Saturday, February 28, 2015

読む練習

★洗濯機を3回ほどまわして、おでんを煮て、ピアノを弾いていたら、あっというまに夕方です。
今日は、家から一歩も出ませんでした。
ピアノは、Come,Thou Fount という曲を、インターネットで探した超簡単なアレンジの楽譜を見ながら弾きました。
楽譜って読まなくなると、読むのが遅く、下手になっちゃうのね・・・。
1小節に6こぐらいしか音符が書いていないのに、間違ってばっかりです。
矢野顕子が、自分の曲が楽譜になっているを見つけて、うれしくて弾こうとしたらあまりにも難しくて弾けなかったって、どこかに書いていて笑ったけど、でも、楽譜を読めなくなることを笑っちゃいかんなって今日、ちょっとマジになっちゃった。
ここだけの話、明日の聖餐式の時に弾くことを目標に真剣に練習しました。(それでもまだ間違ってる情けないワタシ・・・)
★先週、教会で、私の悩みにぴったり応えてくれそうな、本を紹介してくれた友だちがいました。
でもそれは英語だったから、ええ~英語じゃね~っという鈍い反応をしてしまったけど、でもとにかく1日一個だけ、夫のために何かをする、それはすごく簡単なんこと、しかも具体的に何をすればよいか書いているらしいので、ちょっと買って読んでみようかなって検討中。
明日もう一度、タイトルなどくわしく聞いて本屋さんでみてみよう。
楽譜も英語も読まなくなったら、とことん読むのが面倒になることを実感して、ちょっと反省しているわけです。
今日も読んでくれてありがとう!
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ごはんができたよ

おでんを煮てます
明日、教会のフェローシップ・ランチです
そのとなりで我が家のも一緒に煮てます
食べたい?じゃ、うちの教会においで
ローリングヒルズだよ


傷は癒されるために、パンは裂かれるために

それから、七つのパンと魚とを取り、
感謝をささげてそれを裂き、弟子たちに与えられた。
そして弟子たちは群集に配った。
人々はみな、食べて満腹した。
マタイ15:36,37
身体もしくは精神の障害に苦しんでいる多くの人、経済的に貧しい人、ホームレスの人、人間としての基本的必要が満たされないおびただしい数の人がいるのに、日常でもっとも気づかされる
苦しみは、傷ついた心の苦しみです。
もっとも大きな苦しみの源は、ハンディそのものではなく、それに伴う感情、すなわち、自分は役に立たず、価値がなく、感謝もされないし愛されてもいない、という感情です。
死すべき人間として、傷は、私たちの存在の現実です。
そして私たちが、傷ついていることに慣れ親しみ、それを祝福の下に置くにつれて、私たちはいかに多くを与えねばならないかを発見するでしょう。
私は、「共にパンを裂く」という言い方が大すきです。
それは、裂くことと与えることがひとつであることを、とてもはっきりと示しているからです。
愛されている者として、私たちがこの上なく満たされるのは、自分が世界のためのパンになることにあります。
ヘンリ・ナーウィン
どうですか?
カソリックの司祭らしいことば、考えさせられる、味わい深い文章だとは思いませんか?
福音的教会では、あまり、そうは言わない気のする、インパクトのある、真理を貫く矢のようなことばでもあると思います。
18年前の出来事を思い出します。
1997年、私は妊婦でした。
日本から流れてきたニュースに子どもが子どもを殺し、そしてその死体に神をも恐れぬ、冒涜を働いたという、96年の事件の解決がありました。
それで、私はテレビを消しました。
以来、自分からテレビをつけることをやめました。
おなかに男の子がいたのだけど、産むのをやめたくなるほど怖くて、悲しい事件でした。
今でも、時々思い出します。
被害者と加害者の親の傷を思うと、どうやってその後の人生を生きているのだろうと思っていたのは、2000年までです。
私は自分がクリスチャンになってからは、どんな悲惨で悲しい出来事の中にも、人の理解を超えた、神の介入があったはずと考えるようになりました。
そして、今朝、再び、当事者の周りには、そんな、神に愛され、神に祝福された、神の働き人が集められて、神によって裂かれて、神によって与えられた続けていることを信じたいと思いました。
アーメン

追記:時々パンを一緒にたべる小さな女の子のお友だちがいます。
やわらかいロールパンって、ちぎるとへこむし、切り口が裂けるけど、でも彼女と一緒に食べると79倍ほどおいしいのです。

