私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。
使徒17:28
私たちは、愛されている者であるだけでく、愛されている者に「なる」必要があります。「愛されている者になるとは、私たちが愛されているという真理を、私たちの考え、言葉、行動のすべてにおいて肉づけさせること」です。
「愛されている者」ということが、生活していて気分が落ち込まないようにと掲げた標語であるかのように、美しい考えや高尚な理念でしかないなら、何事も変わりません。
私たちに求められているのは、ありふれた日常的な自分という存在が、「愛されている者になる」ということです。
自分がどのような存在であるかを知って、毎日の生活の数えきれない個々の現実と自分とのあいだにある隔たりを少しづつ埋めていくことです。
愛されている者になるということは、天から啓示された真理を自分の生活によって、すなわち、日々の自分の考え、会話、行ないによって、日常化していくことです。
私たちにとってもっとも深遠な真理が、愛されていることであって、私たちのもっとも大きな喜びや平安が、その真理をたっぷりと受け取ることから来るとすれば、それは、食べたり、飲んだり、話したり、愛したり、遊んだり、働いたりするような形で目に見え、手で触れられるものであるはずです。
ヘンリ・ナーウェン
ヘンリからのお手紙を読んで感じたことを家族にシェアしているような、今回の『愛されている者の生活』の読書日記だけど、聖書のことばを自分で選ぶという点は、とても新しい経験です。
知っている聖書の言葉を思い浮かべて、具体的にどこの何かを探すってとても大変なのね。
すっと出してくる牧師から、「はいはい、これですね、どうも」ってあたりまえみたいに、受け取ったことがあったけど、それが大変な職人技であったことに気づきます。
私の働く幼稚園の今月のテーマのひとつに、『五感』というのがありまます。
これは私にとって、初めての仕事でした。
ひとつ授業のトピックではなく、月のテーマなので、あれこれ考えました。
それで、たどり着いたのはやっぱり愛。
五感に響く立体的な愛
クリスチャンはみんな、そこに向って生きているから、なんでもかんでも、結局そうなっちゃうわけです。
でもそれが一番大切と信じているわけです。
聞こえる愛、見える愛、おいしい愛、あったかい愛、気もちいい愛、楽しいは愛、痛いもやっぱり愛。
アーメン
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