかりません。
市のボランティアに登録したけれど、仕事の話は、まだ、ひとつももらっていません。

それで、まあ、気長に何かを待ちながら、歯医者さんに行ったり、健康診断をしてもらったりしようかな、と考え中です。
それも、結局、サービスを受ける側なのだけどね。

ご褒美・ないと

昨夜は、かねてから、ずっと祈ってきた大切な夜でした
このパンデミックが始まって以来初めての映画
チケットはなんと188ドル(クルマ一台分)
ステイホームのオンラインクラス1年記念のお祝い
よくがんばった賢人とはなに、夫と私からのギフトです
すごく楽しかったらしい
それを聞いた、私が一番うれしい
中休みの余興や、お食事と飲み物
おみやげまでついたとても豪華な夜だったらしい
私もいつか夫と行きたいです
車で観る映画

Monday, March 29, 2021

勝手な人生〜イエスさまのおかげ


彼が自分のいのちを死に明け渡し、
そむいた人たちとともに数えられたからである。
彼は多くの人の罪を負い、
そむいた人たちのためにとりなしをする。
イザヤ 53:12

「私たちと共に数えられている方は、私たちに罪を宣告することはしない。
イエスは自らを私たちのあらゆる不幸と罪の状態に置かれ、私たちにはイエスの所有とされるすべてのものが与えられる。」
今朝のスポルジョンのメッセージです。
昼と夜。
光と影。
感謝と不満。
善意と悪意。
覚醒と惰眠。
平安と不安。
満足と空虚。
ユーモアと皮肉。
信じることと疑うこと。
どちらが好きですか。
勝手に好きな方を信じて、勝手に一生懸命に生きてゆきたいです。
だって、イエスさまが、十字架で、私に勝手に選ぶ自由をくださったのだもの。
結局、信じるって、なんの根拠もしめすことのできない、人の、「勝手」な判断なのかもしれません。
書いても書いても書いても、わからない人にはわからない。
わかってくれる人もいる。

良い気分


桜舞う、とっても気もちの良い、小春日和な1日でした。
お洗濯、掃除機、お昼ご飯作り、英語のお勉強、来客、お買い物、晩御飯作り、特になんということのない平和な1日。
でも金曜日の午後から続いていた父の出血が、今朝起きたら、ぴたっと止まっていて、それもあって、本当に良い気分。
父も窓の外の景色を見ながら、「良い日だ」と言っていた。
父がことあるごとに、「まきさんのおかげで」とか、「まきさんがあれしてくれた」「まきさんがこれしてくれた」とくり返すので、その都度、「私じゃなくて神さまね」と機械的に言い返しているけど、「よかったね、好き勝手させといて、最後は反省して、呼ばれなくても自ら帰ってきたね〜」と言ってしまいたいぐらい良い気分でした。

Sunday, March 28, 2021

度合いの問題〜クレージーになりたい


昨日の日曜日、雨音を聞きながら読んだ本の中に、サッカーの三浦和良にあてた手紙集があります。
日本に帰ってきて知った、日本の最新芸能(このことばにスポーツも含めていいのか良くわからないけど)情報の中に、たったひとつ、私を驚かせ、ときめかせ、喜ばせてくれた事実に、彼がいまだ現役でプロサッカープレイヤーとして、新しい年の契約を更新したというのがありました。
お正月ぐらいだったのかな。
ほんの30秒ぐらいのニュースだったと思うけど、私はこの27年間、日本のサッカーのことなんて一度も思い出すことなく生きてきたけど、でも、その30秒ぐらいの中で知った事実は、十分すぎるぐらい、ドラマチッチに心に刺さったのでした。
で、先週末に図書館でこの本を見かけて、迷わず、手に取り借りてきました。
私がアメリカに向かって旅立ったのは、日本にJリーグが始まり、彼がブラジルから帰国し、彼の活躍によって日本に新しい楽しみが生まれ、これから盛り上がってゆくのだとうなという矢先だった。
あれから、27年です。
まだ、夢中でボールを追いかけていて、まだ、上手になることを目指していて、まだ、同じ場所に夢があるって、やっぱり、このヒトのクレージーは本物だったのだなと思った、その短いニュースを解き明かす手紙のひとつひとつを面白く読みました。
彼って、度を越したクレージーね。大すき。私もそうなろう。

完全になられたのは私のため


キリストは御子であられるのに、
お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、
完全なる者とされ、
彼に従うすべての人々に対して、
とこしえの救いを与える者となり、
神によってメルキゼデクの位に等しい大祭司となられたのです。
ヘブル 5:8~10

私の救主イエスでさえ苦難によって完全となられたと言われている。
ゆえに更に完全にほど遠く、罪深い私たちが、苦難を通るように命ぜられたとしても驚いてはならぬ。
しかし、キリストが「苦しみによって全き者となられた」との事実の中に、一つの非常に慰めとなる思想がある。
それは彼が私たちに対して全き同情を持たれるということである。
苦しみの時にいつもこの言葉を思い出せ。
今朝のスポルジョンのメッセージ、いかがでしょうか。
ちょっと話が跳ぶように見えるかもしれないけれど、思えば、全てのことには度合いというのがある。
きっぱりと「ある・ない」ではなく、「1、2、3、4、・・・」という度合いです。
人間の世界は0と1じゃない。
例えば、神さまは聖く罪がない、これは、0で人は1。
だけど、人の世界では、みながどの可能性も持っていて、度合いが多少違うだけです。
例えば、誰もが癌になる可能性を持っているとか、誰もが誰かの犠牲となれるほどの愛を持つ可能性を持っているとか。
でも、ただ、「完全」であるかどうかとという、その1点においてのみ、キリストは人として生まれたゆえに、この十字架を通して、それを完成された。
度合いの中に存在してくださっていた・・・。
度合いを体験された。
つまり、何が言いたいかと言うと、何が今朝の私を感動させたかというと、イエスさまは決心をされたということ、努力もされたということ。
度合いの中に存在され、度合いの中を生き抜き、そして完全になられたということ。