Friday, February 27, 2015

さようなら、楽しかった冬・・・

おつかれさまでした。
やれやれだね。
楽しかった冬も、もうそろそろおしまい
そんな気もちでマーケットをはしごしていたら、私と同じ気もちが表情からにじみ出ている人を一杯見ました。
きちんとしたオフィスで働く服装の人が、大根やら、お刺身やらを品さだめしている横で、私は、やんちゃざかりの子だくさんの専業主婦のような格好で、でも子どもはひとりも連れず、お買い物をして帰りました。
今週末は礼拝の後のフェローシップ・ランチの当番です。
おでんを持って行こうと思っているので、たまご、大根、こんにゃく、そして各種ねりもの、それから、子どもがうれいしいソーセージやミートボールを求めて、あちこちのマーケットを回って帰ってきました。
だから、明日はのんびり、おでんを煮ながら家にこもって家事に専念することができます。
あたたかい日と寒い日がかわりばんこにきていたけど、
あたたかい日の中に春に匂いを感じます
どんな一週間でしたか?
私は、コミュニケーションの大切さを、またひとつ学んだ一週間でした。
園長に、月案について相談するついでに、私が感じる月曜日の問題点と解決策について話すことができました。
そして、彼女はさっそく、私の考える「風が吹けば桶屋が儲かる」の「風」の部分に、共に、対処をはじめてくれて、私はとてもうれしかった。
それで、何かが解決しても、しなくても、それはいい。
この「風」が主によって私たちの幼稚園に送られきていることには、きっと大切な意味や、意義があるはずだから、それを探し続けたいと思うのです。
たとえ、「風」が私たちの手に負えなくてもね。
不思議なくらい、いつも見るたびに1位です。
本当に毎日ありがとう
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裂かれる―Broken

彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、
悲しみの人の病を知っていた。
イザヤ53:3
私たちは選ばれ、そして祝福された者です。
わたしたちはこれを真に自分のものとしたとき、このことに「アーメン」と言うことができたとき、
次に私たちは、自分と他の人の持つ傷にありのままに向き合うことができます。
あなたは傷ついた人です。
私も傷ついています。
私たちの知っているすべての人が傷ついています。
私たちの傷は、じつに私たちのもので、ほかの誰のものでもありません。
私たちが裂かれた者であることは、私たちが選ばれた者、祝福された者であることと同様に独自なものです。
私たちの裂かれ方は、私たちの取り上げられ方、祝福のされ方と同様、私たちの個性の現れです。
そうです。
少し怖い感じがするかもしれませんが、愛されている者として、私たちは自分自身の傷を受け止めるよう召されているのです。
ヘンリ・ナーウィン
そっとやさしく傷を包むようなヘンリのメッセージに、きっとこの『おはようスポルジョン』を通してヘンリの文章にふれたひとすべてがアーメンといってくれていることでしょう。(こういうとこ、私、かなり強引よね)
ついにここね、って思う反面、やっとここかとも思います。
この章の中で、ヘンリは彼の友だちに、自分が文章を書くのは、感じている孤独や孤立感、たくさんの恐れや漠然と感じている不安感に対処する手段だと話したというくだりがあります。
私も実はそうです。
この傷を、私が私のことばにして、「みて、ここ。ちょっといたいの。こんなふうに。泣いたよ。こうやってころんだの。」と書くことを、喜んで読んでくれる人がいて、そして、私の傷や癒しに、自分の傷への対処を知ったり、癒され方や祈り方のヒントを得てくれる人がいることを知った時、私は、これは仕事だと思いました。
召しというか、ヘンリの言葉を借りるなら、神の私への愛し方であり、取り上げ方であり、裂き方であるって。
そしてね、神の存在や、その正体、真理を知ってほしいと思いながら、毎日毎日せっせと書いているのです。
彼はわたしたちのそむきの罪のために刺し通され、
私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
彼への打ち傷によって、私たちはいやされた。
イザヤ53:5
アーメン↓


