Monday, March 22, 2021

「修道院の食卓」からの学び 2


イエスは言われた。
「わたしは、苦しみを受ける前に、
あなたがたといっしょに、
この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことことか。
ルカ 22:15

「食べ物は恵みとして讃えられ、敬意と感謝をもって食せられるべきである。
食べ過ぎは体だけではなく、霊や魂も不健全な悪い状況に陥らせ、ついには身体と魂をともに損ねる病気に導く。
食べ過ぎほどキリスト教に反するものはない。
神の創造には、もともとひとつの方向に行くとまた元に戻ろうとする振り子のような性質があり、それが調和を作り出している。
食事と断食のくり返しによってのみ、人間の生活にも同様のリズムが生じ、心と体の調和が保たれる。
神と神が造られた世界に対し、畏敬の念をいだきつつ対話する文化は、生産者の必要性と経済効率、そして生産物とそれを生みだす環境のどれも傷つけることはない。」

みことばは、自分で選びました。
今朝、スポルジョンに導かれて、開いたルカの22章からです。
そして、思いました。
いつも、最後の晩餐だと思おう。
どの食事も。
神さまと、神さまがお造りになられたこの地の産物に感謝しよう。
それは、決して、神の愛なくして、育たないのだから。
神の愛を感謝して食べよう。

昨日の夜に書いた記事への神さまのお返事が、このみことばであったとはっきりと思う。
シランティロと紫のキャベツを買ってきてサラダを作ろう。
セロリを買ってきて、野菜スープを作ろう。
食べたいと身体が願うものを作って食べよう。
フリーザーにたまってゆく冷凍ご飯の山にため息をつくのをやめて、母が炊いてくれる炊き立てごはんで、大すきなたまごかけごはんを食べよう。
冷蔵庫にたまってゆくおかずのストックのおいしい食べ方に胸を痛めるのをやめて、すっと生卵をひとつ取り出して、ごはんにぽとんと落として、お醤油をつけた海苔でまいて食べよう。
残された問題については、その後、ゆっくり考えよう。

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