Saturday, March 27, 2021

ただの滑り込み親孝行だけど・・・


今、図書館から借りている本に、『フィレディの遺言』という本があります。
右の小さな本です。
その中にこんな素敵な文章をみつけたので、紹介します。
「介護する人は、人の死と向き合っている。人の死をみつめる人は、神にいちばん近いところにいる。」
私が、今やろうとしていることはただの滑り込みの親孝行であって、介護なんて、言えるものではないけれど、でも、このことばには、本当に深い意味があると思います。
死について考えるとか、死をなんとかあるがままに受けとめようとするとか、死の向こう側に期待するとか、良い死について真剣に考えるとか、そういうことは、本当にものすごいデボーションです。

今日の大分は朝から雨模様。
雨の日曜日。
家族で礼拝をして、それから、のんびりと読書をしようかな。
窓の外の雨音を聞きながら。
それとも、傘などさして、美術館になんて行けたら、すごく素敵。
でも、どこで、どんなものをやっているの全く知りません。
調べてみようかな。

信じることは愛すること

人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。
エペソ 3:19

「それは全く広大無辺なので、つばめが水面をかするだけで水中深く飛び込まないように、すべての人の言葉は表面に触れるだけであり、測り知れぬ深さは、依然としてその下に横たわっている。」
いかにもスポルジョンらしい、詩的な神さまの愛のたとえです。
私は表面をかするだけのつばめ、神さまはその下に横たわる大海。
たとえ、それであったとしても、私は、神さまの愛に満足している。
大きな愛。
変えてくださる神さま。
守ってくださる神さま。
祈りに報いてくださる神さま。
教えてくださる神さま。
助けてくださる神さま。
恵み深き神さま。
昨日、飲み水を汲みにいつもの山にドライブし、そこの小さなカフェテリアで売られているおぼろ豆腐を3つお土産に買って帰りました。
ひとつは左のお隣さん。
もうひとつは右のお隣さん。
そしてもうひとつは父と母と私の3人で分けて、お昼ごはんに食べました。
なんともいえないやわらなか口あたりと力づよいおいしさ。
右のお隣さんも、左のお隣さんも、この同じ口あたりとおいしさになぐさめられて欲しいなと思いながら食べました。

信じたことが現実になります。
良いことを信じれていれば、良いことが起こります。
起こすのは神さまではなく、その生き方です。
だって、愛なる神さまは、どの人の人生にも良いことを起こされたいのだもの。

4人チーム


春風一番、みごとな桜がチラチラと散りはじめてしまいました。
でも朝のお散歩でも、お買い物の車の中からも、しっかり、じっくり堪能したので、大丈夫。
とても満足しています。
27年ぶりの日本の桜でした。
今日も病院に電話をかけて、指示をあおぎながら、神さまの導きのままに、良い日をすごせました。
親子3人がかたく、神さまの愛の絆によって、結ばれていれば、何が起こったとしても、大丈夫。
そう思いました。
大切なことは、私たち3人のチームワーク。
父のことに集中するあまり、母を放りっぱなしなったり、事情を飲み込めずにいる母にイライラしてはいけない。
そういうことがサタンは大すきだから。
分裂こそが、サタンの目的だから。
それで、今日は、母の大すきなおはぎを買ってきました。
母にも父のことを手伝ってもらえるように、考えながら、お願いごとをする必要があります。
難しくないこと、やり慣れたこと。
本当に、全ての選択において、主の知恵が必要です。
小さなことでも、母にとって、混乱の原因になってしまうことは頼むと、小さな歪みが生まれ、サタンがすいっと入ってきちゃう。
良く知っていること、必ずできることをお願いするために、私は、聖霊さまから、決して離れられない。

Friday, March 26, 2021

戦闘意欲の湧くスポルジョンのショット


そのとき、弟子たちはみな、
イエスを見捨てて逃げてしまった。
マタイ 26:56

「すべての信者は羊にすぎない。
おおかみが来れば彼らは逃げる。
神の恵はおくびょう者を勇者となし得る。
うさぎのようにおくびょうであった使徒たちも、聖霊が降ってからはししのごとく大胆になった。
聖霊は、私の背信の魂を変えて、勇敢に主を言い表し、その真理の証人とされるのである。」
今朝のスポルジョンのメッセージ、まるで、昨夜の私の弱音への直球のチャレンジです。
私は、やれやれと思ったでしょうか。
いいえ、決してそんなことはありません。
それどころか、むくむくと勇気が湧いてきています。
聖霊さまが共にいてくださるのに、乗り越えられないはずがない、そう思いました。
今、逃げ出すことは、主が飲んでくださった私のための杯に、新たなるもう一滴の苦い苦しみを増し加えること。
聖霊さまは、私の背信の魂を変えてくださる。
変えてくださった。
これからも、変え続けてくださる。
杯は主によって、飲み干されたから
すでに主は、私のための、成してくださったから・・・。

ただ言ってみたいこと

最後に見た、サンペドロの夕焼けです
家族に会いたいな
夫と、賢人と、はなのいるあの街、あの家に帰りたい
本気じゃないけど
ただ、言いたいこと

もうだめ〜


私とはなの最後のドライブの写真です。
左ハンドルが不思議な感じ・・・、右側を走っていたんだよね、この頃。
今日も緊急事態発生。
父の検診の日だったのだけど、帰宅後、交換してもらったカテーテルからの出血が起こり、しばらく止まらず、2度も病院に電話をしました。
看護師さんは、交換後のありがちな現象なので様子を見てくださと言います。
それで寒いおトイレに父とふたりで閉じこもり、止まるのを待っていたけど、なかなかとまりません。
父の部屋に移動して、様子を見たけれど、ぴたっと止まった安心感がないまま、ふたりしてすっかり疲れ果て、居間のテレビの前に連れて行きました。
交換した日は、いつも落ち着かず、ハラハラするけど、なんだか今日はハラハラを通りこしてザワザワしています。
こんな時に限って、いえ、こんな時こそ、とばかりに、母が、台所で自由に、大量の野菜を出してトントンはじめちゃうものだから、もう、パニック寸前。
レタスの全てのリーフがはずして洗われ、一袋のもやしのひげも全てきれいに取り除かれ、赤ちゃんの頭ほどの大きさのブロッコリーを全部茹で、ひとかかえはあった5束ほどのほうれん草も茹でられ、一袋のプチトマトを全て8等分。
でも、今日は、お料理に、確固たるゴールはないらしく、それらが全て、どど〜ん流しに並び、私は、もうだめ〜と思わず座りこみそう・・・。
 