Thursday, February 26, 2015

臨在の中の大失敗=大成功

わけがわかんないほどのてんてこまいだった月曜日から始まった一週間ももう木曜日です。
ものごとが不思議なほど、あるべき状態であるべき場所に収まり、神のみこころと見事に調和していると思える木曜日。
ハレルヤというほかありません。
昨日、あれほたくさんの犠牲を払いながら慌てて書いたクラスだよりのひとつを、空で送っていたことを今朝、幼稚園に着いて知らされました。
USBのメモリースティックを使いながら作業をしていたので、コピーコピーで、なんだかそんなエラーを起こしそうな予感があったのです。
仕事が間にあわなかったことも残念だけど、昨日ひとりで連絡帳を書いてくれたパートナーのせんせいに申し訳なくて悲しくなりそうになっていました。
でも、落としてよかった。
絶対に、昨日書いたあのままの状態で今日、配られるべきでなかったおたよりでした。
記事にとても大きな間違いをひとつ、それから変更すべき箇所をひとつ今日の仕事をしながら気がつくことができたのです。
配られてしまった後だったら、すごく面倒なことになっていた。
私のことだから、あまりの面倒に、そのまま、ずるっと流してしまったかもしれない。
でもそれは、本当に天と地ほども違う結果になりかねないほど大切なことだったのです。
私は、本当に運のいいひと、神に愛されているひとと自分でも思う。
今夜は本当に心からハレルヤ。
それ以外の気もちには到底なれない夜です。
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小さくて不思議なもの

幼稚園のお庭で、くっついたまま動いている、
おなかの赤い不思議な虫を見つけました
ニュースはまたたくまに広がり、
「ええ~なになに?」「どこどこ!」「みせて~!」
小さくて不思議なものが大すきな子どもたち
大人になるって、そんなことに少しづつ興味がなくなること
でも幼稚園で働く大人は、
子どもたちに負けないくらい、
こんな小さな不思議が大すき・・・

こうちゃんのための朝のお祈り・その3

神さまは
きみをあいしてくださいます
だから、なにもしんぱいしないで
なにもこわがらないで
ダニエル10;18より
きょうもきっといろんなことがあるとおもうけど、
いつも、神さまのしゅくふくをえらぶことができますように
「できっこないよ、むりむり」とささやく、あくまのことばから
どうか ぼくをまもってください
アーメン


そこにたくさん・・・

1日かけて神の祝福を数えたら、
両手の指ではまにあわないほどでした
30分も遅刻したのに、ひとりで私たちのクラスを守ってくれたパートナー
「一緒にやりたいの」って、難しい関係を超えて、
難しい彼女と手をつないでくれた勇敢なひまわりちゃん
パネルシアターを作って見せてくれた担当のせんせいたち
お友だちのケガと涙を知らせにきてくれた、りょうちゃん
私のお姫さまの登園を心から歓迎してくれた、オフィスのせんせい
お昼の1時間とアフタースクールの1時間ぽっきりで、
ふたクラス分のレッスンプランとお便りを作らせてくださった神さま
そして、ひとりでひっしに連絡帳を書いてくれてた、これまたパートナー
とびきりの笑顔で私のお迎えを喜び、
与えられたダンスレッスンを神さまに感謝してくれはな
お米を研いで、ごはんを炊き、お皿を洗ってくれた堅人
そして、今夜も忙しく働きに出ている夫
彼の愛と友情
エトセトラ・エトセトラ
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Wednesday, February 25, 2015

祝福or呪い

月に一度、全学年が集まって見る、お誕生日会でのパネルシアター。
年間10回の出し物は、毎年少しづつ新しいものに差し替えられてゆきます。
今月もそんな新しい出し物でした。
とても興味深い話の展開に、私は全身を耳にして話に集中します。
テーマは正しい食生活で、キーは、力を出す食べもの、丈夫な体を造る食べもの、病気から守ってくれる食べもの。
でも一番インパクトのあった登場人物は、テレビを見ながら食べなさい、好きなものだけ食べないとそそのかすふたりの悪魔くん。
そしても私がもっともはっとしたのは、この悪魔くんの最後の台詞。
正しく食べようとする子どもに、「できっこない、できっこない、むりむり」っと囁くそのことば。
ひょえ~とのけぞりたくなるのを、やっとのことでがんばって写真に治めました。
今朝のヘンリの言葉を思い出します。
祝福の国と呪いの国の間には中立地帯はない。
人はいつも、どちらかの選択にせまられ、そしてどちらかを選び続けている。
心からアーメンではないですか?
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祝福をください

