Wednesday, August 28, 2013

原始人の痛みと癒し②

月曜日と火曜日の間の夜の前半、私はかつてない凄まじい痛みの中で「痛みは引き受けるとして、この痛みの中での判断力は、主よどうかあなたが私に与えてください」っと祈りました。
でも後半、たぶん2時ぐらいから明け方、わけがわからないほど痛くなって、「一応、痛みは引き受けてみたけど、もしかして担いきれないかもしれません。間違えて死んでしまったらごめんなさい。でも、もし、この痛みから解放されるなら何でもします。」とそう祈りました。
そして、ある一つの私の中の苦い思い、見当違いな被害者意識を示され、ああそれを解決しよう、と思い、翌日、痛みの波の合間の休息に神さまとの約束を実行すべく、電話をかけて、ある壊れそうだった関係を修復しました。
神は私を赦し、私は彼女を赦し、彼女も私を赦してくれた。
彼女はずっと私を赦し続けてくれていた。
忘れられないのは、彼女の言葉。
『この電話は、是非とも、必要だった。なければ、なにげなく、続けていた大人のふりの関係も、きっとどこかで嘘がばれていた。』
彼女はとことん主に愛されている人と思った。
そして、私は、こんな痛みがないと気づかない鈍い、頭の悪い、不信仰者と、主に扱われたっとは思わない。
私もまた、神に、別な、愛され方をしていると思う。
たぶん。
いえ、きっと。