Thursday, March 25, 2021

「修道院の食卓」からの学び 5


もし、私たちが主の御心にかなえば、
私たちをあの地に導き入れ、
それを私たちに下さるだろう。
あの地には、乳と蜜とが流れている。
民数記 14:8

「週の1日、一番良いのは金曜日に、料理のバラエティに制限を加えましょう。
二皿の肉の入っていない調理した食べ物と生の植物性食物の一皿を食卓に出します。
たとえばボイルした野菜とライス、サラダといったメニューです。
また調味料は控えめに。
塩味が足りなければ、レモンやハーブなど、ほかの香辛料で補ってください。
飲み物は水かハーブティーを飲みましょう。
そして晩にはほんの少しばかりの軽食、たとえば全粒粉のパン一個と1種類のチーズは食べないようにします。
本当に空腹なときしか、お代わりをしないように。
甘いものは何も食べないようにします。
そういう日は、普段どれだけ、ついつ「つまみ食い」し、「ながら飲み」しているかを教えてくれます。
何度かそうした日を過ごすと、自分が本当に必要としている以上に食べないことを学べます。」
昨夜は、とてもとてもひさしぶりに大満足のおいしいディナーでした。
お風呂あがりに、ビールを飲んで、ひとりで食べました。
父と母の食事時間は、アメリカ人のおそめの昼食かのごとく早いのです・・・。
カツオのたたきとスパゲティーでサラダを作りました。
それと、インスタントのかぼちゃクリームスープとディナーロール。
食べながら、しみじみ、「ああ、おいしい・・・」と五感と心の全てで喜びました。
食べる時の気もちって本当に大切です。
感謝の気もち。
ここ数週間、ずっと、残り物をおなかの中に片付けているような気もちで食べていたから。
もっと、上手に、楽しく、母とお料理できるようになりたいです。
私は、今、専属の娘です。
妻でも母でもなく、幼稚園の先生でもない、娘という役割だけでフルタイムの仕事としている者です。
ずっとその3つの中で、自分にも自分の仕事にも満足してきた私が、今、このフルタイムの挑戦の中で、超プロフェッショナルになれない理由などどこにもないのです。
主が私を、この手の技を祝福しようと期待をしてくれていると信じて、今日もがんばります。

新しい娘 〜(なんて素敵な響き!)


イエスは言われた。
「それはわたしだと、あなたがたに言ったでしょう。」
もしわたしを捜しているのなら、
この人たちはこのままで去らせなさい。」
ヨハネ 18:8

「よき羊飼は羊のために命を投げ出され、羊が自由になることを求められたのである。
保証人が捕らえられているかぎり、正義は彼が身代わりになっている者を釈放することを要求する。
罪とサタンの奴隷から贖われた者は、釈放されなければならない。
失望の牢獄のすべての室に『この人たちを去らせてもらいたい』との声が響き渡り、落胆者と臆病な者が釈放される。
サタンは聴きなれたその声を耳にする時、踏みつけている者の首から足をのける。」
今朝のスポルジョンのメッセージです。
自由ですか。
私は自由です。
毎日、自分の人生を自分で選んでいます。
私には、物事や世界の出来事をコントロールする力はありません。
今の私に変えることができることがあるとしたら、自分の英語力ぐらいです。
でも、それ以外の全ても実は私の自由な選びです。
私は私のために、ここにいる。
私が選びました。
昨日、1日の終わりに熱いお湯につかり、こう祈りました。
「父よ、今日も、私は忍耐がなく、自分中心でした。
どうかお赦しください。
明日は、どうか、父と母に、新しい、良い娘を与えてください。
喜びの霊に満たされた、明るく、ユーモアに富んだ、賢い娘を、どうか父と母に与えてください。」
私は毎日新しい。
主がそうしてくださるから。

今日のランチとおやつ

食べることを、今一度しっかりと喜び、楽しもうと熱く決心
今日のランチは、大・大・大すきなたまごかけごはん!
おやつは、黒豆麦茶というお茶とチーズタルト
丸い1人分のタルトを3等分に分け、それを半分に切って食べました
おいしかった〜
神さま、お父さん、お母さん、
ありがとう

痛み止めとマイナンバーカード


今日も実りはちょっぴりなわりに、バタバタと慌ただしい1日でした。
昨日もそうなのだけど、緊急事態が発生すると、必ずそうなります。
昨日は、栗木さんとのウォーカーのレンタルの契約を目前にして、父が買った方がいい気がすると言うので、朝、お散歩の後、市販のを近所のお店まで、写真を取りに行ったりしたのでした。
結局、栗木さんに、安全面で、おすすめできないと言われ、予定通り、借りることになりました。
今日はと言えば、父の痛み止めの薬が、明日のチェックアップを目前に切れてしまい、病院に連絡して、処方箋を出してもらい、それを持って薬局に走ったりしたので、なんだか、バタバタしてしまいました。
痛み止めのお薬は、今の父にとって、なくてはならない大切なお守りのようなものなので、私が薬局から薬をもらって戻ると、とてもうれしそうでした。
よかった、よかった。
午後は、写真付きのIDができたという知らせを持って、初めての地域の役場に行ってきました。
大分市役所と違って、受付も、案内の人もなく、きょろきょろしてしまったけど、この3ヶ月で得た勘をフルに働かせつつ、案内文字を目を皿のようにして探し、読み取り、進み、しばらく待ったのち、無事、交付されました。