あなたのみおしえを愛する者には
豊かな平和があり、つまづきがありません。
詩篇119;165
祝福は、ただそこにあり、私たちをあらゆる方向から取り囲んでいます。
ただ私たちのすべきことは、それらの前に留まって、それを受け取ることだけです。
それは、私たちに無理強いしません。
ただ、やさしく私たちに思い起こさせてくれます。
自分に向けられた祝福を受け止めないと、あなたはすぐに呪いの国へ導かれてしまうでしょう。
祝福の国と呪いの国のあいだには、中立地帯がほとんど、いいえ、まったくありません。
自分自身の祝福を受けとめていくことは、他の人を祝福したいろいう深い願望に繋がります。
祝福を受けている人の特徴は、自分がどこに行こうと、そこでつねに誰かを祝福しているということです。
ヘンリ・ナーウィン
全く、疑問の余地なし。
完璧にメイクセンスする文章に目が覚める思いです。
実際、この単純で、でも重要な聖書の法則を、私はずっと長い間、心の中に眠らせていた気がします。
さっそく、これから起きてくる家族を祝福したい気もちで心が一杯です。
さっそく、幼稚園に走って行って小さな人たちを祝福したい気もちで胸が一杯です。
先週の日曜日の朝のことです。
フリーウェイを降りたところにひとりのホームレスがいました。
私の小さなモットーのひとつに、ホームレスの前を素通りしないというのがあります。
食べものがあるときは、食べものをあげます。
お金があるときは、お金をあげます。
両方ないときには、祈ってあげます。
日曜日はお財布に一ドルが数枚あったのに、私は、彼の前を通りすぎました。
そして、祈ることもしませんでした。
お金があるのに、とまってあげることをしなかったから、神さまに気まずくて祈れなかったのかもしれません。
うしろからはなに、「いたよ」って言われ、私は我に返り、神さまにも信号で止められ、一ドルを一枚はなにあげてもらいました。
彼は、私たちを祝福してくれました。
祝福は、本当にあちこちにあって、私たちを待っています。
今日もそんなたくさんの祝福をたくさん見つけることができますように。
アーメン
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Tuesday, February 24, 2015

風が吹けば桶屋が儲かる

今朝の『おはようスポルジョン』でのデボーションがばすっと私の心の真ん中にヒットし、とても良い1日となりました。
行きのクルマの中では気になるふたりの子のために祈ることもできました。
私が彼らの親ならどう祈るだろう、私が彼らの造り主ならどう祈ってほしいだろう、私が彼らのために十字架につけられる贖い主ならどうとりなすだろう、私が彼ら霊ならどう祈られたいだろう、って、そう思いながら祈りました。
祈ってから、しばらく、超・能天気なジャズのピアノ演奏を聴いていたら、心に、「風が吹けば、桶屋が儲かる」のことばが浮かんできたので、さっそくそれについて真剣に考えてみています。
矢野顕子が歌にしそうなこの言葉、でも私は歌には到底できないので、一生懸命に、自分なりに、お話を組み立ててみました。
そしてひとつの因果関係的サークルができました。
それは、本当のところどうなのかわからないけど、でも、何もしないよりはよっぽどマシなので、その因果関係サークルの風の部分にまず、目を向けてみようと思うわけです。
私は、今までどんなことでも1位になんてなったことがないので、これは、よくできたジョークのように思っていたけど、っていうか今も思っているけど、でも、あれから3週間経ってもまだ1位だから、もしかしたらホントなのかもしれませんね。
本当に毎日読んでくれてありがとう。
  


帰属感

私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。
私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。
たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、
私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。
詩篇139;7,8
あなたも私も、自分がいかに気分で流されやすい者であるかをよく知っているはずです。
ある日、とても気分がよくても、次の日は惨めな思いになります。
ある日、次から次へと新しい発想が涌いてきても、次の日はすべてがつまらない、たいしたことでないように思えます。
ある日、世界のどんな問題でもやって来いと考えますが、しばらくすると、ほんの小さな課題さえも手に負えないと感じます。
しかし、私たちが深くやさしい声に、すなわち、私たちを祝福する声に耳を傾けるかぎりは、私たちはしっかりとした安定感と真の帰属感を抱きながら、自分の行程を歩き通すことができます。
沈黙の中に歩み入り、この世界の騒々しい、「あれをしないさい、これをしなさい」と要求する多くの声をあとにして、その先に、「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」という、小さな親しい語りかけを見出すことは容易ではありません。
しかし、あえて私たちが神の前で静まることを受け入れ、沈黙に親しもうとするなら、その声を知るにいたるでしょう。
ヘンリ・ナーウィン
今朝の私にぴったりの、ヘンリのメッセージでした。
ヘンリの帰属感ということばが大すきです。
カナダ人のヘンリの英語にはきっと、アイデンティティとあったことでしょう。
でも、その言葉をいつもなんだか、ちょともてあましていたけど、今朝、帰属感と言われ、ほんの少し、帰属感の芽のようなものが生まれた気がします。
私のアイデンティティは、クリスチャンといういうブランドやキリスト者というレッテルにあるのではなく、天国にあったのでした。
だから、天の声を、天の静けさの中で聴こう。
単純なメッセージに、単純に心からアーメンと思います。
昨夜は、めずらしくよく眠れませんでした。
人の声が重い空気となって、部屋に満ちていて、寒くて、苦しい夜でした。
なぜか、本当に不思議なことに祈らなかった。
祈るという手段がこの世界に存在しないかのように、私はひとりで苦しみながらただ寝返りをくり返していた。
すごく、不思議だけど、まさに敵の領地での苦しみだったことに今朝、気づきました。
『おはようスポルジョン』のタイトルの横にローマの8:38を英語の訳で掲げて続けてきた私なのにね。
Love...nothing can ever separate us from God's love
アーメン
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Monday, February 23, 2015

