Friday, February 27, 2015

裂かれる―Broken

彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、
悲しみの人の病を知っていた。
イザヤ53:3
私たちは選ばれ、そして祝福された者です。
わたしたちはこれを真に自分のものとしたとき、このことに「アーメン」と言うことができたとき、
次に私たちは、自分と他の人の持つ傷にありのままに向き合うことができます。
あなたは傷ついた人です。
私も傷ついています。
私たちの知っているすべての人が傷ついています。
私たちの傷は、じつに私たちのもので、ほかの誰のものでもありません。
私たちが裂かれた者であることは、私たちが選ばれた者、祝福された者であることと同様に独自なものです。
私たちの裂かれ方は、私たちの取り上げられ方、祝福のされ方と同様、私たちの個性の現れです。
そうです。
少し怖い感じがするかもしれませんが、愛されている者として、私たちは自分自身の傷を受け止めるよう召されているのです。
ヘンリ・ナーウィン
そっとやさしく傷を包むようなヘンリのメッセージに、きっとこの『おはようスポルジョン』を通してヘンリの文章にふれたひとすべてがアーメンといってくれていることでしょう。(こういうとこ、私、かなり強引よね)
ついにここね、って思う反面、やっとここかとも思います。
この章の中で、ヘンリは彼の友だちに、自分が文章を書くのは、感じている孤独や孤立感、たくさんの恐れや漠然と感じている不安感に対処する手段だと話したというくだりがあります。
私も実はそうです。
この傷を、私が私のことばにして、「みて、ここ。ちょっといたいの。こんなふうに。泣いたよ。こうやってころんだの。」と書くことを、喜んで読んでくれる人がいて、そして、私の傷や癒しに、自分の傷への対処を知ったり、癒され方や祈り方のヒントを得てくれる人がいることを知った時、私は、これは仕事だと思いました。
召しというか、ヘンリの言葉を借りるなら、神の私への愛し方であり、取り上げ方であり、裂き方であるって。
そしてね、神の存在や、その正体、真理を知ってほしいと思いながら、毎日毎日せっせと書いているのです。
彼はわたしたちのそむきの罪のために刺し通され、
私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
彼への打ち傷によって、私たちはいやされた。
イザヤ53:5
アーメン↓