Wednesday, March 24, 2021

「修道院の食卓」からの学び 4


どうか10日間、しもべたちをためしてください。
私たちに野菜を与えて食べさせ、
水を与えて飲ませてください。
ダニエル 1:12

「今日私たちは葉菜のサラダが、繊維質に富み、ビタミンCやカロチンの含有量が高いためにとびきり健康に良いことを知っている。
それらは十分に生で食べられるが、ドレッシングとも合うし、スープや煮込み料理に入れて、あるいは麺類と一緒に煮ることもできる。
温かさは魂の特徴、冷たさは体の特徴を表している。
冷暖どちらも人間にとって役立つ。
人間も同じように「温かい要素」と「冷たい要素」からきているからである。」
サラダとスープが大すきなので、この文章はすっきりと私の心になじみます。
サラダにチーズや細かく切ってカリカリに炒めたベーコン、蒸して指で裂いたトリのささ身やアーモンドスライス、ひまわりの種をかけたりするのも大すきです。
スープにも、大豆やお豆腐以外に、動物性のものも好んで使います。
特に好きなのは、トリやえび、タラやサーモン。
私には、牛肉や豚肉を避けたいはっきりとした理由はないけれど、(よく知らないだけです)昔読んだ児童書で、それらの飼育には飼料がたくさん必要で、先進国での重要が非先進国の飢餓の原因のひとつであると読んでからは、できるだけ、飼料が少なくて育つ動物性を選ぼうとしています。
ダニエルもきっと、この現代社会の食生活の構図を知ったなら、なぜ、神さまが自分をそのように判断させたかの理由をはっきりと悟ってくれると思う。

傲慢の芽の草むしり

イエスは彼に、
「ユダ。口づけで、人の子を裏切ろうとするのか。」
と言われた。
ルカ 22:48

「私は主イエスの名によって洗礼を受けている。
私は目に見える主の教会の会員である。
私は聖餐に列する。
これらはすべて、私のくちびるをもってする接吻である。
これらに私は誠実であろうか。
もしそうでなかったならば、私はいやしい裏切り者である。
主よ、私を誠実、かつ真実な者となしたまえ。
すべての偽りの道から守りたまえ。
イエスよ、私はしばしばあなたを悲しませた。
しかし私の願望は死に至るまでもあなたに忠実であることです。」
今朝のスポルジョンのメッセージです。
実はこの文章は、彼のメッセージの後半の一部で、前半は、「この世の口づけに警戒せよ」というものだった。
でも、それは、今の私には、全然ぴんとこなかったので、私自身の内のユダを認めることにしました。
そうすると、これ、また、なんとも悲しいことに、やっぱりしっくりくるのです。
昨日、ここに来てくれた、ケアマネージャーの優希さんも、地域の福祉ケアをサービスする業者の栗木さんも、例え、それがお仕事とはいえ、本当にきめの細かい配慮や気遣い、思いやりに、頭も心も下がる思いでした。
せめて、この方々の前にだけでも、恥ずかしくないキリスト者でありたいと思いました。
「働かざる者、食うべからず」ということばがあります。
もちろん聖書のことばではありません。(聖書は、働きよりも信仰に重きを置いてくれます)
でも、今の私は、この状況を、例えば、「仕事」ととらえて見た時に、せめて、食べさせてもらっている分はつべこべ言わず、余計な質問も挟まず、何も考えず、真剣にやろうよ、それで、それ以上のことを、「愛」と言おうよ、と自分に言わなくてはいけない気がしたのです。
☆ビッグフットの足跡のようだけど、何かの農機具の跡でした

最近の観察結果


やろうとしていたことの、半分ぐらいしかできなかったけれど、でも、とっても充実した良い日だった。
ケアマネージャーの優希さんと、彼女が紹介してくれた家の直しや介護用品を扱う業者さんが来て、父と母が保険を使って受けるサービスの契約を交わしました。
父と母は、先日体験した大人の半日デイケアも申し込むことにしたので、次は、そこの方々との契約です。
少しづつ、ても、確実に、前に進んでいます。
今日のランチはシャケの切り身をさらに小さく切って、たっぷりの野菜と一緒に雑炊を作りました。
ディナーはベーコンときのこと玉ねぎでスパゲティ。
母は、喜んで食べてくれました。(父は残念ながら、もう、普通食は食べられず、おかゆやおとうふ、ヨーグルトやスムージーなどを食べています・・・。でも今日、来てくれた業者さんが置いて行ってくれたカタログに柔らかいおかずのレトルトパックがいろいろ載っていたので、そこから、父と一緒にんで試してみるつもり)
母は、私が立てた献立で、私がリードしながら調理するのが、とても楽のようです。
ただ、問題は、とりかかる時間が早すぎで、私が間に合わないことが多々あるということ。
だって、ランチの準備は朝食の後片付けの後、9時ぐらいにスタート、ディナーの準備はお昼寝の後の3時ぐらいにはぼちぼち始まってしまうのです。
そこをうっかりミスすると、テーブルにどど〜んと煮物や酢の物が並びまくってしまうという構図です。
しかも、不安が強ければ強いほど、量も品数も増えてしまう、ということが最近わかってきました。

Tuesday, March 23, 2021

「修道院の食卓」からの学び 3


イエスは言われた。
「わたしがいのちのパンです。
わたしに来る者は決して飢えることがなく、
わたしを信じる者はどんなときにも、
決して渇くことがありません。」
ヨハネ 6:35

「すべての事柄において中唐を守ることが最上の原則である。
過度な禁欲は過度な大食いと同じく有害である。
祝祭は大切であり、楽しく飲み食いする機会でもある。
というのもそこでは食事への敬意が表されており、それは飽食や暴飲暴食とは別のものだからだ。
食べることは洗練された祝福であり、アガペーである。パンは命である。
パンは身体の栄養と、魂の栄養が一体になっているのである。
このような考えは、もちろんほかのどんな食べ物にもない。
パンは命そのものであり、食事と同義語であった。
パンは聖書における食物の代表となっただけではなく、いつの時代の修道士にとっても主食だった。
それは彼らが1日に摂取するカロリーの90パーセントに及んでいたという。」

