あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。
私たちは夜や暗やみの者ではありません。
ですから、ほかの人のように眠っていないで目をさまして、
慎み深くしていましょう。
1テサロニケ 5:5,6
「友よ、十字架に近くおれ。
そうすればあなたは眠ることがないだろう。
あなたの行先の価値を深く心に銘記するようにつとめよ。
もし天国に旅していることをおぼえるならば、あなたは途中で眠ることはない。
うしろに地獄があり、悪魔があなたを追いかけていることを考えれば道草はできない。
主にある友よ、真珠の門が開かれ、天使の歌があなたの参加を待ち、黄金の冠があなたのために準備されているのに、あなたは眠っているのだろうか。」
今朝のスポルジョンのメッセージです。少し前に借りてもう返してしまった本、日野原重明の文章に、「眠っている時間は生きている時間に数えない」というような意味のことばがありました。
その時は、それほど気にとめず、メモをすることもありませんでした。
でも、ちらりと「彼は健康だから、そんなことが言えるのだ」と思ったのを覚えているのです。
少しづつ少しづつ死んでゆくという人もいる。
100%の覚醒の中で全力全霊をもって生き抜き、ある日ある時0%の覚醒になるというのは個人の憧れであって、現実には、さまざまな終末が主によって用意されていると思ったのです。
でも、今朝、ここのテサロニケの5章を読んでみて、思うのは、霊は、肉体の内に宿る霊は常に燃やしていなければならないという意味であったのかもしれないなと思った。
抵抗のできないものに対する闘いではなく、抵抗すべきは敵の「眠れ、そして神を忘れよ、辛い現実を忘れよ、救いの真実を忘れよ」という悪魔のささやき。
神がくださった聖なる神殿である肉体は抵抗すべき対象ではないなら、父の寝顔もまた、私には慰めです。
手を上げてスポルジョン先生に質問したいな。
パウロでもいいけど。
いや、神さまに聞こう。直に。
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