Saturday, February 28, 2015

傷は癒されるために、パンは裂かれるために

それから、七つのパンと魚とを取り、
感謝をささげてそれを裂き、弟子たちに与えられた。
そして弟子たちは群集に配った。
人々はみな、食べて満腹した。
マタイ15:36,37
身体もしくは精神の障害に苦しんでいる多くの人、経済的に貧しい人、ホームレスの人、人間としての基本的必要が満たされないおびただしい数の人がいるのに、日常でもっとも気づかされる
苦しみは、傷ついた心の苦しみです。
もっとも大きな苦しみの源は、ハンディそのものではなく、それに伴う感情、すなわち、自分は役に立たず、価値がなく、感謝もされないし愛されてもいない、という感情です。
死すべき人間として、傷は、私たちの存在の現実です。
そして私たちが、傷ついていることに慣れ親しみ、それを祝福の下に置くにつれて、私たちはいかに多くを与えねばならないかを発見するでしょう。
私は、「共にパンを裂く」という言い方が大すきです。
それは、裂くことと与えることがひとつであることを、とてもはっきりと示しているからです。
愛されている者として、私たちがこの上なく満たされるのは、自分が世界のためのパンになることにあります。
ヘンリ・ナーウィン
どうですか?
カソリックの司祭らしいことば、考えさせられる、味わい深い文章だとは思いませんか?
福音的教会では、あまり、そうは言わない気のする、インパクトのある、真理を貫く矢のようなことばでもあると思います。
18年前の出来事を思い出します。
1997年、私は妊婦でした。
日本から流れてきたニュースに子どもが子どもを殺し、そしてその死体に神をも恐れぬ、冒涜を働いたという、96年の事件の解決がありました。
それで、私はテレビを消しました。
以来、自分からテレビをつけることをやめました。
おなかに男の子がいたのだけど、産むのをやめたくなるほど怖くて、悲しい事件でした。
今でも、時々思い出します。
被害者と加害者の親の傷を思うと、どうやってその後の人生を生きているのだろうと思っていたのは、2000年までです。
私は自分がクリスチャンになってからは、どんな悲惨で悲しい出来事の中にも、人の理解を超えた、神の介入があったはずと考えるようになりました。
そして、今朝、再び、当事者の周りには、そんな、神に愛され、神に祝福された、神の働き人が集められて、神によって裂かれて、神によって与えられた続けていることを信じたいと思いました。
アーメン

追記:時々パンを一緒にたべる小さな女の子のお友だちがいます。
やわらかいロールパンって、ちぎるとへこむし、切り口が裂けるけど、でも彼女と一緒に食べると79倍ほどおいしいのです。