今、この瞬間、思いっきりパン屋さんに走りたくなりました。
白いふわふわのパンを指でちぎってバターをつけてぱくっと口に放りこみたい!
茶色いパンをトーストしてバターとはちみつを重ねて塗って食べたい!
硬くなっちゃたライ麦パンを熱いチャウダーに浸して、あちちちと言いながらもぐもぐしたい!
神さまの庭に暮らす幸せを感じながらパンをかみしめたくなりました。

輝きたい


キリストは、人としてこの世におられたとき、
自分を死から救うことのできる方に向って、
大きな声で叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、
そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。
ヘブル 4:7

「主はそのおそれのゆえに聞き入れられたのであった。
主はもはや孤独ではなく、天は彼とともにあった。
イエスの祈りは最も深い悩みのうちにあった時に聞かれたのである。」
今朝のスポルジョンのメッセージです。
彼のメッセージの「主」のところを、「父」と置き換えて、読んでみました。
するととても大きな慰めを得ることができます。
父と母と私とで、この世界にキリストを証ししなければ、と思った。
それが、今の私たちにできる最も良い生き方、最高の人生なのだと、天の父なる神の声が聞こえた気がしました。
病院で、地域の支援の中で、キリストの者として輝こう。
その光は、そのエネルギーは、その愛はどこから来るのか、と人々があやしむほどに。
支え合う私たちを見るこの世界の人が、その光の源を知りたいと願うまでに・・・。

傷と癒し

4ヶ月前、大分駅前のホテルでの最終日、
出発直前に撮った写真
この自分には、もう戻れないけど、
でも、思い出してやり直すことはできると思う
失ったもの、得たもの
思い出せないこと、思い出せること
忘れるべきこと、癒されるべきこと
全ては主のみこころのままに・・・

ベストショット、はなとの会話、そして今日の体重

毎日、同じ写真に見えるかもしれないけれど、違うのです。
今日のが、これまでのベストだと思う。
右の桜も左の菜の花も手前のチューリップも、それぞれに、よく咲いているのもさることながら、今朝の空の色は、今までここで撮った中で最高でした。

今日は、はなと電話でたっぷりおしゃべりし、元気をいっぱいチャージした。
昨日も電話があったのだけど、出られなくて、おまけに変なテキストバックをしてしまい、あきれて寝てしまったと言っていた。
「5ヶ月以内にかけなおすね」だって。
メガネをかけずに、勘で書いているとこういうエラーが起きてしまいます。
気をつけよう・・・。

学校が終わったら、来てくれると言うので、何気なく、去年の幼稚園の卒園式で着たお洋服を持って来てって言ったら、目にいっぱいの涙を浮かべて、「なんのために」って言われた。
ドラマチックが大きらいなあの子が泣くのは私も耐えられないので、すぐに話題を変えたけど、すぐに、「はなも必要?」と聞いてくれた。
15歳の女の子って本当に頼りになります。

さて、問題の体重。
やっと書きたい気もちになりました。
43キロです。
LAを発つ時は100パウンド、約45キロだったので2キロの減少です。
これを多いと見るか、少ないと見るかは、普通だとするそれぞれの自分の体重によると思うけど、私には未知の少なさでした。
通りで、疲れやすいんだ。
通りで、スタミナがもたないんだ。
通りで、あと一歩、というところで、あきらめたくなってしまっていたんだ。
通りで、忍耐のリミットが低いんだ。
通りで、やさしさのキャパシティが狭いんだ。
実は、あまり、良いコンディションではないのです。

Monday, March 22, 2021

「修道院の食卓」からの学び 2


イエスは言われた。
「わたしは、苦しみを受ける前に、
あなたがたといっしょに、
この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことことか。
ルカ 22:15

「食べ物は恵みとして讃えられ、敬意と感謝をもって食せられるべきである。
食べ過ぎは体だけではなく、霊や魂も不健全な悪い状況に陥らせ、ついには身体と魂をともに損ねる病気に導く。
食べ過ぎほどキリスト教に反するものはない。
神の創造には、もともとひとつの方向に行くとまた元に戻ろうとする振り子のような性質があり、それが調和を作り出している。
食事と断食のくり返しによってのみ、人間の生活にも同様のリズムが生じ、心と体の調和が保たれる。
神と神が造られた世界に対し、畏敬の念をいだきつつ対話する文化は、生産者の必要性と経済効率、そして生産物とそれを生みだす環境のどれも傷つけることはない。」

みことばは、自分で選びました。
今朝、スポルジョンに導かれて、開いたルカの22章からです。
そして、思いました。
いつも、最後の晩餐だと思おう。
どの食事も。
神さまと、神さまがお造りになられたこの地の産物に感謝しよう。
それは、決して、神の愛なくして、育たないのだから。
神の愛を感謝して食べよう。

昨日の夜に書いた記事への神さまのお返事が、このみことばであったとはっきりと思う。
シランティロと紫のキャベツを買ってきてサラダを作ろう。
セロリを買ってきて、野菜スープを作ろう。
食べたいと身体が願うものを作って食べよう。
フリーザーにたまってゆく冷凍ご飯の山にため息をつくのをやめて、母が炊いてくれる炊き立てごはんで、大すきなたまごかけごはんを食べよう。
冷蔵庫にたまってゆくおかずのストックのおいしい食べ方に胸を痛めるのをやめて、すっと生卵をひとつ取り出して、ごはんにぽとんと落として、お醤油をつけた海苔でまいて食べよう。
残された問題については、その後、ゆっくり考えよう。

天使の励ましと悲しみに果てに眠る我が子の間のイエスさま


イエスは苦しみもだえて、
いよいよ切に祈られた。
汗が血のしずくのように地に落ちた。
ルカ 22:44

「これは罪の重荷が、いかに恐ろしいものであったかを証明したものであり、これがために救主は血の大汗をしぼり出されたのであった。
人が大きな苦痛に会う時、血は明らかに心臓に向かって集まる。
しかし苦痛の中にある私たちの救主を見よ。
血は彼自身を助けるために心臓に集中する代りに外へと流れ出て地をうるおすのであった。」
今朝のスポルジョンのメッセージです。
ルカの22章をじっくりと読みました。
43節と45節、そう今日の箇所のちょうど前と後ろが大好きでした。
43節、すると、御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた。
イエスさまはひとりぼっちではなかった・・・。
45節、彼らは悲しみの果てに、眠り込んでしまっていた。
弟子たちは呑気に寝ていたわけではなかった・・・。
どちらも、イエスさまが流された血の汗のしずくの1滴にもおよばないなぐさめかもしれないけれど、でも、きっとイエスさまはその両方を受け取られて、十字架に向かってくださったと信じたいです。