月曜日の問題

いきなり山場の月曜日がなんとか終わりました。
どうしても、なんだか、がたがたと、でこぼこ感の拭えない月曜日。
x何が問題で、何が不足していて、何が必要で、どうやって改善してよいのか、いつまでたってもわからない月曜日。
ホントは問題なんてなかったりしてね。
ただ、迷惑がられたり、うるさがられたり、この子をどおにかしなさいよ的プレッシャーがただ嫌なだけだったりしてってジョーダンみたいに考えてて、えっ、その通りだったりしてと思ってみたりしています・・・。
本当につらい月曜日。
どうしてもうまくいかない月曜日。
全力でがんばっても人一倍迷惑な人となっちゃう月曜日。
愛の供給と愛の必要のバランスが全然間に合わない月曜日。
自分の愛のなさが、物理的にも視覚的も感覚的にも、ありとあらゆる方向から見せつけられる月曜日。
終わったけど、あと7回寝たらまたやってくる月曜日。

クリスチャンブログ

Sunday, February 22, 2015

Happy Anniversary to me

この1年、私の教会生活は本当に平和で幸せでした。
ここは、今はもうない、私が洗礼を受けた教会にとてもよく似ています。
その時、私の救いのために祈ってくれた人がなんと3人もいて、そしてあの頃のまま、今も私は彼女たちに愛され、そして祈られています。
まるで、あの頃のまま・・・。
ここに座りなさいと世話を焼かれ、何がしたいの?何を言いたいの?と心配をされ、そして一緒に祈りましょうってさっさと先に祈られちゃている。
家から10分なので、毎日2時間半を通勤に費やす私にとっては、うそのような近さで、口紅をつける時間さえありません。
一息で祈らなければ着いてしまう近さです。
ここに落ち着きたいと思います。
一緒に年を重ねる愛する姉妹方がいて、運転できなくなるほどに年をとっても、ここなら、親切な誰かに連れて行ってもらうのにも、迎えにきてもらうのにも、小さな気兼ねですむしね。
でも、一番の理由は、私の平安のホントのわけは、神さまと私のふたりだけのひみつです。
そして、もう、楽しくなかった出来事は全て忘れる決心をしました。
過去に出会った全ての人の祝福を願うことができるようになりました。
一年かかりました。
でも、よかった。
ここにこれて。
もう、一度、Happy Anniversary to me.
あなたの応援にいつも感謝しています
  ↓

私にも祈りことがあれば教えてください 
ohayospurgeon@gmail.som

私の教会

今日でちょうど一年になります
いま、私はここを「私の教会」と呼びたい気もちで一杯です
今日はそんな私たちの教会を
はなと私でご案内いたします
日曜学校へは、駐車場から、
教会敷地内を走るシャトルで行きます
たくさんのサービスがあるのでたくさんのひと
でもひとつの教会です
教室に入るときに、名札をもらいます
3年生と4年生の合同クラス
聖書の話とディスカッションとゲーム 先生も一杯います
はなが聖書のお勉強をしている間、
私はこのチャペルで日本語で礼拝を捧げます
私の先生
彼のオーガニックなメッセージが
今の私の7日間の霊の糧です
礼拝後、再びシャトルではなを迎えに行きます
帰りに、全然違うグループのころころドーナツを
ふたつもらうのがはなの楽しい習慣です
そして、毎週のフェローシップ・ランチョン
来週は私もお当番のひとり
おでんを予定しています
ハレルヤ!
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Happy Anniversary!

私たちの交わりとは、
御父および御子イエス・キリストとの交わりです。
ⅠヨハネⅠ:3
今日は私とはなの記念日
この教会に迎えられてちょうど一年が経ちました
私たちがこれを書き送るのは、
私たちの喜びが全きものとなるためです。
ⅠヨハネⅠ:4
今日もありがとう
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