Sunday, March 21, 2021

「修道院の食卓」の学び 1


外側から人にはいって、
人を汚すことのできる物は何もありません。
人から出てくるものが、人を汚すものなのです。
マタイ 7:15

「膨大な知識を蓄積し、ヨーロッパ文明の向上に大きく貢献した修道士たちは、いつも全体的に思考していた。
なにごとも、つねに全体から見て個々の要素を判断する。
正しい食生活のなかには、一定の断食状態が組みこまれていることも、同じく聖書から読みとることができる。
人間が神の手になる自然の法則を尊び、その法則に合わせて生きるときに、救いが可能になる。」
カリフォルニアのあちこちに点在する都市の発祥の地、いわゆるミッションを訪れると、そこからワインがはじまっているのは、それが、ぶどうの産地だったから、いわゆる資金集めのためだと思っていたけど、どうやらそうではないらしい。
彼らが、本気で真剣においしいワイン作りを追求していたことがこの本を通して良く見えてきました。
だとしたら、チーズやチョコレート、ハーブ、シャンパンにウィスキー、いわゆる嗜好品と呼ばれるものが、ミッションで生まれたのは想像に難くありまません。
何でも食べていいのです。
ここから学ぶべきことは、食べる時の気もちなのでした。
断食もそうです。
私が、病気の人や、食べたがらない子どもに無理に食べさせる必要がないと考えるのも、実は、そういうことなのです。
食べる時の気もちが、健康にも信仰にもとても大切だと思う。
英語のクラスの中で、健康というテーマが続いた時、健康のために何をしているかという質問に、朝食を抜く、1日2リットル以上の水を飲むと答えると、水はともかく、朝食抜きに関しては、「それは、健康的とは言えないな〜」と良く言われました。
でも、おなかが満足すると天国のことなんてどうでもよくなるのが、私という堕落の人、だとしたら、せめて、1日に一度ぐらいまともに祈るために、朝の一食を抜くことは、「私の健康」には良いことなのよね・・・。 

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