負け戦ダイエット


先々週の土曜日に、街のデパートで買ったおつまみのチーズ、少しづつ少しづつ小さく切って食べていたけど、ついに終わりに近づいてきました。
日本に帰ってきて以来、食べたいもの、好きなものがあまり食べられず、実は、体重ががたっと落ちました。(はなに送る荷物の容量を測るためにグラム単位で測れる体重計を買ったのです)
この家に帰ってきてからは一度も外食をしたことがありません。
父と母に合わせた薄味で柔らかな菜食生活で、ちょっと、いえかなりストレス溜まっています。
今、一番食べたいのは、シランティロと紫キャベツを盛大に使った自作のサラダ、ドレッシングもTJのガーリックオイルで自作したい。
2番はロミータのえぼしのちゃんぽん。
3番は夫作の辛くて熱いすん豆腐。
4番はサンペドロのぽき。
5番ははなのうゎかもりとトルティーヤチップス
書いてるだけで、胃袋がわくわくしてしまいます。
母は、機械的なご飯作りがどうしても止めることができず、結局お弁当もやめてしまいました。
毎日、ものすごい量のおかずとご飯がテーブルに並ぶけれど、父はもちろん、作った本人も食べられません。
そして、それらは毎日、私によってタッパーに集められ、でも翌日にはまた新たにどど〜ん並び、の繰り返しです。 
決して、追いつくことのできない追いかけっこ。
絶対勝てない戦いです。

春じたく


今日は、洗ってアイロンをかけたタートルネックのセーター5枚と木綿のオーバー2着を、ベッドの下の箱にしまう作業を終えました。
明日は厚手ニットのカーディガン3つを洗いたいところだけど、今日は真冬に逆戻りみたいな寒さ、これでオーバーもカーディガンもないのはちょっと無理かもと考え中です。
マフラーやニットの帽子や手袋も、実はまだ、朝のゴミ出しに使っています。
暖かい日、寒い日、かわりばんこにやってきながら、一雨ごとに、いつの間にか、毎日、暖かくなるのでしょう。
なんせ、27年ぶりなもんで、なにかにつけ要領が悪い私。
父と母は、日本の春の風物詩のごとくな高校野球とお相撲に夢中です。
楽しみがあるのは、とても良いこと。
高校球児さんとお相撲さんに感謝です。
私は、どちらにも大した興味が持てないけれど、非建設的で八百長プロレスみたいな国会中継やら、大人の公開イジメみたいなニュース番組なんかよりはよっぽど健康的なので、大きなテレビの音にもなんとか耐え忍んでおります・・・。

Sunday, March 21, 2021

「修道院の食卓」の学び 1


外側から人にはいって、
人を汚すことのできる物は何もありません。
人から出てくるものが、人を汚すものなのです。
マタイ 7:15

「膨大な知識を蓄積し、ヨーロッパ文明の向上に大きく貢献した修道士たちは、いつも全体的に思考していた。
なにごとも、つねに全体から見て個々の要素を判断する。
正しい食生活のなかには、一定の断食状態が組みこまれていることも、同じく聖書から読みとることができる。
人間が神の手になる自然の法則を尊び、その法則に合わせて生きるときに、救いが可能になる。」
カリフォルニアのあちこちに点在する都市の発祥の地、いわゆるミッションを訪れると、そこからワインがはじまっているのは、それが、ぶどうの産地だったから、いわゆる資金集めのためだと思っていたけど、どうやらそうではないらしい。
彼らが、本気で真剣においしいワイン作りを追求していたことがこの本を通して良く見えてきました。
だとしたら、チーズやチョコレート、ハーブ、シャンパンにウィスキー、いわゆる嗜好品と呼ばれるものが、ミッションで生まれたのは想像に難くありまません。
何でも食べていいのです。
ここから学ぶべきことは、食べる時の気もちなのでした。
断食もそうです。
私が、病気の人や、食べたがらない子どもに無理に食べさせる必要がないと考えるのも、実は、そういうことなのです。
食べる時の気もちが、健康にも信仰にもとても大切だと思う。
英語のクラスの中で、健康というテーマが続いた時、健康のために何をしているかという質問に、朝食を抜く、1日2リットル以上の水を飲むと答えると、水はともかく、朝食抜きに関しては、「それは、健康的とは言えないな〜」と良く言われました。
でも、おなかが満足すると天国のことなんてどうでもよくなるのが、私という堕落の人、だとしたら、せめて、1日に一度ぐらいまともに祈るために、朝の一食を抜くことは、「私の健康」には良いことなのよね・・・。 

ゲツセマネが遠くに見えた日


それから、イエスは少し進んで行って、
ひれ伏して祈って言われた。
「わが父よ、できますならば、
この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」
しかし、わたしの願うようにではなく、
あなたのみこころのように、なさってください。
マタイ 26:39

「それは孤独な祈りであった。
主は愛する弟子たちからさえ離れられた。
主にある友よ、しばしば単独の祈りをせよ。
試練の時こそ特にそうすべきである。
最上の香料はあなたの個人的な礼拝の香炉の中〜神のほか聞く者のない場所で香るものである。」
今朝のスポルジョンのメッセージです。
私も、神さまとの真実な交わりは、密室の祈り以外にないと思う。
人は、やっぱり、人を気にする。
だから、人は、人なわけだから。
良いとか悪いとかではなく、超社会的な被造物という意味で。
そのように造られていると思う。
アメリカで必死に仕事をしている最中に、お兄ちゃんが亡くなった。
たくさんの人がなぐさめの言葉と一緒に私に帰ることを勧めてくれた。
帰れるように祈る言ってくれた。
周囲の期待とは5ヶ月のギャップの後、主の時に日本に送られてきました。
そうすると、今度は、私に日本に帰るようにと勧めてくれたその同じ人たちが、今度は、少しアメリカに帰って来た方がいいと勧めてくれます。
夫やはなの気もちを代弁してくれた人もいました。
孤独な祈りで得る確信は、杯を飲み干すことだったから、それを聞くのはとてもつらいことだけど、でも、それも、愛だと、今は思える。
私、日本に来て、イエスさまに少しだけ、近づけた。
ゲツセマネのイエスさまに、少しだけ、遠く遠くに見える小さな影のようかもしれないけれど、でも、確かに前よりも、近づけたと思う。

 

噂の「修道院の食卓」


さまざまな栄養学的常識が生まれては消え、消えては生まれ、うるさいほどに新しい情報が蔓延する昨今、クリスチャンにとっては、これぞ決定版と思える常識にやっと出会えた気もちです。
うすうす、そうではないかな〜、いや、絶対そうでしょう、と思い続けてきたことを、みことばと照らし合わせて、はっきりと書いてくれて、確信させてくれて、ほんと、ありがとう、という1冊です。
ごはん、パン、麺が大すきで、野菜と豆類をおかずにほとんどそれらに頼って生きてきたこの生涯、それらによって造られた自分の身体をよしよし、と思いました。
断しゃりという言葉(を間違えて理解したのだけど)に震え上がり、その言葉の聞こえるところには決して近づかないようにしていた私。
炭水化物に含まれるお砂糖の量を知ってる?と言われると、急に認知症の人のようなあいまいな笑みを浮かべていた私。
でも、これからは堂々と胸をはって、ごはんとパンと麺が大すきです、と言って生きてゆきたいです。
今週の土曜日がこの本の返却日なのだけど、それまで、朝のひと時で、できるだけ、要領よく要点をかいつまんで、紹介したいと思う。
おいしいビールやワインの成り立ちも、夢のような幸せや癒し、疲れの回復を与えてくれるデザートも、全ては神さまから贈り物であることが、はっきりとわかる聖書的栄養学の分析に、ぱちぱちぱち。
模範的良いクリスチャンになろうとするあまり、好きなものを遠ざけて、ストレスを溜めまくり、周囲の人を裁き、傷つけ、遠ざけてきてしまっていた人に、是非とも知ってほしい事実がてんこ盛りです。

ふるさと


聖なる安息の日曜日、歩けなくなった父のために、父と母と私の小さな家庭礼拝を建て上げて一月、ついに賛美奉仕者が立てられた。
いえ〜い!
今朝は父のハーモニカで「ふるさと」をフルコーラスで母と一緒に歌いました。
♪志を果たして
いつの日に帰らん
山は青きふるさと
水は清きふるさと♪

賛美の後は、お祈りをして、えりさんが送ってくれたマナを囲んでみことばの取り継ぎに聞き入り、最後にもう一度祈って、礼拝を閉じました。
私たちの小さな礼拝を祝福し、もっとみそばに近よせ、深みに漕ぎ出させてくださいとお祈りしてきました。
天国で喜ばれる礼拝へとより大胆に成長してゆきたいです。
来週は「いつくしみ深き」が歌いたいです、と賛美奏楽者の父にお伺いを立てたところ、さっそく練習をしていました。
礼拝の後は、ひとりのお祈りとお買い物を兼ねて、歩いて近所のミニ・ファーマーズマーケット行ってきました。
所持金は500えん。
予算の全てを投じて、チーズケーキとさつまいもタルトとおはぎをふたつ買って帰りました。

Saturday, March 20, 2021

春のわくわく


見なさい。
あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り
わたしをひとり残す時が来ます。
ヨハネ 16:32

最も愛された3人のみ、主の悲哀の奥義のベールに近づくことができた。
しかし、ベールの中には、これらの人々も入ることができなかった。
1人として主と事を共にした者はなかった。
主の御悲哀には、人の知識と同情の達し得ぬ聖域がある。
「彼が与えたもう測り知れぬ喜びのすべては、測り得ぬ苦痛をもって買われしものなり」
今朝のスポルジョンのメッセージです。
イエスさまがいのちがけで、敵の手から守ってくださったものが私たちの測り知れぬ「喜び」だったことは、私たちが、簡単にそれを敵に渡してはいけないということ。
いつも、どこでも、どんなことがあっても。

聖なる安息の日曜日、父と母と私の3人で家庭礼拝をします。
父にハーモニカで賛美歌を吹いてもらえるか聞いてみようと思う。

それから、2週間ほど前に偶然みつけたミニ・ファーマーズマーケットにも行ってみたいです。

昨日洗ったタートルネックのセーターにアイロンをかけてベッドの下に用意した箱に、防虫剤と一緒にしまいたいし、今日は木綿でできたオーバーを洗濯機で洗いながら、それと平行して、マフラーや手袋などを、昨日と同じようにタライで手洗いしたけけど、どうかな、そんなにたくさんこと、できるかな。

春がはじまった日


今朝、ひさしぶりに夫から電話がありました。
とても元気そうでした。
父と母のことを、色々聞いてくれたので、保険やデイケアのことなど、色々報告しました。
それから、小雨まじりの中、新しい靴を履いて、お散歩をしてきました。
ぴかぴかの靴、良い履き心地、そしてとても歩きやすかった。
今日のメイン活動は衣替えその①
タートルネックのセーターばかり5枚、タライに入れて手洗いしました。
セーター用の洗剤で、やさしく押し洗い。
柔軟仕上げ剤にくぐらせ、さっと脱水して、家の中に干しました。
明日、アイロンをかけて、ベッドの下に作ったスペースにしまいます。
少しづつ、この冬、私を温かく守ってくれた、母のお下がりの冬服を大切に洗ってしまって、クローゼットに春のお洋服を下げるスペースを作ろうとしているのです。
春のお洋服なんて、1枚も持ってきていないので、また、大変な衣装もちの母から少しわけてもらわなければなりません。
でも、あんそろぽろじーとかふりーぴーぷるみたいな、可愛い大人のお洋服があれば買いたいな・・・。
明日もどうやら雨のようです。
親子3人で家庭礼拝をして、午後は、読書かな。
ゆっくりしたテンポとやさしい気もちの日々、とても幸せです。
この余裕は、長年をかけて、父と母が作り上げた努力の賜物だと思う。
私も自分の家庭の中に、この余裕を作りたい・・・。
 

Friday, March 19, 2021

冬が終わった日

ほら、冬は過ぎ去り、
大雨も通り過ぎて行った。
地には花が咲き乱れ、歌の季節がやってきた。
山鳩の声が、私たちの国に聞こえる。
いちじくの木は実をならせ、
ぶどうの木は、花をつけてかおりを放つ。
わが愛する者、美しいひとよ、
さあ、立って出ておいで。
雅歌 2:11,12

「わが愛する者、これはいにしえの教会が、最も喜ばしい時に主の油を注がれた者に与えた尊称であった。」
今朝のスポルジョンのことばです。
今朝、瞼を開いた時、「ああ、本当に、ここに春が来た。主がおつくりになった美しい春、暖かい春がここにある。」そう思った。
心のどこかで、このまま、寒い冬にしがみつきたいと願っていたと思う。
サンクスギビングにターキーを焼くことができなかった。
クリスマスもどこかに忘れてきてしまった。
港から盛大に鳴り響く霧笛と花火の年越しは聞こえてこなかった。
バレンタインデーには誰からも何ももらわなかった。
お雛さまも飾らなかった。
でも、重たいオーバーと重たいブーツを脱いで、新しい季節の中に踏み出してゆこう、そう思った。
I've made up my mind that I'm going to live my life and be happy.
I'm going to enjoy my life to the fullest.
今朝、ジョエルさんが私に勧めてくれた、新しい心構えです。

衣替え


今日は、父と母、ふたり揃って、朝の8時半にバンでお迎えに来てもらって、一番近所の大人のデイケアに、半日体験に出かけてきました。
私も行きたかったけれど、今はコロナ対策として、体験は本人だけということで、玄関で手をふって、祈りながら見送りました。
出かける直前に3人で心を合わせて、お祈りしたのだけど、父も母も、玄関先から車に乗せてもらい、座席に着いても、ずっと緊張した表情だったので、心配でたまらず、私は、見送った後、どうやって、帰ってくる1時までの時間をやりすごそうかと途方に暮れそうでした。
こんな時、誰もがするように、とりあえず、靴を履いて、外に出、しばらく歩きながら祈り続けました。
がらんと静かな家に戻って、これが今後、日常になるとしたら、どこかでボランティアでもなんでもして、このからっぽを埋めなければと思っていたら、電話が激しく鳴り、家の中があまりにも静かだったので、とってもびっくりして、絶対に悪い知らせに違いないと思って覚悟して電話を取ったら、なんと廣田牧師でした。
私の息抜きのために、外で一緒にお祈りしませんかと言ってくれたので、父と母はでかけてひとりですと言ったら、さっそく会いに来てくれました。
父のこと、母のこと、彼らの今後のこと、そしてLA の家族のこと、彼はずっと「聞く人」となってくれて、私は、しばらくの間、遠慮せずに、でも順序立てて、冷静に、これまでのこととこれからのことをお話しさせてもらいました。
途中で何度か泣きたくなったけれど、でも、きちんと話して整理したかったので、ぐっとこらえて、静かに話続けました。
ずっと、誰とも話していなかったので、本当に、楽になった。
この3ヶ月間で、はじめてこの家でひとりになったその日、牧師がそうとも知らず、私と1対1で話そうと電話をくれたことの奇跡のようなタイミングに主のみ業と、主のために働く牧師の研ぎ澄まされた霊性に感謝と感動で胸がいっぱいです。
父と母は予定通り、1時に若い介助の人に支えられて無事に帰ってきました。
とても疲れた様子だっだけど、でも、満足げでもありました。
気分が良かったのか、父はお昼寝の後、ハーモニカを吹いていました。
やさしくて平和な、良い音色でした。
夕食時に、お祈りとおしゃべりを終えた私が席を立つと、父が母に、「今日は、どうだった?
楽しかった?」と聞いているのが背中に聞こえてました。
追記:靴を買いました
12月9日、LAX発った日からずっとブーツを履いていました
ずいぶん暖かくなって、お花もたくさん咲いているし、もっと軽い履物が必要と思い、えいっと買いました

Thursday, March 18, 2021

Appreciate Today


彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことはせず、
反対に、信仰がますます強くなって、
神に栄光を帰し、神には約束を成就する力があることを堅く信じました。
ローマ 4:20,21

「主にある友よ、信仰を大切にせよ。
なぜならあなたが祝福を受けるのは、信仰によるほかないからである。
祈りも、それが信じる人の熱心な祈りでなければ、神の御座から答えを引き出すことはできない。
信仰は私たちを神に結合させ、神の力を着せる。
信仰は神の全能の力を私のものとする。
主にある友よ、あなたの信仰に注意せよ。
いかにあなたが貧しくあろうと、信仰によってすべてのものを得ることができるのである。」
今朝のスポルジョンのメッセージです。
みことばにある「彼」とはアブラハムのことです。
アブラハムも旅人でした。
人生の中のどの部分も結局は旅の一部です。
私たちは、この世に生きているかぎり、決して、目的地にはたどり着くことのない旅人。
あの山、この山。
だからこそ、その山のひとつをひとつを贈り物だと思って生きたいです。
結婚したらきっと幸せになれるのに。
子どもが幼稚園に入ったらあれをしよう、そうれば夢がかなう。
病気さえ治れば幸せになれるのに。
子どもたちが大学を卒業したら、暮らしが楽になるからそうすれば・・・。
パンデミックさえ終わってくれれば。
そうやって、永遠に、幸せに憧れ続けている時間なんて、私にはない。
人生はとっても良いものだもの。
今、ここで、幸せになることを選び続けよう。
あの山も、この山も、みんな贈りもの。
蒔かれた場所で一生懸命に咲こう。
咲き続けよう。
人生の全てのジャーニーを楽しみたいです。
今日も。